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東急池上線、旗の台駅から荏原方向へ中原街道を行く。中原街道は、家康治世の時代に整備されたとあって街道筋には、多くの祠、石仏など民俗文化財が、品川区の有形文化財に指定されている。
(下の写真 高札場跡) 昭和大学病院と道を隔てた向かいの道筋に「札場の跡」と刻んだ自然石と小規模の木霊(こだま)稲荷神社がある。中原街道は江戸から相模国中原へ向う主要道路であり、人目につきやすいこの場所柄、高札を立てた札場で、また昭和41年までここに東京都天然記念物指定の樹齢約400年の大ケヤキがあったと掲示板にある。大樹には神が宿るとの原始的信仰から幹に神垂(しで)が巻かれている所が多いが、その延長として、そこに神社を建て、木霊稲荷神社と名付けたのであろう。 (下の写真:庚申供養塔) 中原街道を行くと、東急目黒線西小山駅への分岐点に、寛文5年(1665)の庚申供養塔が建っている。品川区内の庚申塔50基のうち3番目に古いとある。庚申塔は、元来、中国道教に由来するものだが、ここの供養塔には「南無法蓮華経」の題目が中央に彫られており、江戸時代には、全村、日蓮宗の影響が強かった地区を示す資料として庚申供養塔が区の民俗文化財に指定されている。 (下の写真:中原街道分岐点 左が旧道) 中原街道は、平塚橋交差点から左斜めに旧中原街道に分かれる。品川区教育委員会の掲示板には、江戸時代、玉川上水を水源とする農業用水がこの辺りを流れ、現在の平塚橋交差点あたりに橋が架かっていたとあるが、今では、暗渠化され橋はなく、ただ平塚橋の名前を残す石碑が立っているだけだ。 旧中原街道は、交通量も人通りも少なく、いかにも利便性最優先の都市化が進む街から取り残された静かな裏通りだ。家屋と道路の僅かな合間に植木鉢を並べ、干し物をひさしに掛けた家並に心のぬくもりを感じる。旧道の長さは1キロメートル足らずで再び新道と合流し五反田方面へ行くが、この短い裏通りに江戸期に立てられた供養塔群が2箇所あり、それぞれ複数基の供養塔が立っている。 (下の写真:戸越地蔵 と 子別れ地蔵) まず、第2供養塔群のある戸越地蔵は村の守護神として、また、第1供養群にある子別れ地蔵は、かつて桐ヶ谷火葬場に続く道筋にあって、子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所に立っている。いずれの供養碑、地蔵も清掃が行き届き、活花が供えられており、地域住民の生活に定着している様子が伺える。 #
by dankkochiku
| 2016-03-31 23:50
| 徘徊老人紀行
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7月の参院選を前に与野党それぞれ有権者への撒き餌を活発化させている。低所得高齢者への1人当たり3万円支給、高齢者だけかと突っ込まれて、若年低所得者層に商品券支給案。来年4月予定の消費税増税の延期案。野党第一の民主党も負けじと、「返済不要渡しきり奨学金」創設案。その前に政権を取らなくてはなるまいに、まさに捕らぬ狸の皮算用だ。どうせ選挙後は分裂と陰口が囁かれる民主、維新の両党合併を前に党名を決める段階での両党の違いが浮かぶ。1票の格差についての最高裁違憲状態判決への各党の反応は煮え切らない。なるべく格差是正を遅らせたいのが本音のようだ。違憲とされてきた集団自衛権行使をも内閣の解釈で合憲に変える政治マジック。
北方領土対策も拉致問題も一向に解決の兆しが見えない。それなのに、それぞれの担当大臣は、その責任も取らず、内閣改造ごとに新顔へ変更するのも我慢ならない。ただのゼスチャーで本音は、予算獲得、体制固めの論功行賞人事、大臣の頭数増やし目的としか見えない。だから、「歯舞島」の名前が読めない北方対策担当大臣が出たり、地域再生法改正案の趣旨説明で、昨年成立済みの改正内容のペーパーを国会で読み上げた閣僚経験豊富な地方創生担当相が出る始末。目下、告発され、収賄罪が発覚しそうな経済担当の主要ポストにあった元大臣などが出てくるわけだ。まさに内部崩壊寸前の末期内閣の様相が感じられる。 世論調査で、かつては60%を越えた安倍内閣支持率は、最近は下がり気味で、今月時点のNHK調査では約46%。それでも自民党支持率は37%台で、10%にも及ばない他党を足元にも寄せ付けない一強多弱の政局は変わらない。 その政権与党、参院選では定数の3分の2を取れると踏んで、首相は、改憲を「在任中に成し遂げたい」と国会通過の突破口を模索している。一般国民の目を一時的な経済政策に向けさせ、国の将来を変える安保法制法案は、今月29日に施行予定。これを前に遅ればせながらやっと国民の反対の声が高まりだしたが、手遅れの感しきりだ。大津地裁が、高浜原発再稼働停止の判決が出ても、「再稼動方針は変わらない」と一顧だにしない姿勢の安倍総理は、三権分立を無視した高慢さそのものだ。だが、自画自賛のアベノミクスも最近の経済動向に直面し、参院選、衆参同時選には一抹の不安を隠せないようだ。 選挙前になると、いつも「国民の皆様」を声高に、憂国の士ぶりながら、露骨な党利の横行に警戒しなくてはならない。参院選挙を間近に控え、政治家たちの景気よい撒き餌、疑似餌に騙されないようにしよう。「おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」(平家物語)。 #
by dankkochiku
| 2016-03-22 21:57
| 時評
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地下鉄西大島駅から地上に出ると明治通りと新大橋通りの交差点にでる。その一角に「羅漢寺」があり、その道向こうの住民センター前に「五百羅漢跡」の石碑が立っている。(下の写真:羅漢寺 五百羅漢石碑)
江東区が昭和33年に建てた石碑には、「元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せられ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年(1887)に墨田区へさらに同四十二年(1949)に目黒区へ移転した」とある。 目黒へ移転のわけは、この辺りが埋立地で、度たび洪水に見舞われ、寺は荒廃し、五百羅漢像も守れなくなったためといわれている。安藤広重の描いた羅漢寺の周辺一帯は田んぼだったし、今もこの辺りは海抜、-1メートル。因みに、目黒区内でも土地の低い下目黒にある五百羅漢寺付近の海抜でも、10メートルあるし、大島から下目黒へ移された羅漢像は305体と数こそ減ったが、移転によって関東大震災からも戦災からも免れたことはなによりも幸いだった。 では、現在、大島の交差点にある鉄筋コンクリート3階建ての羅漢寺は何かというと、元の羅漢寺が下目黒へ移転後の明治36年(1903)に、その跡地に奥多摩町氷川にあった曹洞宗の祥安寺が移転してきた寺院で、昭和11年(1936)に羅漢寺と改称し、現在に至っており、元の羅漢寺とは歴史的つながりはない。 新大橋通りを西へ向う。貨物専用線が残るガード先にある俳人・小林一茶ゆかりの神社、愛宕神社へ行く。一茶の句帳や日記に「本所五ッ目・愛宕山」とあるのは、40代前半の一時期を愛宕神社に仮住いしていた当時と思われる」と江東区の説明にある。しかし、境内の石碑にある「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」の有名な句がここに仮住まいしていた当時のものかどうかは、明らかでない。 愛宕神社から明治通りへ一旦戻り、小名木川方向へ行き、大島4丁目団地を過ぎた辺りを右折し、釜屋堀通りを行く。(下の写真:釜屋堀跡?、釜屋跡碑) 「釜屋堀通り」は、大正時代まで、この辺りで鍋釜などの日用品のほか、浅草・浅草寺の梵鐘、両国・回向院の銅造阿弥陀如来坐像などを仕上げた鋳物工場のあった場所。関東大震災を受け、いまではその面影なく、大島橋たもとの児童公園「釜屋堀公園」には、「釜屋堀」の名残のような小さな池と、教育委員会が立てた釜屋跡碑を残すのみだが、石碑には、「太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六 釜七と称し 寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまもなくこの付近に住い 釜六は明治時代まで 釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ なべかまの日用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した 昭和33年10月1日 江東区第十九号。」とある。 また公園には、明治20年(1887)、ここ釜屋堀一帯で創業したわが国最初の化学肥料製造会社、東京人造肥料会社本工場(現・日産化学工業)による日本近代農業への功績を称える言葉と、その用地250坪を公園として昭和19年に都に寄付した感謝の気持ちを述べた東京都による記念碑があり、また、公園内には、「化学肥料創業記念碑建設会」による、記念碑「尊農」(上の写真)には、会社創設協力者として、渋沢栄一(1840-1931、第一国立銀行、東京証券取引所、理化学研究所の創設者)、益田孝(1848-1938、三井物産、日本経済新聞社創始者)、高峰譲吉(1854-1922 理化学研究所創設者の一人、人造肥料会社(現、日産化学)設立者。消化薬タカジャスターゼ発明者、現、第一三共の初代社長)等諸氏の先導による化学肥料開発の功績を称えている。 近年、化学肥料(化成肥料)から有機肥料を用いる有機栽培農業を重視する動きがあるが、家庭菜園程度ならいざ知らず、農業を営む以上、堆肥、草木を燃やした灰、魚粉、米糠、油粕、家畜の骨粉、糞を熟成させた肥料の使用に頼ったかつての農業では、農作物の大量生産、安定供給、価格安定性などの面から、今更、有機肥料にだけ頼ることはできず、両者の適当な使用が必要であろう。 #
by dankkochiku
| 2016-03-07 17:37
| 徘徊老人紀行
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大島町と砂町の境を流れる小名木川の両岸には、どうしてこんなに大型マンションが密集しているのだろうかと思いながら、閑散とした道を西へ行く。やがて丸八橋、丸八通りに出る。丸八の名の由来は、明治時代、この通りにあった丸八線香店だそうだが、いまはない。
丸八橋のたもとに大島神社(大島5丁目)がある。由緒碑には、ここは海辺、小名木川に近く、数度の津波で耕地は荒廃し、悪疫が流行り、村民相謀って稲荷神社を建てたとある。(上の写真) 境内に松尾芭蕉の像と、傍に「女木塚」の石碑がある。石碑の筆文字は風化して読み取れない。案内板には、奥の細道へ旅立つ前に深川から小名木川を船で行く途中、芭蕉がここに立ち寄り、「秋に添えて行くはや末は小松川」と詠んだ句が彫られ、ここは芭蕉ゆかりの神社とある。(上の写真) ところで石碑の「女木塚」は「おなぎづか」と読み、「小名木川」(おなぎがわ)の塚との説がある。しかし、小名木川の名の由来は、天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸入府した際、行徳(千葉県)から塩を搬入するために小名木四郎兵衛に運河の開削を命じたので、この名が付けられたとも言われ、ずれも 史実のほどは分からない。 また、案内板には、大島辺りは水が悪く、小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売りが来ていた様子を小林一茶が「かじの音は耳を離れず星今宵」「水売りのいまきた顔や愛宕山」(文政2年)と詠んだ句も紹介している。当時は、汚水を小名木川に流すのが普通だったようだ。愛宕山とは、港区にある愛宕山とは思えない。とすると、一茶が5年間ほど仮住まいした「大島愛宕神社」(大島2丁目)のことだろうか。 通りすがりの方に道を伺うと、「歩くと結構ありますよ」との忠告を聞かず、折角ここまで来たのだからと、丸八通り先の商店街、砂町銀座を目指して歩く。 マスコミにも幾度か紹介されたこの商店街は、丸八通りから明治通りまで東西670メートルにわたる商店街。商店街ホームページには、昭和7年に始まった商店街が、戦後、戦災から復活し、最近では、観光地にもなっているようだ。道幅はさして広くない商店街だが、地元民の生活に密着した店舗が多い。八百屋、魚屋、肉屋、酒屋、菓子店、惣菜・弁当屋など食品、飲食店。和洋衣料店。薬局、時計店、理容店、パチンコ屋から医院、教会、銭湯、稲荷神社まである。(上の写真) 銀座と名の付く商店街では、品川区の戸越銀座が1.3キロあまりの長い商店街があり、高級志向のグルメ店、食料店などが多い。高級志向とは縁遠い私には、普段着姿の地元の人たちで混み合い、気軽に店内を覗ける砂町銀座に親しみを覚え、つい2個100円の干し柿を買い、歩きながら食べる。 ただ、ここの難点は、交通不便な場所にある。JR総武線、半蔵門線錦糸町駅、東西線東陽町駅、新宿線西大島駅からいずれもバスの便しかなく、バス停で、ここを通るバスを探さないといけないことだ。(つづく) #
by dankkochiku
| 2016-02-26 21:40
| 徘徊老人紀行
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昭和10年代前半のこと、両国、平井間を走る総武線の南側にたくさんの煙突が見えた。電車が走ると煙突群も同じ方向へ動いていくのが子供心にとても不思議だった。それが誘導運動錯覚と呼ばれる一種の目の錯覚と分かったのは、後になって学んだ心理学からだった。
煙突の立ち並んでいた場所は、堅川と小名木川を包む一帯の明治時代からの工場群だった。今は、戦争末期の米軍の空爆で壊滅状態になって見えない。 戦後、ここに軽工業が復活し始めたものの、昭和40年代になって、良好な市街地環境作りに、工場建設を制限する法律ができ、工場は市外へ撤退した。広大な工場跡地は、都心への交通便利な場所とあって、都市計画に沿って商業系、住宅系の土地利用が進み、軒を並べていた木造平屋、長屋の工員社宅に代わって公営の大型マンションが次つぎと建った。なお、前回、ブログで紹介の月島地区の大型共同住宅の多くが民間分譲住宅であるのに対して、江東区のこの辺は都営賃貸住宅が多いようだ。 (下の写真 東大島駅前) やっと地上へ出た地下鉄東大島(ひがしおおじま)駅に着くと、目前に広がる幾棟もの大型マンション、それに整備された運動場、公園を備えた新興地に目を見張る。 この一帯は、旧中川の川辺にあって、昭和30年代までは、雨季のたびに川が溢れる洪水の町だった。江戸時代に埋立てた弱い地盤のうえ、地下水を工場用水として大量に利用したため、地盤沈下を起こし、いまも江東0メートル地帯。しかし、このイメージからはとても想像できない整備された町だ。 ただ、工場の撤退は、そこから出た産業廃棄物の問題を残した。江東区によると、昭和40年代後半から昭和50年代前半にかけて、日本化学工業(株)小松川工場(昭和47年操業停止)から排出された大量の六価クロム鉱さい(砕)による土壌汚染が江東区の大島地区などや江戸川区の小松川地区で確認され、大きな社会問題化になった。江東区は、既に昭和46年、日本化学工業グランド跡地に野積みされていたクロム鉱さいから六価クロムが検出され、東京都、江戸川区と共同し、鉱さい処理を行い、平成12年5月に処理を終了したと発表した( 「六価クロム鉱さい問題」 江東区環境清掃部 環境保全調査係 から引用)。 有害物質は無害化処理して埋め戻して土で覆い、小松川1丁目から大島9丁目に広がる2ヶ所の大島小松川公園として整備した。 ところが、昨年、12月、大島小松川公園下の区道で、発がん性が指摘される六価クロムを含む地下水が路上に漏れだしたと報道されたのだ。調査に関わった東京農工大の渡辺泉准教授(環境毒性学)らの簡易検査では、現場で採取した水に含まれる六価クロムの濃度は50ppm以上で、環境基準の一千倍に相当すると指摘した。そこで区と都と共同で除染し、雨水ます周辺に柵を設置したと報じられた(2015年12月26日朝日新聞)。 (下の写真:わんさか広場) 今回ここを訪れたとき、既に除染作業は終わっており、好天気のもと、大島小松川公園のわんさか広場では、家族連れや子どもたちののんびりすごす姿、スポーツ広場には野球試合をする若者たち、旧中川船着場には遊覧船から降りた乗客たちがおり、いずれも工場跡地の鉱さい流出問題を気にしてはいないかのようだった。 (下の写真 小名木川 大島8丁目番所橋から) 川沿いの「中川船番所資料館」を見学後、旧中川から別れ、両岸にマンションが立ち並ぶ小名木川沿いの閑散とした道を丸八道路へ向う。(上の写真、川の右側が大島、左側が砂町) (下の写真 塩なめ地蔵) 途中、10年ほど前に建った民間タワーマンションと道一つ距てた宝塔寺に寄る。ここは江戸時代に小名木川や行徳道を通る商人たちが休憩し、商売繁盛を願って塩を供えたのが由来とされる「塩なめ」地蔵があり、地蔵の前にはたくさんの塩袋が置いてある、地蔵に供えられた塩をもらってイボに塗ると治るといわれるので「いぼとり地蔵」ともよばれ、地蔵前の立て札には「願い事をする時、願い事が叶う時は、お塩をお供えください」とあった(上の写真)。この素朴な民間信仰の地蔵堂と通りを隔て、民営タワーマンションが聳えている不均衡さも面白い。また、その先の裏通りを行くと、当座の生活に必要な業種を揃えたショッピングモールのある数棟の大型公営マンション、大島4丁目団地があり、その道筋には、花、供え物した庚申塚や老朽化した簡易旅館もある対照的な町、これが大島町の最初の印象だった。(つづく) #
by dankkochiku
| 2016-02-16 23:44
| 徘徊老人紀行
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