断想
2020-07-26T13:52:39+09:00
dankkochiku
われ考えるゆえにわれ在り
Excite Blog
2020年近況
http://ksei.exblog.jp/29111185/
2020-07-26T13:49:00+09:00
2020-07-26T13:52:39+09:00
2020-07-26T13:49:08+09:00
dankkochiku
未分類
最近、さすがに年か体調を崩しています。
ながらくブログの更新もできていないなか、毎日数十人の方が見に来られている
のは、大変驚きでもあり、うれしくもあります。
次回の更新がいつできるのか、まだ先を見通せない感じではありますが、引き続き
健康にご留意の上、お過ごしくださいませ。
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昨今、騒がしいことばかり
http://ksei.exblog.jp/26065957/
2017-09-23T15:17:00+09:00
2017-09-30T20:22:20+09:00
2017-09-23T18:52:23+09:00
dankkochiku
時評
株式相場の格言に、「申酉騒ぐ」というのがある。相場の世界ならずとも、昨年(申年)、今年(酉年)と世間を騒がすニュースが多い。 世論調査で長らく支持率過半数を占め、政党間で一強を続けてきた安倍内閣が今年7月になって30%台に急落した。その背景には、第1次安倍内閣(2006年)以来、同じ首班の内閣による戦後最長記録が、閣僚、自民議員たちの驕りの言動を助長し、国民の不信と怒りを招いたのだ。そのきっかけは、学校法人の設立問題だが,その疑惑は一向に晴れず、「首相を信頼できない」の回答が多数を占めた。 昨年8月の都知事選では、自民党員だった小池百合子氏が無所属で立候補し、自民党公認候補を112万票の大差をつけて当選し、今年7月の都議選でも小池氏支持勢力が過半数を占め、自民は惨敗を喫し、その態勢挽回に、突然、安倍首相は衆院解散と奇襲に出て、来月投票ときた。景気浮揚を撒き餌にした党利党略解散だ。かといって、離合集散やまぬ民進党など野党へ国民の期待は低い。
海外では、昨年6月、英国の国民投票で、EU離脱支持派が予想外に過半数を占め、首相が交代した。11月には米大統領選で政権を握った共和党のトランプ氏の度重なる過激な発言、違憲の疑いある大統領発令に現在も米国内外で批判の声が絶えない。
隣国の韓国では、昨年11月、朴大統領の友人企業への資金援助、国家機密漏えいの容疑等で大統領の罷免、刑事被告人となる事件が起こった。今年2月には北朝鮮の故金正日総書記の長男、金正男氏がマレーシアで弟の北朝鮮最高指導者の金正恩の指令とされる巧妙な手口の毒殺事件が発生。その金正恩政権は、度重なる国連制裁決議に反発し、昨年来、大陸間弾道ミサイル、核爆弾を成功させ、日本の上空を通過し、米領グアム島周辺へ海上へ落下させる発射計画や太平洋で水爆実験などを示唆し、米朝間に一触即発の軍事衝突の危険性が止まない。
自然界も昨今稀な大災害をもたらした。国内では昨年4月に九州内陸部では過去100年で最大規模の熊本地震(M.6.4)が発生し、熊本城天守閣、石垣崩壊したほか、熊本、阿蘇、大分で別々の地震が同時発生し、専門家は、熊本地震は南海トラフ地震の前兆かと警告。海外では、昨年4月にエクアドルでM.7.8の地震が、11月にはニュージーランドの南島でM.7.8、今年9月には、メキシコで過去100年で最大のM8.1の巨大地震、その12日後にM7.1の地震が発生した。
また、地球温暖化の影響とされる異常気象が続き、今年7月の福岡、大分県を含む九州北部に記録的豪雨をもたらし、8月には台風10号の影響で北日本、北陸が記録的大雨に襲われ、各地山間部で山崩れ、河川の氾濫や堤防の決壊による浸水の被害が相次いだ。米国では、先月末、ハリケーンがテキサス州に豪雨、洪水による壊滅的被害を起こし、さらに、今月には、93年ぶりといわれる猛烈な勢力をもつ巨大ハリケーンがまたしてもプエルトリコ、ドミニカ、キューバを直撃し,フロリダ州南部に上陸。いずれも、もとは地球温暖化の影響が指摘され、従来の気象学の常識では予測不能といわれる異常気象の連発だ。
そんな自然界の異常状況下、6月には、トランプ大統領が地球温暖化対策の新しい国際枠組み「パリ協定」から離脱すると表明。世界の温暖化対策が遅れるのは必須だ。世界の非常識男、北朝鮮の委員長と米大統領の発言に世界は右往左往している。
そのほか、庶民的関心事では、今年の秋場所大相撲。横綱3人と大関2人が休場。大正7年夏場所以来99年ぶりの異常事態だ。
さて、あと三か月で戌年の新年がやってくる。ここにきての衆院解散は、年末にかけて、まだまだ騒がしいことが止みそうにない。来年は「戌笑う」の年になるだろうか。 ]]>
路傍の神々
http://ksei.exblog.jp/25864806/
2017-06-15T14:33:00+09:00
2018-09-02T10:36:39+09:00
2017-06-22T14:40:21+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
日本人の多くが神として崇拝しているものは何だろうか。神道、仏教、キリスト教など教祖の教えに従う信徒たちは別として、森羅万象に神の存在を感じ、やおよろずの神を信じる一方で、既存の宗教の神を排斥するどころが、適宜、自分の信仰に取り入れる。こうしたいわば民間信仰というか雑居宗教の神々を信仰する人に対して、日本人は、だれも変わり者扱いしないし、むしろ心温かさへ感じている。 私は、西東京市と新座市に接する練馬区に住んでいる。この辺りは、いまでこそ、宅地開発や商業都市化が進んでいるけれども、かつては都心部へ農作物を供給する田畑が延々と続く農村地帯だった。その名残か、あちこちの道路脇、三叉路、四つ辻に「馬頭観音菩薩」「道祖神」「庚申塔(塚)」などが立っており、いつもお花やお水などが供えられているのを見ると、日本人の信仰の原点をも感じ、その前を通る人々に心の慰めを与えているようだ。ただ、市街化の進むにつれて、路傍の神々がひとまとめにされるのは、やはり時代の趨勢だろう。 そんな姿の「路傍の神々」を幾つかご紹介する。(写真上から) (上の写真 武蔵野を残す石神井台) (上の写真 石神井台、富士街道筋) (上の写真 大泉学園町郵便局前) (上の写真 大泉学園町 風致地区近辺)
(上の写真 東大泉の民家敷地一角)]]>
荏原・摩耶寺 -文化財探訪 2-
http://ksei.exblog.jp/25813190/
2017-05-31T15:40:00+09:00
2017-06-24T22:48:21+09:00
2017-05-31T15:40:52+09:00
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徘徊老人紀行
(上の写真:摩耶寺本堂) お寺の名前としては聞きなれない摩耶寺。マヤと聞くと、古代、南米に栄えたマヤ文明を連想する人もいるだろう。しかし、ここでの摩耶は、釈迦の生母のことで、摩耶寺は、摩耶夫人立像を祀る日蓮宗の寺院。その像は品川区の文化財に指定されている。摩耶寺のホームぺージによると、摩耶夫人像は、「延宝6年(1678)に造られ、本堂左側の摩耶堂(天保年間 1830~1844年に建立)に安置されている。伽藍は、震災、空襲などの難を免れたが、老朽化は甚だしく昭和53年に本堂を改築、摩耶堂も改修し現代に至っている。 (上の写真 小原鐵五郎顕彰碑) 摩耶寺の入り口は、山門というよりは普通の民家の鉄製の柵の門で、入るとすぐ脇に「従三位勲一等 小原鐵五郎顕彰碑 貸すも親切 貸さぬも親切」と刻まれた石碑が建っている。
小原鐵五郎とは誰だろうかとスマホを取り出し、検索する。明治32年(1899)年、現在の品川区大崎の農家に生まれ、小学校卒。大正8年(1919)に大崎信用組合設立時に入社。以後、信用組合の発展に尽くし、海外にも支店を開設する傍ら大蔵省の金融制度調査委員や全国信用金庫協同会長を務めた人物。彼を知名にしたのは、彼の哲学。「銀行は利息を得るために金を貸すが、信用組合は投機のための資金など先様にとって不健全なお金は貸さない。感謝されて返ってくるようでなければならない」などと儲け主義を排し、銀行に成り下がるな、など、銀行から業務妨害と訴えられそうなことを公言した信念の人。1989年(平成元年)没。信用金庫は、地域の中小企業や勤労者相手の銀行くらいにしか思っていなかった私だったが、信金設立の精神はなかなか崇高、強固なものと改めて認識する。それだから、小原氏はいまもここ郷土にとって敬意と誇りを保っているようだ。
(上の写真 摩耶堂 摩耶堂内)
摩耶堂(釈迦堂)の内はそれほど広くないが、荘厳さに満ち溢れている。安置されている摩耶夫人立像を直接目にすることはできなかったが、立像は、前回訪れた碑文谷法華寺(円融寺)に奉安してあったものを、元禄年間に円融寺が日蓮宗から天台宗へ改宗したとき、此処に移したものとある。(「品川区の文化財」より)。ここにも、鎌倉時代に生まれた日蓮宗が既存の仏教諸派からだけでなく、幕府からも目をつけられていたのが分かる。
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碑文谷円融寺 -文化財探訪 1
http://ksei.exblog.jp/25842592/
2017-05-22T12:30:00+09:00
2017-07-19T16:29:13+09:00
2017-06-12T21:51:02+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
前回、朝日地蔵堂の道標にひかれ,まず碑文谷仁王尊円融寺を訪れる。
円融寺への案内は、目黒駅からバスで碑文谷2丁目下車徒歩3分とあったが、下車したものの人ひとり歩いていない昼下がりの閑静な住宅地帯。たまたま路上で休憩中の道路工事の人から教えられる。
円融寺は、今から約1150年前、平安時代の仁寿3年(853)、慈覚大師が開いた天台宗、法服寺に始まり、鎌倉時代の康安6年には日蓮宗に改宗し、法華寺と改名、さらに元禄11年(1698)、幕府からの弾圧で、再び天台宗に改宗、天保5年(1834)には円融寺と名を改め現在に至っている有為転変の寺院。
東門から進み、まず目についたのが、円融寺幼稚園のそばに立つ「真公稲荷」の赤鳥居。寺院の境内に神社があるのは、神仏習合の時代の名残。真公稲荷と検索したら、祀られているのは、なんと狐そのものだった。一般に稲荷神社の狐は、神そのものではなく、神の使いというが定説だが、ここでは、この辺りに棲みついていた白狐を稲荷として祀っていた。むかし、この辺りで奇病が流行したとき、稲荷神社を廃れたままにしていた祟りと恐れた門前の住民たちが、円融寺住職と相談し、神社を再興したところ、村から病が消えたという言い伝え。不幸、不遇、災難を神の祟りと恐れ、神社を建て敬うという話も神道信仰につきもの。ただ、「真公稲荷」の名前の由来は不明。
(下の写真:円融寺阿弥陀堂)
阿弥陀堂は、円融寺のホームページによると、昭和50年(1975)の建立で、平安朝阿弥陀堂様式に則って建設された鉄筋構造の堂々とした本堂。生憎、堂内は公開されておらず中を見ることはできなかったが、本堂内には、京都市伏見区日野にある日野法界寺内の国宝、阿弥陀如来を模して作られた如来像とその胎内に経典など貴重な品々が納められている。
(下の写真 釈迦堂)
本堂の前にある釈迦堂は、室町時代初期に建てられ、都内では東村山市の正福寺地蔵蔵堂に次ぐ古い建造物(東京23区内では最古の木造建築)で、昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されている。屋根は本来、茅葺だったのを火災防上、昭和27年(1952)に約500万円の費用をかけ銅葺きに改造した。
(下の写真:仁王門)
東門から入ったので逆のようだが、次に仁王門。仁王門は、中の黒仁王像が作られた永禄年間とほぼ同時期に作られたと推定されている。江戸時代に大改修が行われたため、足利時代の面影は残っておらず、また、茅葺屋根も平成7年(1995)に銅葺きに改装されたが、それでも目黒区の文化財に指定されている。
仁王門に安置されている木造の黒仁王像は、江戸後期には多くの庶民の信仰を集め、泊りがけで参詣する人、堂に籠って断食し祈願する信者もあったほど人々が訪れたと伝えられており、現在東京都指定文化財になっている。
一つの寺院にこれだけ多くの文化財が集まっているところは、有意義な一日だった。 ]]>
地蔵の辻 -目黒区小山
http://ksei.exblog.jp/25843581/
2017-05-14T15:48:00+09:00
2017-07-19T16:33:48+09:00
2017-06-13T10:15:58+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
初めて武蔵小山駅まで来たのだから、ほかに歴史的な遺跡でもないかと検索したら、東急目黒線を挟んで林試の森公園側と反対側に朝日地蔵堂があるのを見つけ、早速出かける。
駅付近は再開発工事中か、白い塀で囲われ、見通しが悪い。通りがかりの幾人かに地蔵堂への道を伺い、スーパーライフ脇の地蔵堂を見つける。
(上の写真 朝日地蔵)
地蔵堂にたつ教育委員会の掲示板(平成25年1月31日記)には、地蔵堂の説明はなく、堂の右側の道標(上の写真)について、「寛政元年(1789)に目黒道と碑文谷道との交叉点に建てられた高さ1メートルの道標石造の道標で、江戸多数の参詣人を集めた目黒不動尊と、碑文谷仁王尊への行先を示したものである。造立者は江戸の商人や職人たち」とある(昭和61年3月14日 第23号 品川区指定史跡)。
この道標が品川区の史跡に指定された理由を同区役所の関係課に電話で伺ったところ、その当時、この通りは、目黒不動尊(天台宗 瀧泉寺 現・下目黒3丁目)と碑文谷仁王尊(天台宗・円融寺 現・碑文谷1丁目)を参詣する多数の庶民が往来する交通の要所の道標だったので、文化財に選ばれた、との回答だった。
道標には、「右 不動尊、左 仁王尊道」と刻まれているが、「昭和31年、道路改修のため僅かながら移動され、左右方向が反対になった」とある。地蔵堂内左奥の道標は明治34年に建てられたものだが、薄暗く、よく読めなかったが、摩耶寺への案内が彫られている。地蔵堂脇には、太平洋戦争のほか地元の戦死者の指名を記した「慰霊之碑」もあり、昭和31年の道路改修の際、この場所にまとめられたのではなかろうか。
また、目黒区のホームページ(「江戸時代の道 第5回」)には、現在の碑文谷道と目黒道の交差点、小山2丁目にある朝日地蔵堂の場所は、「地蔵の辻」といわれ、地蔵は、道標よりも122年前の「江戸初期の寛文7年(1667)、戸越村の念仏講員16名によって造立され、安産、厄除け、子育てなどのご利益がある。九品仏浄真寺の開山珂碩(かせき)上人が、仏道修業のため毎日夜明け前に浄真寺(世田谷区奥沢7)を出て芝の増上寺(港区芝公園4丁目)まで通っていたころ、ちょうどこの地蔵堂のあたりで朝日が昇るため、いつしか朝日地蔵と呼ぶようになった」とある(品川観光協会のホームページによる)。
当時、交通の主要な辻ごとに旅人の安全を祈願する地蔵を建てた風習によるものだろう。九品仏と芝公園の間は電車でも30分ほどかかるので、毎日、ここを歩いたとは、驚くべき健脚家だ。 ]]>
林試の森公園
http://ksei.exblog.jp/25843639/
2017-05-08T10:04:00+09:00
2017-08-23T11:07:46+09:00
2017-06-13T10:45:30+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
初夏の好天気に誘われ、東京散策を再開。生活の大部分を東京で過ごしてきた私だが、見知らぬ所が多い。それも東京23区内のことだ。なかでも道順が分かりにくいのが目黒区。先ず、目黒駅は目黒区でなく品川区、駅から200メートルほどの庭園美術館、自然教育園は港区。そんなわけで、これまで訪れたことのあるのは、目黒駅前の案内図を頼りにしての、大円寺、大鳥神社、別名「たこ薬師」の成就院、目黒不動くらい(これらは、以前、当ブログに掲載した)。
そこで、今回は、目黒区と品川区にまたがる「林試の森公園」を訪れようと、最寄り駅の東急目黒線の武蔵小山駅(品川区)を降りたが、特段、案内図も見当たらない。駅員に尋ね、駅出口右側の人通りの少ない狭い通りを行く。いささか不安になり、コインランドリーの店先で洗濯物の仕上がりを待っている男の人に道を尋ねる。「あの歩いている家族連れの後をついて行くのがいいよ。たいていそうだから」との返事。建て込んでいる木造住宅地を左折、右折の細道を説明するのは難しいのだろう。4、5人の家族連れの後をつけると、林試の森の入り口の一つ、水車門にでた。そして、新緑の森の道へ入る。 (上の写真:水車門とせせらぎ橋)
管理事務所内の説明版によると、公園の前身は、明治33年農商務省管轄の林業試験場に始まり、その後、敷地を拡大し、昭和53年に試験場がつくば市に移転した後、平成元年に都が約3万6千坪の公園として市民に解放したとあって、大小の内外樹木の中の散歩道、運動広場、キャンプ場、遊具を備えた幼児コーナー、冒険広場などのある公園。いずれも緑の5月を満喫できる場所だ。 (上の写真 森の広場と倒木自然観察樹木)
私の目を引いたのが、ユーカリの倒木。説明書によると、昭和27年に植えた高さ34メートル、幹回り329センチに育ったユーカリが平成23年9月の台風15号で倒れたものを、自然のままにしておくとどのように自然に戻っていくのかを観察できるようにした、倒れたままの状態の「当園の新しいレガシー」。いかにも、林試公園らしい教育的配慮だ。
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新年あけましておめでとうございます
http://ksei.exblog.jp/25118453/
2017-01-02T21:06:00+09:00
2017-01-09T18:09:26+09:00
2017-01-02T21:06:46+09:00
dankkochiku
その他
け 憲法を 遵守するのは 変えてから
ま マイナンバー プライバシーは 姿消し
し 粛々と 強行採決 予定内
て テロのない平和国から駆けつける
お オスプレイ 米軍発表 国は追認
め めでたさも 高齢社会は ひっそりと
で 出る杭を打たぬところに 夢生まれ
と トランプのババをつかむぞわが国は
う 運転者いらぬ車は 眠気くる
ご 胡麻化しが バレてシマッタ! 市場長
ざ 財政は 軍事費ふやし 不安増し
い 今となり 五輪招致を 後悔し
ま 丸儲け カジノ夢見る 議員連
す ストーカー 一途の恋は 死語となり
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もっと親しめる美術館、博物館を
http://ksei.exblog.jp/24721258/
2016-10-15T17:38:00+09:00
2017-01-03T14:54:44+09:00
2016-10-15T17:37:32+09:00
dankkochiku
時評
この時期、私に細やかな喜びをもたらせたのが都立の美術館や博物館の展示作品の撮影解禁検討のニュース。東京都議会で一議員からの「海外観光客が増える2020年東京五輪・パラリンピックに 向けて原則解禁とすべきではないか」との質問に、生活文化局長が撮影機会を増やす考えを示し、都知事も賛成したという。この波が都営美術館から他の公立,私立施設にも及ぶのが楽しみだ。
我が国では、多くの美術館、博物館の入り口に撮影禁止の表示があり、入館すると、中は、薄暗く、人工灯の弱い光の中で作品を展示していることが中ば当然視している。作品を落ち着いた雰囲気の中で見せるとの配慮かとは思うが、海外からの美術品ほど、薄暗い室内で、ガラスを隔てて見せる、なんとも鬱陶しい雰囲気から次第に美術館から縁遠くさせてきた。
これと対照的だったのが、以前に訪れたランスのルーブル美術館。天窓からの明るい日の光のもとで、観光客たちの自由な写真撮影をはじめ、イーゼルを持ち込んで模写(模写無料)する画家もいたし、小学生たちの美術教室も開かれていた。総面積約6万平米、美術品が3万5千点近く、入館者が世界一多いといわれている。あまりサイズの大きくないダビンチのモナリザの絵画の前は大勢の入館者が殺到し、混雑していたときは、写真撮影が禁止されていたようだったが、それ以外は、きわめて開放的だ。展示されている美術品の数々の写真は絵葉書として売店で購入できるが、それ以上に館内の空気が私を魅了し、だれからもどがめられることなく、私も館内でシャッターを切ったのが下の情景だった。
余談だが、我が国の神社仏閣でも内部の撮影を禁じているところを見受けるが、カメラでご神体、ご本尊が傷つけられるとでも考えているのだろうか。カメラを最も愛好する日本人は、同時にカメラを最も恐れる国民のようだ。
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一漫画作家が町中をわかせた。-亀有
http://ksei.exblog.jp/24642884/
2016-09-07T14:47:00+09:00
2016-10-02T18:08:08+09:00
2016-09-07T14:46:22+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
その亀有が、「週刊少年ジャンプ誌」に40年連載してきた漫画、「こちら亀有公園前派出所」(こち亀)が今月17日発売号で最終回になる、とマスコミに報じ、亀有は、一躍、全国で話題の町になった。
コミック誌には、あまり関心のない私だが、東日本大震災クラスの地震、津波が東京を襲えば、海抜0メートル地帯のこの辺りは真っ先に大災害を受ける危険性が高い所。戦前、数年間を葛飾区内で過ごした頃、雨期になると、中川の堤防決壊などで毎年のように水害を経験した私には、戦後、堤防の整備はできたとはいえ、今も、大地震、津波来襲時には弱い0メートル地帯は気になる。
そんな地元民の不安を一時でも忘れさせてくれるのが、地元育ちで葛飾名誉区民の漫画家、秋本治氏の「こち亀」。登場するキャラクターたちが町中に、香取神社の境内にも、あふれている。亀有駅の両出口には、それぞれ、威勢のいい姿の主人公、両津勘吉巡査長、スマートな女性警察官、麗子の像のほか、町全体が「こち亀」キャラクターでいっぱい。そこにきて、いま、「こち亀、40年連載終了」の発表に各地から多くの愛読者が押し寄せ、町中が大騒ぎの渦中にあるのは当然だ。
なお、「亀有」の地名の由来は、亀が多くいる場所ではなく、「水に浸かると土地の高いところだけが亀の甲羅のように出て、亀のような形を成している」意味で「かめなし」だったもののが、「亀無し」では縁起が悪いと、後世に「亀有」と変えたもの(谷川彰英「地名に隠された「東京津波」」p.77による)。亀の字が付く場所(例えば亀戸)や地名は、沼地、川の跡、低湿地帯を表す地名だそうだ。
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歴史探索 青山霊園
http://ksei.exblog.jp/24436710/
2016-06-05T23:09:00+09:00
2016-07-02T20:20:53+09:00
2016-06-05T23:09:03+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
地価公示価格でも1平米180万円以上の東京の超高級住宅地、南青山に約26万平米もの広大な青山霊園がある。ここは、かつて美濃国郡上藩主、青山家の下屋敷の跡地を明治7年(1874)、市民のため公共墓地として東京府が管轄したところだ。(上の写真は、六本木ヒルズから青山霊園)
ここを訪れる人々は、近代日本の建設に貢献した数多くの日本人、外国人の足跡を感じ取ることができる。政治家の大久保利通、その次男の牧野伸顕、森有礼。思想家の西 周、中江兆民。科学者では、細菌学者の北里柴三郎、物理学者の長岡半太郎。歌人の斉藤茂吉、小説家の尾崎紅葉、37歳で日銀初代総裁に就任した吉原重俊、軍人では乃木希典など。
外国人墓地には、西洋最先端の知識,技術を我が国にもたらした「お雇い外国人」やその家族の墓がある。その一角にJulius Carl Scribaの墓と並んで「エミル スクリバ之墓」「日本医科大学教師フリッツ スクリバ之墓」「ヘンリー スクリバ之墓」と日本語の墓標がある(上の写真)。
Julius Carl Scribaは、東京大学創立4年後の明治14年(1881)に明治政府のお雇い外国人教師として東大病院に着任したドイツ人外科医で、任期終了後、聖路加病院の主任となり、この間、我が国の外科学の基礎を築いた人物。また日本語の3基の墓標の人物は、日本人の女性神谷ヤスとの間に生まれた3人息子の墓地だ(東大病院だより No.62 平成20年8月31日による)。なお、カール・スクリバの胸像は、我が国内科学の祖、ベルツ(Erwin von Baelz)の胸像と並んで東京大学構内にある。また、外国人墓地には、このほか著名な外国人が多く眠っているが、その約6割が霊園管理費が5年以上滞納されている無縁墓で、基本的には整理対象の墓地だが、国際的歴史的遺産として、残す方針のようだ。
もう一つ、私の関心をひいたのは、「無名戦士墓」(上の写真)。初めこれを日清・日露戦争などの無名戦死者の墓かと誤解していたが、すでに日中戦争が泥沼と化していた1935年(昭和10年)、特高警察の激しい弾圧に抗して闘い、命を落とした人々の安息の地として、まだ墓のなかったプロレタリア作家細井和喜蔵氏の友人の藤森成吉氏らが細井氏の著書『女工哀史』の印税で青山墓地の権利を買って建立し、当局の弾圧を避けるため、藤森氏が「無名戦士墓」と揮毫し、ひそかに建碑式を行った。「戦前にはこの墓に有刺鉄線が張りめぐらされ、近づく者は厳しく監視された」(長沼節夫「日比谷で出会った『開放運動無名戦士合葬追悼会』「ジャーナリスト同盟通信 2008年3月18日から引用)とあるように、ここには、細井和喜蔵氏のほか、部落解放同盟初代執行委員長で参議院議員の松本治一郎氏、日本共産党書記長で衆議院議員の徳田球一氏などのほか在日韓国、朝鮮人も含め、当局から、社会主義者、国の秩序を乱す好ましからざる人物とみなされた44,021人が合葬されている。
渋谷駅前広場のハチ公銅像前は、いつも待ち合わせの人、海外観光客で込み合っている。飼い主の見送り、出迎えに毎日、渋谷駅前に姿を見せていた秋田犬ハチが、主人が教授室で急死されたのも知らず、毎日、主人の出迎えに7年間通い続けた後、駅の近くで死んでいたのが見つけられたという忠犬ぶりの話はほとんどの日本人が知っている。そのハチの飼い主、東京帝大農科大学教授の上野英三郎氏(1871~1925年)の墓地が青山霊園にあり、その脇に「忠犬ハチ公碑」が立っている。博士の墓前よりもハチ公の小屋の方に供え物が多いのは庶民の人気の差か。私は見ていないが、ハチのはく製は、上野の科学博物館に展示されてはいるが、ハチの墓はない。
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ムク鳥、愛の巣
http://ksei.exblog.jp/24413185/
2016-05-27T17:37:00+09:00
2016-06-05T23:16:41+09:00
2016-05-27T17:36:44+09:00
dankkochiku
その他
朝8時ともなると、窓の手すりにムク鳥が並んで止まっている。やがて、二羽のうちの一羽が何処かへ飛び立ち、一羽が留守番をしている。しばらくして餌をくわえて戻ってきたムクドリは、すぐ戸袋の中へもぐりこむ。途端に、中からヒナ鳥の鳴き声が響く。大口を開けたひな鳥たちに餌分け与えているのだ。その朝食の騒ぎの中、留守番をしていた一羽は、戸袋の外でじっと待っている。よそ者がこないかと警戒している様子。(上の写真:つがいのムク鳥)
餌を与え終わって、戸袋から出てきた鳥は、外で待つ一羽と並んで一息継すると、再び餌をとりに飛び立つ。一方のつがいの鳥は、そのままじっとお留守番。ヒナたちの留守番を仰せつかっているようだ。この間、スズメ、カラス、ハトなどがやって来ても、ヒナたちを守って身動きせず、睨みをきかせているようだ。こんな情景が30分くらい続く。留守番役と餌運び役とは互いに交代しながらやっている。
毎年、12月から翌年1月にかけて、ムク鳥の大群が上空を飛び回っていたのが、3月ともなると、群れは小さくなり、やがて消えてなくなったけれども、数千羽の大群の中から気に入った相手を見つける。つがいになる基準は何だろうか。
今朝もムク鳥が十数羽、つがいになって畑を飛び回りながら虫を探し、ついばみ、ヒナ鳥の分もせっせと運んでいる。近年、都市化が進み、町ではムク鳥は、うるさい、糞で町を汚す、など人間の勝手な言い分で、害鳥扱いされているが、まだ、畑が残っているこの辺りでは、益鳥とみられ、秋になると、鳥たちが大好物の柿の大木のある農家に集まってくる(上の写真)。また、前の家の住人は、外から巣作りされているのを見上げながら、そっとしている心優しさのあるこの地域は、鳥たちには天国のようだ。
追記:そして5月29日、二つの戸袋から6羽のヒナが元気に出てきました。ちゃんと飛べるもの。2羽がふざけあってもつれながら地上に落ちるもの。飛べる自信ないのか戸袋の中へ戻るもの。大賑わいです。]]>
五月祭
http://ksei.exblog.jp/24386104/
2016-05-16T22:48:00+09:00
2016-07-15T20:06:33+09:00
2016-05-16T22:47:14+09:00
dankkochiku
徘徊老人紀行
五月の祭りは、メーデーに始まる。街頭行進出発間際の一隊が日比谷公園口に並んでいる。
今年は第87回メーデー。1989年以来、労働組合は、連合、全労連、全労協のメーデーに3分裂してそれぞれがメーデー大会を催してきたが、今年7月の参院選を前に野党が統一候補を立て、安倍政権に対抗する姿勢を見せているのにあわせ、労働組合も一つに結集し、約7500人が参加したという。行進は、日比谷公園祝田通り口から桜田通り、虎ノ門交差点から新橋駅方向へ進んだ。
思い出すのは、1952年5月1日のメーデー。その数日前に対日講和条約、日米安保条約が発効し、占領法規に代わるゼネスト制限・禁止法案、破壊活動防止法案の国会上程に対して労働者だけでなく進歩的文化人、学生団体の間から結社の自由、表現の自由を侵す逆コース法との反対運動が盛り上がっていた。そのさなかのメーデー行進隊の一部は、禁止されていた皇居・馬場先門前広場ー彼らは「人民広場」と呼んでいた―へ突入し、警備に当たる警官隊と大乱闘の挙句、催涙弾、拳銃が発砲され、デモ隊側に死者1人のほか、双方500人以上の重軽傷者をだした、いわゆる血のメーデー事件だ。
あれから、64年。この日、馬場先門前広場では、温かい日差しの芝生で食事をとる人たち、毎週日曜、500台もの各種自転車が貸し出され、車の交通が制限され、内堀通りを大人も子どももサイクリングを楽しむ人々の平和広場だった。1975年以来、祝田橋から北の丸公園までの5.5キロの車道がサイクリングコースに開放されていたのを不勉強ながら初めて知った。
もう一つ、東京の5月の祭りに欠かせないのが三社祭。
昨15日は、三社祭最終日とあって、神輿の主役たちにいささかの疲れが見えたが、海外観光客は引きも切らず浅草寺一帯を埋め尽くしている。一緒にと、撮影をもとめる観光客に和服姿の娘たちは親善大使並みの受けようだ。
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平和を実感させる昭和記念公園
http://ksei.exblog.jp/24327307/
2016-04-24T16:29:00+09:00
2016-05-19T11:20:13+09:00
2016-04-24T16:28:44+09:00
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徘徊老人紀行
最寄の西立川駅を降りた乗客のほとんどが目と鼻の先の昭和記念公園へと向う。休日のせいか、家族連れが目立つ。今、盛りのチューリップ、つつじ、菜の花畑の先に見える東京ドーム2つ分の広さという「みんなの原っぱ」、手ぶらで来ても楽しめる「バーベキューガーデン」、地形、遊具、木工房など商業施設とは一味違う「こどもの森」の3か所に入園者が集中している。(下の写真:上から花畑、水鳥の池、みんなの原っぱ、バーベキュー広場、滑り台、フワフワ広場、怪獣広場、外国人観光客)
日本庭園や盆栽苑には中高年層が多く、運動場、14kmのサイクリングコースには若者の姿がある。公園内を回る3両連結のパークトレイン、貸し出し用ベビーカー、車椅子もあり、みんなが時を忘れて一日中楽しく過ごせる公園だ。
思い返せば、昭和初期の経済大恐慌、農産物の価格暴落から「豊作飢饉」、「大学は出たけれど」が流行語になった就職難時代、その一方で天皇の名を掲げる軍部、右翼のファシズム政権は、「生めよ殖やせやせよ国のため」、「欲しがりません勝までは」の標語の下、軍事予算の増強を図り、それと反比例に基本的人権無視と耐乏生活を国民に強いたあげく、数多の戦死傷者を出し、戦災地に辛うじて生き延びてきたものの、戦後10年は物資不足に、デモクラシーになったが「でも苦しい」と茶化した私と同世代の一般国民。そしていま、駅前で「戦争法廃止を求める2000万人統一署名」を求める運動員に目もくれず公園へ急ぐ人々、海外の観光客も混じる公園内の楽しげな人たちの姿は、あまりにも痛く隔世の感を深めた一日だった。
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「公共の福祉」か「公の秩序」か
http://ksei.exblog.jp/24289622/
2016-04-09T18:54:00+09:00
2016-04-16T22:08:29+09:00
2016-04-09T18:53:48+09:00
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時評
その中で、志位氏が「安保法・憲法改正」について夏の参院選で憲法改正が争点となると明言している安倍首相について、自民党の憲法草案は平和憲法の廃棄だとして反対し、その一例に「緊急事態宣言」と関連して、「公共の福祉」の言葉が自民党草案ではすべて「公益、公の秩序」に代えられている点を指摘した。
これに対して高村氏は、「公共の福祉」の意味は一般国民に分かりにくいので、それに代えて「公益、公の秩序」としたもので、意味は変わらないと答えた。しかし、志位氏は、「公共の福祉」と「公益、公の秩序」とは違うと反論。両氏とも、それ以上の説明はなく、意味は違う、違わない、の応酬になり、司会者が中に入って、結論曖昧なままこの議題を終え、後味の悪い思いを残した。
「公共の福祉」は「公益」と言い換えてもいいが、その意味は何かと正面きって問われると、答えるのは難しい。しかし、意味が分かりやすいか、分かり難いかの問題ではない。なぜならば、時代により、その時どきの政治体制によって公益の意味や使われ方が違うからだ。自由主義国家、社会主義国家、独裁主義国家、全体主義国家では公益の意味は、それぞれ違う。例えば、戦前、戦時中の教育を受けた日本人は、公益というと、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の教育勅語の一文を思い出すだろう。つまり、教育勅語には、一億一心、国益優先、滅私奉公のスローガンの基本が盛られていた。また、ナチスドイツでも同様、公益は、私益に優先するとのスローガンのもと、公益優先策がとられた。
現行憲法では、学説上、公共の福祉は、「自由国家では、各人を平等に尊重する立場から、各人の基本的人権相互の衝突の可能性を調整することが公共の福祉の要請するところとみるべきである。‥ 基本的人権を公平に保障することがその狙いである。」とある(宮沢俊義 「憲法Ⅱ」)。
他方、自民党の「憲法改正草案 Q&A」には、「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」とし、その例として、「街の美観や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難」とある。しかし、街の美観、例えば、最近の報道では、観光資源になっている愛媛県今治市の無人島の桜並木が16世紀の遺跡を破壊していることが分かり、桜の伐採・移転か、遺構の保存かを巡っての判断を公益の立場から伐採・移転に判断、決定している。また古くは、「チャタレー夫人の恋人」裁判で争点になった猥褻本の公刊と憲法の保障する表現の自由との関係の争いは、まさに双方人権の対立で、最高裁は、公共の福祉論から上告を棄却し、訳者、発行者の有罪が確定した。
さらに、自民党のQ&Aには、「公の秩序とは社会秩序のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。」とある。しかし、「平穏な社会生活」とは分かりきったことのようだが、誰にとって「平穏な社会生活」なのかとなると、これまた千差万別だ。例えば、消費者の平穏な社会生活と生産者のそれとは違う。近年の原油価格低下は、消費者にとっては喜ばしいことだが、関係商社には企業倒産を招く深刻な状況になる。
また、「公共の福祉」を「公の秩序、社会秩序」に代えると、ぐっと政治力が鮮明、強化される。例えば、1925年に公布し、その後2回にわたって改正、強化された「治安維持法」は、国体、つまり天皇制の変革を目的とする結社を組織したもの、指導者を国家体制の根本を危うくする「朝憲びん乱」行為、「安寧秩序びん乱」行為者、つまり社会秩序を破壊するものと断じて、その取締りに特高警察を全国に配置し、憲法上の臣民の権利(基本的人権)を蹂躙した。
もちろん、現在の政権が社会秩序維持のため、戦前の天皇制ファシズムへ直ちに逆行するとは考えられないが、自民党憲法草案第9章の「緊急事態」時(外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱のほか、地震等による大規模な自然災害等)には、法律により、国民の権利が侵される危険性が多分に起こる(第99条-3)。これは、明治時代の大日本帝国憲法では「臣民の権利」として住居、移転の自由、信書の秘密、信教の自由、言論・集会・結社の自由を認めならが、これらはすべて「法律の範囲内において」あるいは「安寧秩序を妨げない限りにおいて」の条件付きであり、これら国民の権利は、治安維持法、思想犯保護観察法など後の法律制定によって事実上すべて否定された暗黒の歴史がある。自民党草案では、緊急事態宣言(第98条)とともに社会秩序の混乱の名目のもと、国民への憲法尊重擁護義務(第102条)は失われ、「国民の権利」(第3章)が侵される危険性を多分に孕んでいる。
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