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王政復古、百事一新を掲げ、世界列強と肩を並べることを目指した明治新政府が、先ず解決しなくてはならなかった問題は、開国した国々との間に結ばれた不平等条約の解消だった。
そのため、西洋文明を手本として取り入れ、文明開化をおし進めたなかで、法律制度上、最も早く着手した改革は、江戸の刑法、御定書百箇条に代わる刑法の制定だった。 刑法と言っても、まだ帝国議会も開かれず、憲法もなかった時代の仮の刑法(仮刑律 明治元年)や古来の刑罰思想から抜けきれない新律令綱領(明治3年)だが、火あぶり、はりつけ、鋸引き、さらし首、刀の試し切りの禁止、遠島(終身島流し刑)、入れ墨、笞杖刑の廃止、窃盗罪への死罪適用など死刑や体刑中心の刑罰から、監獄内で強制労働に就かせる自由刑(禁錮・懲役刑など)へと刑罰の主流を変えた。 また、明治5年の太政官布告 「監獄則」 には、「獄ハ人ヲ仁愛スル所以ニシテ人ヲ残虐スル者ニ非ス人ヲ懲戒スル所以ニシテ人ヲ痛苦スル者ニ非ス」 とし、罪人を監獄に拘禁するのは、国のために害を除くやむを得ない措置であって、監獄では囚人は人道的に扱われなければならないと述べている。 慶応3年に王政復古の大命が発令し、翌年から明治政府の発足と共に、小塚原、鈴か森、板橋の刑場、江戸・小伝馬町牢屋敷、石川島人足寄場は次第に廃止された。 監獄は警視庁の管轄下に入った。 刑罰の主流を自由刑へ移したことで問題となったのは、受刑者を収容できる監獄が整備されていないことだった。 当初、監獄を建設し、囚人を管理できるほどの財力を持たなかった国は、各府県にそれぞれの監獄を管轄させ、地方警察に囚人管理を委ねた。 全国の監獄がすべて司法省の直轄になり、囚人たちが平等に扱われるようになったのは明治36年の監獄官制発布以後のことで、東京市では、明治8年、武家屋敷の跡地、東京市牛込厘(区)市ヶ谷谷町(現・住吉町)に近代的建築の 「市谷谷町囚獄役所」(後の市谷監獄)を作り、小伝馬町牢屋敷、石川島人足寄場の囚人をここへ移した。 他方、未決囚を収容してきた警視庁管轄の鍛冶橋監獄署(東京駅八重洲口付近)は、明治36年に東京監獄と改称し、38年に市谷監獄と隣接する市ヶ谷富久町へ移転した。 現在の都営地下鉄の大江戸線と新宿線に挟まれた新宿区富久町、市谷台町、余丁町、住吉町一帯の約18万8千坪の敷地に、囚人たちの手で建てた、高さ15尺(約5メートル)のレンガ塀で囲った2700坪あまりの二つの木造監獄に未決・既決の囚人定員1200人、303房のある監獄があった。 東京監獄は、大正11年に 「市谷刑務所」 と更に改称したが、二つの施設明治36年から43年までの約7年間、隣接した場所にあったので、誤りを指摘されるまでは、一つの監獄と誤解していた。(鈴木貞夫 「市谷監獄・市谷刑務所」) すでに公開処刑は禁止されていたので、東京控訴院管内の死刑囚は、鍛冶橋監獄署に収容され、刑執行は、市ヶ谷谷町の市谷監獄の刑場で行われてきたが、移転後は富久町の刑場で執行した。 刑場のあった場所は富久町66番地といわれているが、いま、その番地はない。 また、明治43年、市ヶ谷監獄は、中野区新井町の豊多摩監獄(後の中野刑務所。現在、中野水再生センターや平和の森公園)へ移転し、一方、東京監獄は、大正11年に市ヶ谷刑務所と改称後、昭和12年に閉鎖になった。 ![]() 現在、「余丁町児童遊園」 と地続きの 「富久町児童公園」 の一角に、昭和39年、日本弁護士会、森長英三郎会長の書による 「東京監獄 市谷刑務所 刑死者慰霊塔」 が立っている。 おそらく、その近くに刑場があったのだろう。 死刑囚は、東京監獄と改称する前の鍛冶橋の警視庁監獄で収容していたが、明治38年5月から昭和12年5月までにここで290人余りが死刑執行されたといわれている(森長英三郎 「東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について」 1967年 による)。 なぜ日本弁護士連合会がこの碑を建てたのかは、推測の域を出ないが、高橋お伝や盗賊の稲妻小僧などの一般の罪人のほかに、明治43年に明治天皇暗殺を企てた大逆事件で多数が検挙され、翌年、幸徳秋水ら社会主義者、無政府主義者12人の国事犯がここで処刑されたことへの慰霊を込めて建てたのだろう。 それにしても、児童公園の中に刑死者の慰霊碑があるのは、なんとも不似合いな気がするが、花が手向けられているのを見ると、刑死者の恨みを恐れてからだろうか、それとも罪を憎んで人を憎まずの文化のお国柄だからだろうか。 ![]() 余丁町児童遊園付近は、雑然と、民間アパートと一戸建て住宅が幾本もの狭い裏通りに建っており、元刑場の暗いイメージが漂う静かな地域である。
by dankkochiku
| 2009-01-13 23:28
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
こんにちわ dankkochikuさん
当時刑法を近代化して、死刑を減らした日本国が、ここにきて死刑を増やす動きにあるのは、何とも皮肉なことですね。 私たちは進化でなく、退化しているかもしれない、ってことの一個の証拠みたいな気がしたりします。 手向かれた花、なんだかほっとするのはなぜでしょう、、 死んでしまえば、皆仏様という優しい日本の神道・仏教の考え方なのではないでしょうか? 理不尽に処刑された人もきっと何人かはいただろうと推察します。 いずれにしても、死ねば皆仏、安らかにあっち側で暮らしてもらいたいと願います。
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Ciao Junko さん 午前3時発信コメントとは驚きましたが、そちらとは8時間の時差があるんでしたね。 日本では、起訴されると99.9%以上が有罪判決になります。 この数字が、裁判が適正に行われていると見るか、無罪な人を誤って有罪と判決しているか、の問題を別にしても、死刑執行後に無罪が判明しても、取り返しがきかないという問題は、解決されていません。 人のする判断には、誤りが付き物であることを認める以上、取り返しのきかない刑罰は避けるべきでしょう。
dankkochikuさん。こんにちは。。
この辺りですが、私的には、靖国通りを利用して、神田方面から新宿へ抜ける時などに車で良く通っておりました。でも、そこから脇にそれて、監獄跡地近辺に立ち寄ったことはありません。 曙橋から新宿にいたる周辺は、昔からビルが乱立しておりましたが、山の手線の内側にあって、都会の真っ只中にありながら、すこし脇に入れば?この様に静かさの残る庶民的な景観が出てくるのが不思議に感じます。 それにしても、小塚原や鈴が森の時にも感じましたが、罪人の処刑場の跡は、当時の歴史を知る上でも、キチンと残しておかれるべきと感じました。児童公園の片隅にひっそりと残る慰霊塔が、やけに寂しげに映りました。。 尚、死刑制度に関しましては、被害者感情に照らし、また究極の刑の在りかたとしても、必要、已む得ざるものとして、首尾一貫これを支持しておるところですが、近年、どう見ても、死刑未満、無期懲役以上と思われるような凶悪犯罪が多発する中で、私的には、死刑と無期懲役の中間を埋める刑があって良いように考えております。(但し終身刑構想には絶対反対です)
西洋文明を手本として取り入れ・・・・・・たことは、その後の日本にとって幸いだったと思います。
旧ソ連などの共産主義という、あまりの理想先走りで堕落し失敗した愚を避けられた、という意味で・・・・・。
tomahawk さん 子どもの時から何十年と東京に住んでいながら、行ったことのない所が多いうえ、近年の地下鉄新設やJR・私鉄の相互乗り入れが増え、まるで、お上りさんのように地図を頼りに、駅員や交番や地元の人に道を尋ねながら歩きまわっています。
現在、無期刑は30年以上拘禁されていますから、その多くが高齢による障害者、疾患者あるいは獄死者が増え、年齢からいって、40歳までの者が仮釈放になれるくらいですが、それも、引受人がいなければ駄目ですし、70歳以上の人間の再就職は無理でしょうし、生活保護を受けられて、老人ホームに入れれば最上というところで、犯罪をしない市民よりも、犯罪者の方が生涯にわたって国の世話が受けられるという、どうも市民感情を逆なですることが行われています。
yamanteg さん 日本以外にも鎖国をした国はありましたが、自国の文化、経済、政治体制を墨守し、その挙句、開国でなく攻め入られた国を見れば、白人崇拝、欧米模倣と言われながらも独立が守れたのは明治新政府の功績でしょう。 ただ、その後、排他的な国粋主義に走ったことは失敗でした。
初めまして
東京監獄と市ヶ谷刑務所とは違います。詳しくは新宿歴史博物館学芸員にお尋ねください。東京監獄の跡地が市谷台町になり、刑死場は観音八百屋の裏あたりです。慰霊碑は市ヶ谷刑務所刑死場の跡地です。
曙橋 さま ご指摘、有難うございました。 訂正しました。 今後ともよろしくお願いします。
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