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練馬区は、東京都23区内の最西端にあり、都下の武蔵野市、西東京市と埼玉県に隣接する地。 この一帯は、江戸時代から東京の野菜供給地で、かつては見渡す限り農地が広がり、地元民のほか会う人も少なかったのが、昭和30年代に入ると、土地の値段の安さから、この地に移り住む人が急に増え、農地から宅地への土地開発が始まった。
昭和60年代に入ると、いわゆるバブル景気の中で、地上げ屋が活動する格好の地域になった。 交通の不便な場所でも、一坪百万円もする土地、一億円以上もする建て売り木造小住宅が密集して建ち、不動産屋のガラス戸には、売地、売家の貼り紙が一杯で、店内にはいつも客の姿があった。 戦後、マイホームを夢見てきた人びとは一戸建て住宅の広告を見て殺到し、戸建住宅にはまだ手の届かない人たちは、マンションの名とは程遠いような3K程度のアパート展示会場に集まり、さらにそれより下の所得層のためには、地元農家が農地を削って木造賃貸アパートを次々と建てた。 こうして広い田畑のあちこちに、忽然として密集住宅地帯が点在するようになった。 交通の不便さとマイカーの普及が重なり、農地に共同駐車場ができ、大小の商店が建ち、テニス場、ゴルフ場まで現れた。 この様変わりの背景には、農業の後継者難から農地を手放す農家が増えたからだ。 農地から宅地への乱開発が災いして、上下水道、ガスの配管工事の遅れた地域住民たちは、井戸水とプロパンガスとヴァキュームカーに頼るほかないことが長年続いた。 また道路整備行政の遅れから住宅地帯の道幅は狭く、曲がりくねり、一方通行道路、袋小路も多く、災害時には逃げ場を失うような場所の隣地にまた家が建つといった有様で、農地は民家にすっかり取り囲まれ、以前のように、刈り取った米麦の藁を畑で燃やすと、煙いと民家から苦情が来るようになった。 それでも、まだ練馬区の農地面積は、都23区内では最も広く、緑の多い閑静な地を保っていられるのは、この十数年前から、農業目的以外に農地の売買を抑制する東京都の都市計画のもと、練馬区が 「生産緑地地区」 を設けて税制優遇措置をとったり、廃業農家の跡地や森林を公園にしたりして、武蔵野の面影を残そうとする区民の声が行政に反映したからであろう。 ![]() 上の写真は、今では、練馬区内でも珍しい農村風景だが、その周辺には、戸建住宅や共同住宅が迫り、歩いて10分ほど先の駅前には24階建ての高層アパートがそそり立っているのが見える。 明治の作家、国木田独歩は、武蔵野の特色は林である、と書いたが、その林は、この地域には、少なくなった。 宅地開発による武蔵野侵蝕の波は今も続いている。 ![]() そんな中で、路角にところどころ立つ 「馬頭観音」 像は、武蔵野の名残をとどめている。 この石仏には、「元禄五申歳」(1692年)と彫られている。 農業には欠かせなかった馬の守り神として徳川5代将軍綱吉の時代以来、今も、花を手向け、手を合わせる人の姿に時どき出会う。 ![]() この地区で戦前から市民の憩いの場所として知られているのが、18万平米の面積をもつ都立石神井公園。 通称、石神井ボート池と三宝寺池、それに14世紀の武将、豊島氏の石神井城跡があり、周りの森には遊歩道が整備されている。 ![]() あちこちから泉が湧き出る三宝寺池には、コイやカメ、カルガモ、尾長ガモ、キンクロハジロ、カイツブリ、コイサギなど多くの水鳥が集まる。 時たまやってくる2羽のカワセミを辛抱強く待ち構える写真愛好家。 木漏れ日を浴びながら将棋を楽しむ高齢者。 油絵、水彩画を楽しむ人。 春は花見客が集まり、秋は紅葉を眺めながらの散策が人の心を和ませる。 おや、もう紅梅が色付き始めた。 ■
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by dankkochiku
| 2009-01-06 21:34
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
伯父伯母がひばりヶ丘に家を買った頃は、
日本にはこんな場所があるのかと思うほど、 人が住んでいる気配がなかったような印象があります。 (生まれた時から東京の下町しか知らない小学生の感想です) 30年ほど前には既に、おっしゃるような感想を持ちましたねぇ。 いや、なつかしい。 ![]()
dankkochikuさん。今日までが、一応、松の内でありますので、遅ればせながら、まずは、新年のご挨拶を申し上げます。本年も宜しくお願い致します。。
さて練馬区ですが、私のイメージにある練馬は「光が丘公園」界隈になりましょうか。近くに知り合いが住んでおりまして、界隈の様子は些か分かります。練馬は環八の脇に少し入れば?写真のような風景もしばしば登場して来ますし、さらに外環が出来てからというものは、記事にある大泉周辺辺りも大きく様変わりしました。大泉学園の周りも、昔から閑静な住宅街では有りましたが、道幅が狭く買い物に不便なとこが残念と感じていました。 ちなみに、私にとっての大泉や石神井でありますが、申し訳ないことに、主に関越道や外環へ入るための「抜け道」と利用しておりました。Dankkochikuさんの住まわれる界隈も、以前は車で良く通ったものです。この辺りは、井の頭公園や、野火止用水などと共に、武蔵野の面影を今に伝える取って置きの場所場所と思っています。お陰さまで、今では環八の流れも、すこぶる良くなりましたので、家族などと地方へドライブに行く際には、殆ど使わなくなりましたが、今でも思いで深き場所であります。。。
Hoop さん そうですか。 伯父伯母さまとは西武池袋線でご一緒だったとは。 ひばりが丘駅は、昔、田無駅でしたが、西武新宿線の田無町駅と間違うので、改名しましたが、いつの間にか、今度は、その駅名が田無駅に代わりました。
Tomahawk さん 光が丘公園は、今でこそ大江戸線で都心への便が良くなり、環八道、関越高速道も近く、公園全体が計画的に作られたアメリカ風の文化生活の場になりましたが、戦前は、練馬大根の産地、戦時中は陸軍成増飛行場、戦後は、米軍人住宅村グランドハイツになり、昭和48年、やっと返還された場所です。
「練馬」界隈もそうでしょうが、バブル期の都内は、何処も地価が高騰しました。
私の知り合いに、神田駅の西口に、僅か25坪ほどの土地を所有していた者がおりました。戦後の焼け野原時代にタダみたいに買った土地ですが、その後、バブル期にはなんと?坪4000万円まで行ったんですからねぇ。畳2枚が・・・と考えると?驚き入ります。。 その人は、当時、流石に、そこまで上がるとは読めず、知り合いの勧めもあって、坪2000万を超えたところで地上げに応じました。でも、その後の値上がりを知り、悔しがって地団駄を踏んだらしい話は聞きました。 でも、ものには頃合ってものが有りますし、今思えば?十分な取引だったと思いますねぇ。当時、もっと上がると欲を掻いた者は、バブルが崩壊して、売り時を失い、今も、うらぶれたままになってますから・・・ 人生って?分かりませんよね。そんな話は、まだまだ幾つも知っています。バブルって言うのは?本当に人を狂わせますね。アメリカでも、サブプライムに踊った人たち、踊らされた人たち、狂想のスケールが日本と桁違いだったために、その後の崩壊で、世界までが可笑しくなりました。私なら細く長く生きる方を選びたいものです。。(*'へ'*)
自分の家が欲しい。気持ちはわかりますけど
私にとっては?そこまでしても、、ってものかな?と思います。 身の程を知る。ということはあらゆる意味で大事なのだと思います。 人間もそろそろ自分の身の程を知る時期であろうと、思います。
金は、生活を豊かにすると同時に人を駄目にもします。 足るを知る者は富む、と言われていますが、人の煩悩は、自制し難いですなー。
![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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