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捕物帳でお馴染みの伝馬町牢屋敷跡を訪れた。 地下鉄日比谷線、小伝馬町駅から地上に出て、2分ほどのところにある十思公園、大安楽寺、身延別院、村霊別院、中央区立十思スクエア一帯が牢屋敷跡で、東京都旧跡に指定されている。 江戸時代には、熊本藩などいくつかの藩を除けば、日本には刑務所はなかった。 牢屋は、重罪未決囚の収容施設で、現在の拘置所に当たる。 江戸にはほかに堅川にかかる二之橋付近(近くに相撲部屋が集まっている)に両国牢屋敷があった。 当時、江戸の人口は、世界一とも言われた大都市であったのに、江戸中の犯罪容疑者すべてをこの2つの牢屋敷でまかなえたのは、罪の軽い者は、町奉行所の牢や町名主や身元引受人に預けていたからだし、裁判のほとんどが1回の即決で、しかも、死刑が刑罰の主流だったので、判決後、数日内には執行したことや、牢内の衛生状態の悪さと牢名主らによるリンチなどによる牢死者が多かったからである。 東京都教育委員会の案内板には、伝馬町牢屋敷は、慶長18年(1613年)に日本橋本石町(ほんこくちょう)常盤橋(現在、千代田区日本橋の首都高速道の下)外にあった牢屋敷を小伝馬町に移したとある。 牢屋敷は、高さ7尺8寸(約2.4メートル)の練り塀でめぐらした敷地2,618坪(約8639平米)。 そのうち、380坪ほどの牢屋奉行屋敷、牢屋役人の長屋、物書き場(庶務所)、賄い所(炊事場、米蔵、米搗き場など)、薬調合場、拷問蔵(拷問場所)、死罪場(処刑場)、試し切り場などで、全体の6割ほどを占め、残りの敷地に、男女を別にした大牢、二間牢、揚屋(あがりや 侍、僧など身分の高い者を収容)がそれぞれ二つずつあった。 囚人の数は、多い時には400人、少ない時でも100人以上が常時、いた。 入牢者の大部分は平民で、雑居部屋の大牢に入れられ、持参金のない者は、1畳に18人詰めといわれた拷問に近い生活を強いられ、まさに地獄の沙汰も金次第だった。 当時は、10両以上の盗み、3回以上の盗みには死罪が言い渡された時代だった。 明治8年(1875年)に伝馬町牢屋敷にいた囚人たちを新築の市ヶ谷監獄へ移すまでの約270年間に、入牢者は、数十万人、そのうち数万人が処刑されたと言われている。 その中には安政の大獄の吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら維新の志士50人あまりがいたほか、寛永16年(1639年)には、原主水(はら・もんど)ら江戸キリシタン1500人あまりが入牢し、宗旨変えをしなかった信徒たちを浅草の鳥越刑場で処刑している。 明治11年、牢屋敷の跡地に十思(じっし)小学校が建てられた。 「十思」 の校名のいわれは、中国、宋の時代に司馬光が時の天子に捧げた著書、資治通鑑の中にある 「十思之疏」 からとられている。 そこには、人の上に立つ者の心得、10カ条があり、その第1条、「欲すべきを見れば、すなわち足るを知ると思う」(欲しいと思った時でも足りれば十分であることを知って多くを望まない)に始まり、第10条には、「刑罰を施すにはすなわち怒りによって濫することを思う」(刑や罰を行う時には、怒りにまかせて、不適当な刑や罰を与えてしまうことのないように思う)とある(中央区ホームページから引用)。 その由緒ある十思小学校は、少子化の影響から、平成2年、廃校になり、現在、鉄筋3階建ての元校舎は、区民の福祉総合センター 「十思スクエア」 に様変わりしている。 十思スクエアに隣接する十思公園には、日本橋本石町にあって江戸城下に時刻を知らせた時の鐘を、昭和5年、この公園の鉄筋の鐘楼にうつした。 時を告げる鐘の音は、「処刑時もこの鐘を合図に執行されたが定時に鳴るべき鐘が処刑者の延命を願うかの如くその都度遅れたとあって一名情けの鐘と伝えられる」(江戸史跡保存協賛会の案内板)。 また、公園内には、「松陰先生終焉の地」 と刻まれた碑と十思小学校庭にあった 「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」 と書かれた碑が立っている。 また、処刑場跡地は、忌み嫌われて空き地のままだったのを明治15年、財閥の大物、大蔵喜八郎と安田善次郎が寄進し、それぞれの名前の一字を取って名付けた 「大安楽寺」 があり、その前にある延命地蔵菩薩とその台座には、山岡鉄舟の筆になる 「為囚死群霊離苦得脱」 と刻まれ、刑死者の霊を弔っている。 また、その隣には身延別院と村霊別院とがある。
by dankkochiku
| 2008-11-27 13:01
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
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tomahawk_attack
at 2008-11-27 18:24
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「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」・・・いかにも松陰先らしいですねぇ。かく有りたいものです。。
それにしても、小伝馬町・・・ここは営団地下鉄日比谷線の駅ですね。 むかし牢屋のあったところと知られています。当時「三十石二人扶持」という超・安月給でコキ使われた江戸町同心たちが、江戸の治安を守るため、必死の思いで、とっ捕まえた罪人たちをブチ込んでいたところと知られています。 その名は、鈴が森や小塚っぱらなどと共に、捕り物劇に良く登場しますので、私たちも自然のうちに馴染みが深いです。。(^^ゞ
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dankkochiku at 2008-11-27 20:46
江戸時代は、一罰百戒と民衆への威嚇効果を狙って、牢から出して市中引き廻しの上、浅草小塚原、品川鈴か森で火あぶり、はりつけの刑と今では映画くらいした見られない時代なのに、12歳の中学生が4歳児を誘拐殺害した長崎事件に、時の閣僚が、加害者の親は、市中引き廻しの上、打ち首にすればよい、と発言し問題になったことがありました。 気持は分かるけど、ねえ‥。
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marquetry at 2008-11-28 00:39
勉強になりますぅ。「刑罰を施すにはすなわち怒りによって濫することを思う」...まさに、私の根源は、怒りの塊のようなので、私のための言葉みたいですね...。一時の感情は、満足させられる、でも、ずっと満足していたかったら、怒りをコントロールできないと、笑って過ごせなくなるんですよね...。
いよいよ、陪審員制度が始まりますが、死刑制度が今後どうなっていくのか、見つめていきたいと思います。
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dankkochiku at 2008-11-28 10:24
裁判員制度も、窃盗とか傷害あたりから始めればいいものを、最初から重大犯からでは、素人には荷が重いというか、裁判官には荷が軽くなるというか、混乱するでしょうね。 死刑制度問題も泥沼の中をさ迷っているようで、内圧(国民)と外圧(国連)の間を立ち往生のていです。
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idea-kobo at 2008-11-28 12:51
<第1条、「欲すべきを見れば、すなわち足るを知ると思う」(欲しいと思った時でも足りれば十分であることを知って多くを望まない)>
金融危機に象徴される、現代は将に餓鬼地獄、食べても食べても腹一杯になれず他人の物を奪ってでも食べようとする餓鬼地獄…。 「自足自満」を根本にした、教育、政策が必要だと思うんですがねえ!先生(国会議員の皆様)
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dankkochiku at 2008-11-29 20:20
人間の欲望には、限がありません。 限がないから向上もしますし、身を滅ぼすことにもなります。 欲する所に従いて矩を超えず、と孔子様は仰るけど、う~ん、難しいですねえ。
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yamanteg at 2008-11-29 21:09
(江戸時代)死刑が刑罰の主流だった・・・・・・
効率はよかったのでしょう。 そういえば今谷の刑場跡(柏市)というのを見学したことがあります。 群衆が見守る中、数人の罪人(強盗)のうち罪の軽い順に斬首されたそうで、先に切られたほうが死までの恐怖の時間が短いという役人の説があったそうです。
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dankkochiku at 2008-11-30 09:37
死罪が主流の江戸時代は、長期間、受刑者の生活を保障する経費の削減にはなったでしょうが、刑死した遺体を刀の試し切りに使ったり、遺体から肝を取って薬に使ったり、路上にさらし首にして通行人を脅したり、と、こうなると、もう、効率の良しあしの問題ではなくなります。 もっとも、腑分けなど医学には貢献しましたが‥。
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