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今年も間もなく9月1日の 「防災の日」 がやってきます。 大震災の報道は大々的に行われますが、災害を受けた塀の中の住人についての報道は全くありません。 建物、塀が倒壊した刑務所では、暴動が発生し、大脱走が起こっていたのでしょうか。 大正12年、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の関東大震災では、東京の小菅(現・東京拘置所の前身)、市谷(旧・東京拘置所の前身)、巣鴨(旧・東京拘置所と現・府中刑務所の前身)、豊玉(旧中野刑務所)の4刑務所と横浜、浦和(黒羽刑務所の前身)、小田原少年刑務所(現・拘置支所)、千葉の各刑務所は大破し、甲府、静岡の刑務所も災害に遭いました。 この日、小菅刑務所には、懲役10年以上の長期受刑者が約1300人おりましたが、外塀、工場、倉庫などは全壊し、建物の倒壊で受刑者3人が圧死した外、10数人が重軽傷を負う災害を受けました。 その時の小菅刑務所の典獄(刑務所長)は有馬四郎助(59歳)でした。 彼は、警察官から転職し、明治10年代に北海道集治監(当時の国立刑務所)の看守長を振り出しに、網走監獄の長になり、山縣有朋内務卿の懲戒主義に従って、監獄内の暴徒を鎮圧し、規律の乱れを正した功労者でした。 彼は、北海道でいくつかの集治監を勤めていた間、キリスト教の留岡幸助教誨師との出会を機に、次第に、力の行刑から愛の行刑へと転向し、小菅刑務所では、クリスチャン典獄と呼ばれていました。 当時、行刑局では、受刑者には威嚇と苦痛を与え、罪業の重さを感じさせ、法と良心の前に平伏させるべきであるという意見が支配的でしたが、彼はこの方針を批判し、厳しさは同情に根ざしたものであるべきだと主張しました。 この考えに沿って、刑務官が長剣を帯びるのに反対し、規律違反者への減食罰を禁止し、行状の良い受刑者には所内で独歩を認めたほか、横浜刑務所と小菅刑務所の近くに不良少年少女のための感化院を開くなど、彼の進歩的な行動はしばしば刑務所長の権限を越えるものとして、行刑局内では顰蹙を買いました。 こうした彼の方針が試されたのが関東大震災でした。 受刑者たちは、突然、自分たちを閉じ込めていた外塀が全壊したのをまのあたりにしました。 しかし、愛の典獄と慕われていた有馬典獄の恩に報いようと、受刑者たちはこぞって、逃亡しようとする者を引き止め、怪我人を助け、破壊された建物を整理し、広場に建てたテントで数日間生活をしながら、収容しきれない受刑者向けのバラックを急造するなど励みました。 広場には 「典獄」 と墨書したムシロを立て、所長の所在を示し、1日3回、半紙1枚に謄写印刷した教誨文書を配布するなどして心情安定を図りました。 翌日には陸軍工兵隊が駆けつけ、11月半ばまで軍の救援を受けたほか、食料、建築資材を他の刑務所から調達しながら受刑者たちは刑務所の敷地内で生活しました。 その一方で、受刑者500人を他の刑務所へ順次移送しましたが、それまでの間、一人の逃走者も出ませんでした。 この奇跡のような出来事は海外にも伝わり、高く評価されました。 関東大震災で最も大きな被害を受けたのは、横浜でした。 「神奈川県震災誌」 によりますと、当時、横浜市には、約10万世帯、44万人が住んでいましたが、全世帯の95%が罹災(63%が焼失)し、死傷者は,市の人口の7.6%に達しました。 横浜刑務所には受刑者が約1100人いましたが、そのうち死者は48人、重傷者は50人、一方、職員の死者は3人、重傷者は幹部2人、看守そのた16人を出しました。 地震の最初の一撃で居房、倉庫、女子拘置区の一部が倒壊し、それに続く余震でレンガ造りの外塀、工場、舎房、官舎が全壊し、隣接の民家からの出火が構内に燃え移り、受刑者たちも加わっての消火にもかかわらず、断水で夕方までに刑務所はほぼ全焼しました。 構内も付近の学校、寺院など大きな建物も破壊され、受刑者を収容する場所がなく、このため午後6時過ぎ、椎名通蔵所長は監獄法第22条により、傷病者を除いて受刑者821人を集め、解放を宣言し、傷病者は急造のバラックに収容しました。 この時点まで、逃走者は一人も出ませんでした。 食糧の調達は、海軍の協力で無線電信を使い横浜市から米の配給を受けました。 監獄法では、解放した受刑者は24時間以内に刑務所か警察署に出頭することになっていましたが、解放期間を9月8日の午前6時までとし、それまでの間に、565人が自発的に戻り、その後もさみだれ式に戻って来た者もいました。 当時、横浜刑務所は根岸(現在の磯子区)にありましたが、9月8日と9日の両日、営繕工事に必要な受刑者を除いて、430人を磯子海岸からボートに乗せ、巡洋艦夕張で名古屋刑務所へ移送しました。 刑務所の復興計画は直ちに始まり、昭和2年に現在地(港南区)へ移転したのです。 関東大震災では、死刑囚、受刑者、被告人など約千人を収容していた市谷刑務所のほか、巣鴨刑務所、豊玉刑務所でも外塀、建物が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが、いずれの施設でも逃走者は出ませんでした。 関東大震災以後の震災では、昭和53年6月の宮城県沖のマグニチュード7.5の地震で、宮城刑務所と隣接する仙台拘置支所の外塀、総延長約2千メートルのうちほぼ半分が倒壊したほか、木造の舎房、工場、などが倒壊し、断水、停電の被害を受けましたが、暴動、逃走事件は起こりませんでした。 また、平成7年1月のマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災では、神戸刑務所は深刻な被害は免れましたが、暴動、逃走、その他の保安事故はここでも起こりませんでした。 このような災害時の建物、外塀の倒壊、混乱した生活の中で、何故、日本の受刑者たちは逃走を企てないのでしょうか、これはまだ、科学的に解明されていない問題です。(関連記事: 日本は脱獄事件が何故少ないか ) 刑務所など刑事施設が受けた災害では、自然災害よりも遥かに甚大なのが戦災でした。 それらの施設では、多くの死傷者と同時に逃走者も出しましたが、これは、脱獄と言うよりも緊急避難に当たるでしょう。
by dankkochiku
| 2007-08-11 13:30
| 刑務所を考える
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Comments(5)
関東大震災で被災した刑務所の話、関連書籍を読んで様々な逸話を知りました、小菅刑務所の有馬四郎助の逸話は有名です、同時に横浜刑務所の典獄の英断と、同所の独居房に収容されていた凶悪犯の受刑者を獄舎の倒壊を恐れず、房扉を開錠して全員を助けた看守の逸話など。
仰るとおり被災した刑務所、受刑者にとって脱獄する絶好の機会です、脱獄者が出なかったこと、本当に不思議です、人命救助で獄舎から出した典獄・看守の英断に対して、受刑者は一定の信頼感を持ったからでしょうか? 科学的に解明されていないこと、被災するまでの処遇・看守との奇妙な人間関係・日本人の民族性など、深層心理における面が大きいのではと推測します。科学的に解明するならば、被災した受刑者に対するカウンセリング、アンケートによる統計学的なデーターの集積も必要かと思います、何せ人間のすることですから全てを解明するのは極めて難しいと思います。
治に居て乱を忘れずと、誰もが口にしますが、非常事態に遭遇して適切な行動がとれるのがどこの世界でも上に立つ者の資格です。
戦災に遭った刑務所の話、吉村昭の小説「破獄」で触れられていますね。
私の曽祖父である有馬四郎助が、このようなところで話題に挙げられていることを知り、大変驚きと光栄で立ち寄らせていただきました。曾孫である私は31歳になり、孫である母、娘である母方の祖母と直系3代、横浜に住んでおります。
このように時を経てインターネットでも検索できる曽祖父を誇りに思います。こちらへ行き着きました記念とお礼まで書き込ませていただきます。
有馬さま コメントありがとうございました。 有馬典獄は、明治、大正を通じ、行刑に最も大きな足跡を残されましたが、少年保護事業にも力を尽くされ、私も、以前、有馬純彦園長の頃でしたか横浜家庭学園に伺いました。 また、少年法研究会にお出まし下さい。
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