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休日以外、毎日、実働8時間、同じ担当が、同じ受刑者たちと絶えず接触していますと、お互いの気心が知れてきます。 初めのうちこそ、反則に目を光らせ、何か企んではいないか、行方不明者がでないかと警戒心を緩めませんが、次第に、誰が要注意人物かが分かってきます。 また、規律だけで接していたのでは、彼らは担当についてこなくなり、円滑に勤務が進まないことも分かってきます。
担当は、若い者と同じに動けない年寄りには手心を加えます。 知能の低い者にはくどいほど同じことを注意します。 傷んだ作業衣を着ている者がいれば、新品と交換させます。 家族へ手紙の書き方について相談を持ちかけられれば、「好きなように書けばいい」 などと突き放すことはしません。 受刑者のプライバシーに立ち入った身の上相談にも乗ります。 こんな担当の様子を見ても、不公平だとか仕事の邪魔になると不平を漏らす受刑者はおりません。 また、受刑者たちも自分の担当には、どう付き合えばよいか分かってきます。 受刑者たちは担当を通さなくては、隣の席に行くことも、トイレに行くことも、手紙を出すことも、何ひとつ自分だけはできないことがよく分かっているからです。 しかし、どんな物分りのいい担当でも、受刑者が工場を出入りする時は、その都度、持ち物をすべて下に置かせ、上着、シャツのボタンを外させ、ズボンを緩めて下げさせ、両手で体に触れ、ポケットの中を調べるなど衣体検査をします。 朝夕の工場入出時には、裸体にして反則品所持検査をします。 受刑者は、これも担当の仕事と割り切り、「担当さんもご苦労なこった」 と分かってきます。 このような毎日の仕事を重ねるうちに、親身になって誠実に面倒を見れば、悪事を重ねてきた受刑者でも恩義を感じて、自分を裏切らないはずだ、と担当は考えるようになります。 担当と受刑者との間に、身分の違いを越えて、ある種の同意と信頼が自然と生まれてきます。 工場を、担当も受刑者も 「ウチの工場」 と呼びます。担当は、受刑者を 「ウチの連中」 と呼び(昭和40年代半ばまでは 「うちの兵隊」 とも呼んでいました)、受刑者は、担当を 「ウチのおやじ」 と呼びます。 そして、「ウチの工場」 でゴタゴタが起きても 「ウチのおやじ」 には迷惑をかけないとの暗黙の了解が受刑者の間にできます。 工場でゴタゴタが起きて非常ベルが鳴り響くときは、大抵、担当は休憩中か出張中で工場に不在で、作業場を巡回する不特定の交代職員が詰めている時です。 担当制は、平成不況前までは普通でした年功序列制と終身雇用制の企業が、従業員とその家族を丸抱えして面倒をみていた日本の労働業界に似ています。 受刑者が規律を守り一生懸命に働けば、担当はそれ相応の成績評価をして、進級させ、仮釈放がもらえるように幹部列席の会議で進言します。 受刑者もそんな担当には信頼を寄せ、プライベートなことも話すようになり、忠誠を尽くそうとします。 このような 「血の通った」 受刑者管理が行われてきたからこそ、外国の刑務所のような暴動やストライキなどの大きな事件も起こらず、長年、刑務所の治安が保てたと、担当制の必要性を支持する声も少なくありません。 しかし、前回も触れましたが、担当制の下では、一番下かその一つ上の階級にある一人の刑務官のところに処遇部、総務部、教育部、分類審議室、医務部の各部課から受刑者に関するすべての業務が集中し、それを担当が一手に引き受け、受刑者に実施させる仕組みですから、これでは、「担当行刑」 と批判されても仕方がないほど、負担の重すぎる業務です。 単に、仕事の量が多すぎるという問題だけではありません。 一方で受刑者を信用せず警戒しながら扱い、同時に、受刑者を信用して、生活のすべてにわたって面倒を見、更生のための指導や助言、心情把握、悩み事相談にも携わるといった、不信と信頼という相い矛盾する心をもって当たることが同じ一人の人間に任されているのです。 前回、このブログにコメントを頂いたB氏が言われたように、これはもう異次元空間のことです。 担当は、もともとは、警備・保安職員として採用された刑務官です。 教官やカウンセラーの技能が求められて採用されたのではありません。 採用後も担当のための組織的な研修が開かれることもあまりありません。 個々の勤務場所についての注意事項は受けても、更生させるための指導要領といった教科書も講習などもなく、先輩職員との雑談と試行錯誤の毎日を重ねながら、一人前の担当に育っていくのです。 現場で担当を直接監督する中間幹部職員も、余程のことがない限り、担当を信用し、あまり口出しはしません。 「まあ、塩梅よくやってくれ」 と励ます程度です。 工場担当になって間もないある看守部長が受刑者の扱い方を先輩に尋ねたとき 「お前のカラーで行け」 と言われ、悩みが吹っ切れたと、部内誌に書いています。 別の職員は、古手の看守部長から自身の体験談、失敗談を聞く方が 「小難しい行刑法の本を読むより数倍勉強になった」 と書いています。 こんな担当の目まぐるしく動き、神経をすり減らす毎日の仕事なのですが、もし、刑務官の職務が、警備会社のガードマン並みの警備面だけのものであったならば、刑務官の士気が現在ほどには保てなかったろうと、私は思います。 と言いますのも、刑務官の中で担当ほど、「仕事が大変だ」 と口にしながらも、仕事に生きがいを感じている刑務官は他にいないと断言できるからです。 しかし、担当制には問題もあります。 受刑者の更生という到底一人では手に余ることをするよりも、目の前の集団を引き締め、工場を管理する方が無難だと考えるようになるからです。 悪くすると、受刑者の要求に適当に妥協してでも、工場の平穏を維持しようとする気持ちになる危険性が、特に累犯者の多いB級系統の施設では、大いにあるのです。 これが大事件に発展した例として、古くは広島刑務所事件があります。(06年5月20日付、「塀の中のトラブルメーカーたち」) 受刑者の社会復帰を標榜した新しい法律の下で、さまざまな矯正処遇の先進技法が求められる現在、たとえ専門職員であっても一人で当たるのには限界があります。 まして、恩情と義理に頼る 「信頼行刑」 とも言われた担当制に効果が期待できるでしょうか。 また、毎日、心身共に疲れ果てて帰宅する担当がいる一方で、エアコンのきいた事務室でパソコンを操っている同じ階級、同じ給与の同僚を見れば、不公平感を抱かないかなど労務管理面での問題もあります。 出所者の再犯防止・更生よりも逃走防止を優先させて、刑務所は 「治安最後の砦」 だと信じていた時代はもう終わったのです。 あまりにも日本的で情緒的な担当制がこれからどこまで通用できるでしょうか。 大いに疑問です。
by dankkochiku
| 2006-09-04 22:26
| 刑務所を考える
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Comments(4)
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dankkochikuさん、初めまして。
一月ほど前から、このブログを読んでいます。 「塀の中」という特殊な空間は、未知の領域ですが、同時にイメージのようなものは、ドラマや小説などからできていました。 ですが、メディアからのイメージはどこか感情的で、実際はどうなんだろうと思う時が多々ありました。 dankkochikuさんの非常に冷静なブログを読んで、なるほどと納得したり、時に意外だったことに驚きを感じております。 と同時に、未知が少しでも既知となり、少しでも些細な理由であったり、つまならない事柄であったり、そういった事件が減るを願っています。
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lilyさん、好奇心一杯の方でも、現実には目を向ける方の少ない世界によくお出でになり、コメント有難うございました。 15年あまり見聞した異次元空間と評される刑務所の風土、文化をフィクションでもなく、政治的イデオロギーからでもなくお伝えしています。
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thewizerdofoz さん。 どこかのブログでお見受けした方かと思いましたが、今後ともよろしくお願いします。
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