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大森貝塚2ヶ所を見た後、蒲田駅行きのバスで池上本門寺へ向う途中、車窓から「新井宿義民六人衆霊地参道」との大きな法灯を見て下車。義民六人衆の墓地のある日蓮宗・善慶寺へ行く。以下、善慶寺ホームページにより、義民たちの伝説を辿ってみよう。
江戸期の新井宿村(現在の大森駅あたり)は、湿地帯で農作地には不向きな土地だった。領主の普請奉行は、農地の測量(検地)を不正にかさあげし、農民は、無理な年貢の取り立てに苦しめられてきたところに、延宝元年(1673)から3年間、旱魃、長雨、川の氾濫が重なり、村民は飢饉状態に陥ったが、重い年貢の取り立ては止まなかった。村民は、普請奉行に年貢減免を願い出たが無視され、切羽詰って、将軍家綱に直訴しようと、村民から選ばれた6人が訴状書を携えて村を出た。しかし、普請奉行の知るところとなり、将軍直訴の大罪を企てたとして6人を神田橋門外の普請奉行屋敷で斬首に処した。6人の親族の一人、間宮藤八郎が呼び出され、遺体を村へ持ち帰ったが、科人の遺体を公に埋葬することは許されず、菩提寺も引取りを断ったのを善慶寺住職が引き取り、墓地の片隅にに葬った。 延宝七年(1679)、間宮藤八郎は禁を犯して密かに寺の土中から遺骨を拾い集め、自分の父母の墓として150センチほどの墓をここに建て、表には父母の戒名を、裏面には六人の戒名を記し、墓の台石の四方に花立と水入れをくり抜き、そこに手向けた水が裏側に流れ、人知れず供養ができるように細工した。 歴史は下り、昭和6年、「新井宿義民六人衆の墓」と供養碑は東京府史跡に指定され、さらに昭和47年、道路拡張工事に伴う墓地整理移転工事で、六人衆の墓を寺の中央に移し、墓石の裏側を正面に向け直した。その際、墓から六人衆の遺骨を納めた大きな陶器の骨壷が出土され、村民の間で代々語り継がれてきたことが事実と確認された。幕府に直訴のため持参した19条からなる訴状帳は、明治中期に6人衆一人の末裔の家から発見され、現在、都文化財として善慶寺に保管されている。 再びバスで池上本門寺ヘ向う。正しくは「長栄山池上本門寺」の名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」との祈りをこめて日蓮上人が名付けたものだ。本門寺は、もと、日蓮に篤く帰依していた武蔵国池上の豪主、池上宗仲の館だった。弘安5年(1282)に日蓮がここでの死後、宗仲は約7万坪を寺に寄進し、以来、「池上本門寺」と呼ばれるようになった。 元禄年間に建てられ、現在、大田区指定有形文化財になっている総門(山門)をくぐると、本堂へ向う石段がある。慶長11年(1606)、加藤清正が母の追善供養に祖師堂に併せて建造したもので、「此経難持坂」(しきょうなんじざか)と呼ばれ、これも大田区有形文化財に指定されている。石段は、「法華経」のなかの96文字を取り、96段ある。石段には、新しく手摺がついているが、急な石段を見上げ、一瞬、上るのをためらったが、勇を鼓して挑戦。16段毎に踊り場が6箇所あり、思ったほどの難儀な坂ではなかった。 展望台から境内を見渡すと、山一つが本門寺の敷地のように広く、とても1日で多くの貴重な史跡を見て回ることは無理で、後日、改めて来ることにし、今回は、建造物見学を諦め、古い墓地群を一巡した。 墓地には、江戸期の墓石が集まっている区域があり、一部、崩れているものも少なくない。前田利家の側室と加藤清正の側室(上の写真)がそれぞれ生前に自分のために仏事を修め、死後の冥福を祈る逆修供養に建てた11層の石塔は、年代を経て崩れてはいるものの、生前に自分の墓石を建てる風習は、近年のことではないと始めて知った。 五重塔に近い墓地に、「各国 水難死者供養塔」とその左側に英文の墓石が建っている。これは、1870年(明治2年)、神奈川県観音崎沖で英貨物船ボンベイ号と米海軍船オネイダ号が衝突し、沈没した米船の事故を機に建立したもので、米水兵のうち61人は救助されたが、125人が水死し、そのうち身元が分かった者は横浜・外人墓地に埋葬し、不明者は本門寺に埋葬(上の写真、左側の英文墓碑)した。また、その救助活動中に死亡した日本人ダイバーは右の「海難死者供養塔」に祀ってあるそうだ。しかし、昭和8年9月に建立されたこの供養塔には、後から書き足したと思われる「各国」とあるので、日本人水難者のためだけの供養塔ではないようだ。
by dankkochiku
| 2015-03-04 23:20
| ぶらり、まち歩き
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Comments(2)
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