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和泉橋の次の橋は美倉橋。 神田川総延長24.6キロに架かる140の橋もあと3つを残し隅田川と合流する。 美倉橋は東神田にあって、神田美倉町とは1キロあまりも離れているので、何か関係があるのかと、調べたら、天和3年(1868)の、通称、八百屋お七の大火で当時この橋が焼け、美倉町の職人が橋を架け替え、その後も橋の補修に当たったので美倉の名を付けたとある(千代田区役所のホームページによる)。 ただ、嘉永・慶応の江戸切絵図には、「新シ橋」 とあるので、美倉橋の名前は、明治以後のことだろう。 美倉町の名前の由来は、明治2年にいくつかの町を合併した時、近くに三つの米蔵地があったので、三蔵町と名付け、その後、三蔵を美倉に改め、従って橋も美倉橋と名を代えた。
現在、美倉橋の南詰めにある公衆トイレは(上の写真)、三つの倉をかたどり、一つの倉は車いす対応、後の二つには、それぞれ 「男厠」、「女厠」 の札が掛けてある。 しかし、江戸時代は神田川南側に土手を築き、そこに柳の木を植えた、現在の柳原通りがあったから、ここに三つ米倉があったわけではなく、象徴的意味をもたせたもので、現在の橋は昭和4年に架けたものだ。 柳原通り、清洲橋通り、昭和通り、神田金物通りと交通量の多い通りに囲まれた岩本町は、日本橋小伝馬町と境を接する一帯だが、むしろ閑静なビル・個人商店街で、江戸時代の史跡も少なくないが、目に見える形で保存されているのは少なく、惜しい気がする。 そんな中で、目についたのが、岩本町2丁目の反物問屋のビル外壁の一角に取り付けた 「お玉ヶ池種痘所跡」 の石柱だ。 千代田区観光協会の案内によると、「お玉ヶ池」 のほとりに、安政5年(1858)、伊東玄朴や大槻俊斉ら江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って 「種痘所」 を開き、勘定奉行の川路聖謨(1801~1868)の屋敷に置いたといわれている。 半年の後、ここは焼失し下谷和泉通り(現・神田和泉町)に移った後も、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えながら明治10年(1877)、東京大学医学部へと発展したとある。 お玉ヶ池保存会の 「お玉ヶ池と種痘所跡」 の案内板には、このほか、お玉が池のほとりには、一時、梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場などがあったと記されているが、その場所を見つけるのは難しく、やっと見つけたと思ったら史跡標示板かレリーフだった。 江戸時代、岩本町一帯は湿地帯だった。 家康の時代に駿河台を切り崩した土で埋立工事が進むとともにそこに上野不忍池より広いとともいわれた広大な池ができ、周辺に桜の木を植えたので、「桜ヶ池」 と名付けた池があった。 池の端の茶屋に 「玉」 と呼ばれた看板娘がいた。 江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑が出版した江戸の地誌紀行、「江戸名所図会」 の表現を借りると、「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」 がお玉に心を通わせ、お玉を巡って決闘との噂にお玉は思い悩み、自分が争いの元となったのを悲しみ、桜ヶ池に身を投じていまう。 村民たちはお玉を憐れに思い、池の端に葬り、そのしるしに柳の木を植え、誰いうとなく 「お玉ヶ池」 と呼ぶようになった。 その後、柳に木は、明暦3年(1657)の大火で燃えたが、「江戸名所図会」に は、「神田松枝町(現・岩本町2丁目)人家の裏庭に、於玉稲荷と称する小祠あり」 と記されている。 上の写真の稲荷神社の右に金網で囲った社が、その当時のものらしいが、確かめていない。 出会い系サイトに群がる孤独な男たちに色で迫る金目的の女がしばしばマスコミの話題となる現在とは別世界の話のようだ。 ただ、このお玉ヶ池は、次第に埋め立てられ、安政年間には小さくなり、明治以前には消滅してしまったという。 昭和通りと靖国通りと岩本町駅に近い水天宮通りとに挟まれた岩本町3丁目の空き地に、「岩本町馬の水飲み広場」 の石碑があり、「この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。 千代田区区役所」 と簡単な説明がついている。 馬の水飲み場跡でもあるのかと見まわしたが、草茫々の広場でみつからず、馬に喰わせた草だけはあった。、いかにも役所仕事の気まぐれさを見せつける三角地帯だ。
by dankkochiku
| 2012-07-05 11:42
| ぶらり、まち歩き
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Comments(2)
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tomahawk_attack at 2012-07-06 10:44
「馬の水飲み場」の碑・・・・
ここは岩本町にある千葉銀やヤマパン本社の脇の三角の緑地帯辺りと推察します。。 以前、仕事の関係で近くを良く通ってましたので、なんとなく覚えてます。。 写真中央の道路標識の右方向に、戦後から続くテ―ラーや服飾工房が多数建ち並んでいた路地が有ったように思います。。 この辺の工房は企業向けのユニホームなども手掛けるなどし生き残っていますが、普段私たちが着る服などは、量販店で買う既製服が主流でありますので、ここも厳しい経営なんじゃないかと推察されるところです。。 それでも暮れ近くになると、・・・・景気付けにと?・・・・商店街を挙げて「バザー」などを催してまして、当時、私もネクタイなどを買い求めた覚えがあります。。。^^
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dankkochiku at 2012-07-06 22:53
tomahawk_attack さん よくご存知ですね。 馬の水飲み場跡の近くに、既製服問屋発祥の地の案内板だけは立っていました。 明治時代に入っても、まだ日本は貧しい国で、岩本町は、もっぱら古着商の町で、第一次大戦後にやっと、既製服の問屋が立ち始めたそうです。 車の往来は激しいのに、活気は今一つという感じの町ですね。
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