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前に、「時の鐘」 を尋ねて訪れた赤坂・圓通寺への坂を上りきると、周囲が一望に見晴らせる圓通寺通りにでる。 この赤坂5丁目の高台一帯は、昔、広島藩松平安芸守の下屋敷のあった跡地で、明治26年以後は、近衛歩兵第三連隊と近衛第二旅団司令部が占める軍事地域になり、戦後は、国有地を譲り受けた港区が地域を整備し、昭和30年には、東京放送(TBS放送センター)ビルが、昭和50年代には民営、公営の大型共同住宅が次々に建ち、平成5年には公園を取り込んだ超高層の赤坂パークビルの竣工と、時代が進むにつれ大きく様変わりした地区だ。
圓通寺通りを左に曲がり200メートルほど行くと道は直角に折れて、赤坂通りに向う急な下り坂、「三分坂(さんぶんざか)」 にでる。 ![]() 坂上と坂下にそれぞれ港区教育委員会が立てた案内柱によると、「三分坂」の名前の由来は、「急坂のため通る車賃を銀三分(さんぶん 百円余)増したためという。 坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。 さんぶでは四分の三両になるので誤り」 とある。 今でもここの舗装された坂道には、円形に彫った車の滑り止めがあるほどだから、昔は、泥道の坂を大八車や馬車で荷を積んで上下する運搬人足には危険手当が必要だったに違いない。 「坂下の渡し賃一分」 とある坂下の渡し舟の発着場所が何処だったのか分からなかった。 ![]() 三分坂の坂下の角地にある真宗大谷派の報土寺の練塀(瓦を横に並べて練り込み泥土を撞き固めた土塀、築地塀ともいう)は、安永9年(1789年)にこの寺が赤坂一つ木から移ってきた頃に造られ、坂に沿って弓なりの形をしており、港区の文化財に指定されている。 ![]() 報土寺には、江戸時代の大関・雷電為右衛門(1767~1825)の墓がある。 山門脇の区教育委員会の案内板によると、力士に弟子入りしてから引退までの22年間のうち、「大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこし」 江戸で没し、この寺に埋葬された。 ただ、大相撲史上、古今未曾有の最強力士とも賞される力士だけあって、報土寺以外にも、生地の信州在大石村(現、長野県東御市)、妻の実家があり、たびたび巡業で訪れ、引退後はここで住んだという千葉県佐倉市、松江藩の抱え力士に任じられた島根県松江市の3か所の寺院には、顕彰碑または墓があり、それぞれのとこところで命日には法要が営まれているそうだ。 ![]() また、雷電為右衛門は、文化年間に焼失した報土寺の再建に、文化11年(1814)3月、梵鐘と鐘楼を寄進している。 しかし、その鐘の 「竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。 現在の鐘は、明治四十一(1908)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。」と区教委案内柱にある。 一説には、この事件のため、江戸払いに処せられ、文政2年( (1819)には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任されそうだ。 いかにも、表現の自由が許されなかった封建制時代を象徴するような話だ。 ■
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by dankkochiku
| 2012-05-14 14:45
| ぶらり、まち歩き
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Comments(6)
改めて見ますと、都心の港区にも坂があり(坂に逆らわずに町が形成されたというべきか)由緒あるお寺があり・・・・・・・。
新たな発見です。
yamanteg さん 港区は文京区と並んで東京23区内で、最も坂の多い地域で、名前の付く坂でも、110以上あります。港区は、京浜東北線に沿って、その西側の武蔵野台地と東側の海岸低地に分かれ、区の中央部を流れる古川沿いに谷底低地が分布していおり、江戸時代から、赤坂の高台には武家屋敷が、低地には町民が住み、現在も、高台には高級マンションがあり、低地には民家と商店街があり、両地域のあいだを坂で結んでいます。 急坂では、三分坂が、その代表的なものです。
表現の自由が許されなかった封建制時代・・・・仰る通り、そうなんですけど、「枕絵」などは庶民の間に普通に流通していたとされまして、・・・当時、強く取り締まるか否かは、すべてお役人の胸先三寸、つまり半ば「好み」で取り締まっていたとこがありまして、結構、適当だった訳です。。
こちらの鐘も、お役人に、そっと袖の下を出せば、なんも問題なく済んでいたかもしれず、その様な不正を一切認めない一本気なご住職さまだったのでしょう。ご立派であります。。 その意味では、確かに難儀といえば難儀な時代でありました。。。\_(-_- 彡
tomahawk_attack さん 明治時代に入っても天皇中心の専制政治を勧める国と自由民権を唱える国民の対立、抗争は昭和20年の終戦まで続き、為政者側は、赤よりはピンクの方がましだと、エログロナンセンスを容認しました。
雷電為右衛門という名力士がいたということぐらいは知っていましたが、10敗しかしなかったとは驚きです。
そんな名力士が晩年、江戸から離れて暮らしていたのにもそんな理由があったんですね。 まさに「禍福は糾える縄の如し」というやつでしょうか。
kiyotayoki さん 善意から、あるいは、悪意なくしてしたことが災いを招いた例で、相撲一途で、当時の社会体制に無頓着だったのでしょう。
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