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新宿通り(甲州街道)と外苑東通りが交差する四谷三丁目南東側400メートル四方の地域は、かつての四谷区寺町、南寺町(現在・新宿区須賀町、若葉町)で、その町の名の通り、新宿区内寺院の25%の寺院がここに集中している。
これらの寺院は、寛永11年(1634)に江戸城西丸が全焼した際、城の北西の外堀拡張・新設計画に従って、麹町の寺社が四谷に集団移転してきたもので、江戸時代に活躍した人士、あるいはその頃の無縁仏の風化した墓石、石仏が多い。 また、この狭い一画には、車が頻繁に行き来する坂、歩行者しか通れない急坂など、標識のある坂だけでも6つあり、そのうちの4つは、お寺と関係のある名前のつく坂だ。 ただ、坂の多い落合、中井地区とは違い、ここは大都会の町中とあって、坂道の両側は、民家、アパート、事務所ビルが密集し、それらと向き合い、挟まれる恰好で寺院が建っている。 そのいつくかの例をあげよう。 四谷警察署のある外苑東通りから入った左門町と隣の須賀町には、以前、訪れた四谷怪談のお岩を祀る於岩稲荷神社と陽運寺を始め、正覚寺から奥へ7,8軒隣接する寺院が通りの片側に並び、その道向かいには、民家が並んでいる。 群書類従の編者として名高い盲人国学者の塙保己一と浅草・吉原に対抗して内藤新宿を開設した高松喜六の2人の墓は、東福院坂途中の愛染院にあり、さらに下ると、急な石段坂が立ちはだかり、その上に須賀神社がある(上の写真。 左煉瓦塀は愛染院、その先に須賀神社の石段がみえる)。 また、鬼平犯科帳の主人公、長谷川平蔵の墓碑のある(墓はない?)戒行寺は、その名をとった戒行寺坂の上にある。 江戸後期の刀鍛冶で四谷正宗の名刀作り、源清麿の墓のある宗福寺は、4階建てビルと民家に接して建っており、また、幕末から明治にかけて活躍した最後の剣客といわれる榊原鍵吉の墓は、西応寺本堂裏の急斜面下に広がる墓地にある(上の写真)。 松巌寺と永心寺の間にあって、幅2メートルほどの闇(くらやみ)坂の両側は、道路際いっぱいに建つ民家に挟まれ、街灯はあるものの、夜間は歩行者が転びそうなくらいの急坂だ。 この四谷地区が海岸だったとは信じ難い話だが、若葉町2丁目の観音坂下にある区の標柱には、江戸時代以前、この辺りは海岸の浅瀬で、そこに立っていた観音像の台石が潮の満ち干によって湿ったり乾いたりしたので、潮踏(塩踏)観音とか潮干観音と呼ばれ、また、この辺りを潮踏みの里と呼んだことから、観音坂の名が付けられたとある。 その観音像は、坂を下る途中にあって、赤、紺色の幟旗がたくさん立っている真言宗・真成院3階の観音堂に祀られている(上の写真)。 観音坂を上った高台に浄土宗・西念寺がある。 ここには、服部半蔵の墓と半蔵が家康から賜った槍が本堂に保管されている。 伊賀流忍者で槍の名人の半蔵は、家康の三河以来の旧臣で、16将の1人に数えられ、家康の江戸入府後は、江戸城の警護に当たったことから、皇居・半蔵門の名前の由来とされている人物だ(上の写真)。 区教育委員会の掲示板にある服部半蔵の墓の由来は、簡潔すぎて読み解くのは難しい。 私なりの解説を加えると、今川義元の姪で徳川家康(松平元康)の正室となった築山御前との間に生まれた長男の松平信康に対して、信長は警戒心から、天正7年(1579)、無情にも、その父家康に、信康の切腹を命じた。 半蔵は、その介錯役を主君の家康から命じられたが、自らの手を下すことができず、「晩年、信康の菩提を弔うため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。 文禄2年(1593)には、家康から寺院を建立するよう内命を受けたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)、現在地に移転した」 とある。 この辺りの坂道を上り下りして、いささか疲れ、これで終わりにしようと帰途についたら、もう一つ、暗闇坂を下りなくてはならないことになった。 それは、地下にある四谷3丁目駅への急な石段坂だった。
by dankkochiku
| 2012-03-05 23:27
| ぶらり、まち歩き
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Comments(12)
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yamanteg at 2012-03-06 13:52
坂のある町は不便だけど歴史も秘めて風情がありますね。
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kiyotayoki at 2012-03-06 17:41
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tomahawk_attack
at 2012-03-06 19:41
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大寺院は大都会においても広大な敷地を有してますが、小規模の寺となると、なかなかそうも参りません。。
当然、檀家数も少ないでありましょうし、そこだけでは住職も食っていけませんから、遠くの寺と掛け持ちというケースも多いと思われます。。 境内の一部にマンションを建て、不動産経営をする住職もおられる訳ですが、寺の修復にも大金が入りますし、都会の檀家はシブチンが多いでしょうし、そうしたことも無理なきとこであります。。 それはそれとしまして、半蔵門という名を残す程、幕府に影響のあった服部半蔵の墓・・・思った以上に小さく簡素なものでありますねぇ。。 生きている時は、半蔵、半蔵、と頼られても、所詮は「陰の軍団」・・・柳生などと同じで、死んでしまえば?・・・ただの人・・・という感じなのでしょうか・・・ 太平の世では、如何なる武芸者といえども、私たちが考えるほど、手厚いモノではないのですねぇ。。 今なら、さしずめ大臣を警護するシークレットサービスといったところでありましょうが、任務の割には、今も昔も軽んじた扱いでありますね。虚しいモノを感じさせます。。\_(-_- 彡
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dankkochiku at 2012-03-06 20:30
yamanteg さん 坂というより、緩い起伏の武蔵野の野辺にいますと、新宿区、港区、文京区といった急坂が多い地域に驚かされます。、
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dankkochiku at 2012-03-06 20:54
kiyotayoki さん 地下鉄網が張り巡らされた東京の地下は、確かに坂の町です。
ところで、 kiyotayoki さんの蔵めぐりは、都内だけなのでしょうか。 蔵いっぱいの川越は、既に、探索済みでしょうか。
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dankkochiku at 2012-03-06 21:11
tomahawk_attack さん 日本人は葬式仏教信者と蔑視されながら、それと税制優遇策とが長い間、寺院の経営を支えてきましたが、近年、寺院の墓離れが広がり、なりふり構わず、宗派不問の墓地案内受付の広告が目立ちます。
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hisako-baaba at 2012-03-09 22:35
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sidediscussion at 2012-03-09 22:36
初めて伺います。
四ツ谷の風景、私の知らないことが溢れていて興味を持って読みました。 ほんと坂とお寺の多い我が新宿区です。 我が家の近くには横寺町という町名も残っています。 そして、坂は現在は柳の大木が一本残っている幽霊坂とかをいつも通っています。 柳町の近くには小さい昔ながらのお花屋さんが細々と営業つづけています。 理由はお寺が沢山ありその敷地内にお墓があるので墓参用の花を売る生業です。 東京はまだまだ昔の姿を残している不思議な土地だと感じています。
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dankkochiku at 2012-03-10 09:39
hisako-baaba さん そうですねー。例えば、若者に大人気の日暮里の夕焼けダンダンは、坂上が住宅地、坂下が商店街で、地元のお年寄りが、片手にショッッピングカートを、片手で階段の手すりを握って石段を上り下りしている姿を見ると、足腰が弱くなったらどうなるのかと、他人事ながら心配です。
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dankkochiku at 2012-03-11 09:12
sidediscussion さん コメント有難うございました。 心の休まるような所に住まわれているようですね。 飯田橋駅から色街の神楽坂と善国寺の先まは知りませんでしたが、ご案内の横寺町を是非、伺いたくなりました。 今後ともよろしくお願いします。
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cocomerita at 2012-03-14 01:24
Ciao dankkochikuさん
へ~~~四谷三丁目は、実は良く行くんだけど でもこの坂がたくさんある界隈には行ったことないなあ 消防署のあたりが多いんで.. でもね、あそこの元ワコールの高層ビルの隣りに、 ひっそりと草寺というお寺があって、(名前がいいでしょ?) そこには慶応医学部の方たちが、研究のために犠牲になった動物をともらうため,蛙塚(たぶんこういう名前だった...)があって心暖かくなります 写真見てるだけで、わたしも坂道上った気分 ゼ―ゼ―してきました 苦笑 お疲れさまでした ^^
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dankkochiku at 2012-03-14 18:41
Ciao cocomerita さん えー 「草寺」ですか~? 四谷4丁目の長善寺にある赤めのうで彫った観世音菩薩像の台座に笹の彫りものがあるので、「笹寺」と呼んでいるお寺はあるのですが~。 「蛙塚」も聞いたことありませんねー。
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