カテゴリ
その他のジャンル
外部リンク
記事ランキング
画像一覧
|
杉並区内に源泉をもう一つの1級河川、妙正寺川は、妙正寺公園の池から溢れ、杉並、中野、新宿の3区を通り、JR高田馬場駅に近い高田橋付近で神田川と合流する約9キロメトールの川だ。 列車や車が行き交う橋の下をゆっくり流れる河川を眺めたり、集中豪雨で増水、被水被害をもたらした川と聞いたりしても、源泉地からちょろちょろと流れ出る水からは想像しにくい。 ただ、源泉といっても、広がり続ける都市化の波に、今では、公園の池を満たすほど自然の湧水には恵まれず、善福寺公園の池の10分の1もない広さの妙正寺公園の池でも、電動モーターで井戸から汲み上げ、7基の噴水を備え、市民憩いの公園池の体面を保っている。 公園の池から流れ出る妙正寺川最初の橋、落合橋の下を見ると、この池からの水ともう一つ別の下水道からの水とが合流している。 これは、井草八幡前の青梅街道を隔てた向かいの急な坂を下った斜面にある 「切通し公園」 を源泉とした井草川の水との説がある。 しかし、切り通し公園の近所には、暗渠化した川の流れの痕跡を残した細い通路が住宅地を通っているものの、公園内に源泉はなく、以前の流れに模して作った小川に夏の間だけ井戸水を流しているとのことだった。 落合橋の下で落ち合う水系は、別に源泉があるのか、あるいは、雨水が下水溝へ流れ込んだものではなかろうか。 妙正寺公園、妙正寺川の由来の妙正寺を訪れる。 山門に紙垂(しで)が下がっているのが異様に見えたが、 文和元年(1352)、千葉県市川市にある法華経寺の第三世日祐上人がこの地に草創するに当たって、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を奉った寺院と知って納得。 日本古来の多神教の神々信仰と外来宗教の仏教とをあまり抵抗なく結びつけて信じてきた宗教に寛大な日本人独特の神仏習合の風習が、明治政府の神仏分離令をきっかけに、一時、過激な廃仏毀釈運動を巻き起こしたが、純朴な一般信徒の意識まで変えることはできず、今も続いているようだ。 また、妙正寺には、井口家出身の六代目本因坊知伯(享保18年没)の墓が区の指定史跡になっていたが、この地域には井口姓が多く、井口家の墓が多いうえに本因坊六代目の墓と分かる案内板も立っておらず、とうとう見つけられなかった。 妙正寺から200メートル先の環八通りを横切り、今川町の観泉寺に行く。 今川町の由来は、桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元から3代目の直房が、ここを今川家の始祖から義元など今川家の菩提寺とし、以後も一族を祀ってきたことに因んで付けられた町名だ。 戦いに敗れた義元一族のその後については、全く知らなかったが、「義元の子孫は江戸時代には高家として幕府に仕え、今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めた」(都教育委員会の説明)とある。 今川氏累代の墓は東京都指定旧跡で、これを目的に、訪れてきた観光の数グループと出会った。
by dankkochiku
| 2011-10-25 10:40
| ぶらり、まち歩き
|
Comments(6)
Commented
by
tomahawk_attack
at 2011-10-30 13:49
x
桶狭間の戦いで信長軍の奇襲に敗れた今川義元・・・数奇な運命を送られた方でありました。。
当ブログに依れば、その義元一族は、その後、江戸時代になって高家として幕府につかえていたとありますね。。 高家というと私の場合は直ぐ「吉良」を思い起こしてしまいますが、義元公も麻呂のホクロを眉間に書いてますので、行儀仕来たりを教える立場にある「高家」として生きる道を得たんだなぁ。・・・などと思いました。。\_(-_- 彡
0
Commented
by
dankkochiku at 2011-10-30 17:01
桶狭間の戦いは、戦国時代でも群を抜いて激しい大軍同士の肉弾戦の連続で、戦いの美学のもと、人命が軽んじられた時代でした。
ところで、「義元公も麻呂のホクロを眉間に書いてますので」‥、寡聞にして意味が分からず、ご教示願います。
Commented
by
tomahawk_attack
at 2011-10-30 20:28
x
>麻呂のホクロ・・・でありますか・・・^^
こちらは、小生が勝手にそう呼んでいるものでありまして、・・・・ヘ(^^ヘ) 俗に言うところの・・・麻呂眉・・・つまり公家衆のする「置眉」のことであります。。 今川家は古来より公家衆との関わりが強かったセイでありましょうか、義元公もまた、公家の生活様式を好んだ人物とされ、桶狭間に向かう軍列シーンでも、輿に乗り、「立烏帽子」「置眉」、「お歯黒」、「薄化粧」・・・という、いわゆる公家のする井出達で登場してきます。。 幾ら大軍に守られていたとはいえ、この井出達は戦場(いくさば)に向かう際の井出達にしては、あまりに油断が多過ぎているように思います。。 結局、あのようなご最後を遂げられる訳ですが、そうした公家衆との関わり合いが深かったことが、後の世では、逆に助けとなり、「高家」という立場に就くことが出来たのだと思います。。 ちなみに、忠臣蔵において、浅野内匠頭の仇役として登場し、後に赤穂浪士たちの討ち入りを受け非業な死を遂げる「吉良上野介」も高家でありまして、しかも高家筆頭でありました。。
Commented
by
tomahawk_attack
at 2011-10-30 20:28
x
今川家も義元公の死を境に、急速に衰退していく訳でありますが、公家式を選んだ結果が一方で家を滅ぼすこととなり、また一方では、後の世で家が生き残るスベとなった訳で・・・運命とは、誠に皮肉なものであります。。。\_(-_- 彡
Commented
by
dankkochiku at 2011-10-31 10:19
tomahawk_attack さん 詳しくお教え有難うございました。 早速、今川義元の絵を見ましたら、なるほど、鎧・兜に身を固めた陣中というのに、化粧の方もいろいろ気を配っているようで、どうも武将としてはこけおどしの感じですね。
Commented
by
正保町
at 2019-03-02 22:02
x
今川直房は、今川義元のひ孫。「正保」年間に徳川家光から現在の杉並区上半分、練馬区中村、中野区鷺宮を賜る。朝廷から故徳川家康に対する東照宮の神号宣下を得たことへの功績による。杉並区今川町に屋敷。
この「正保」年間に、現在の井草1丁目に稲荷神社が祀られ、「正保」稲荷として現存する。1932年に、「正保」稲荷に因み、この近辺の町名が「正保」町となった。 1963年に「正保」町は、井草1丁目に町名変更された。
|
ファン申請 |
||