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日本人の信仰の原点、路傍に立つ地蔵や馬頭観音については前に触れたが、それよりももっと原始的で日常生活に馴染み深いのが 「塚」。 塚とは、盛り土した所のことだが、その意味は広く、アリ塚、モグラ塚、狐塚のような動物が作ったものから、貝塚、一里塚、古墳塚、庚申塚、首塚、耳塚、比翼塚,刀塚、筆塚、変わったところでは、小唄塚(神田明神)など様々な塚がある。 他にも、塚とは呼ばないものの、土を盛った上にある慰霊碑、記念碑なども塚だろう。
また、明治新政府が身分制度を廃止し、平民も苗字を名乗れるようになった結果、急に日本人の姓が乱造された中で、塚山、塚田、塚本、大塚、石塚、西塚など、家の近所に塚があったことをにおわせる姓も多い。 このように民俗信仰の歴史をもつ塚だが、繁華街では交通上、邪魔者扱いされ、いまでは寺や神社の境内の片隅に移されたものが数多い。 その中から、目を引いた昔と今の塚を選んでみた。 荒川区と台東区の境にある浄閑寺の山門を入ってすぐ左にあるのが 「豕(ぶた)塚」。 石の表面が剥げかかった古い塚だが、よく見ているうちにブタの絵が下の方から浮かび上がってくる。 肉づきのない豚は、ブタに改良する前のイノシシのことだろうか、突進してくる姿が描かれている。 日本人が豚肉を食用にするようになったのは、戦国時代にキリスト教宣教師が肉食として豚肉を食べる習慣を持ち込んだことに始まるそうだが、その後、薩摩藩と南西諸島、沖縄で養豚が盛んに行われたから、豚肉の美味さに感謝して塚が建てられたのだろうか。 ただ、このブタ塚がいつ建てられたのか寺の人に伺ったが分からないそうだ。 目黒区の祐天寺に 「累(かさね)塚」 がある。 これは、江戸時代後期に三遊亭円朝の怪談噺や鶴屋南北の歌舞伎で演じられて以来、「累ヶ淵」 の名で広く知られる話だ。 この話は、江戸時代初期の慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの60年にわたって、今で言う身体障害のある女の子3人を虐待死させた2人の父親への祟りが一族に続いたが、寛文8年(1668)頃、増上寺第16代祐天上人がその怨霊の祟りを解いたという実話が基になっている。 上の写真の累塚は、大正15年に累一族の霊を弔って、6世尾上梅幸らが発起人となり建立したもので、「爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習となっている」 と案内板に記されている。 上野寛永寺の境内に 「蟲冢」 という何の変哲もない自然石の塚がある。 石の前面、裏面にはぎっしりと漢詩が彫ってあるが、とても読めそうにないので諦め、台東区教育委員会の掲示板から、この虫塚の由来を抜き書きする。 この塚は、伊勢長島藩主、増山雪斎(1754-1819)の遺志により、写生に使った虫類の霊を慰めるため、文政4年(1821)に建てたもの。 雪斎は、写実的な画法で、多くの花鳥画を描いたが、なかでも虫類写生図譜 「虫豸帖」(ちゅうちじょう)は精緻さと本草学にのっとった正確さで殊に有名、とある。 多くの虫のお陰で、立派は昆虫図鑑を完成できたことへの感謝と供養の塚だ。 築地魚市場内にある波除(なみよけ)稲荷神社の境内には、場所柄というか、魚河岸の碑のほか、卵塚、海老塚、あんこう塚、活魚塚、蛤石などが並んでいる。 その中で傑作と思ったのが、上にあげた魚介類や鶏卵がすべて入っている 「すし塚」。 昭和47年、東京都鮨商環境衛生協同組合員4200人の総意で建てたこの塚にある由来記には、 「すし 日本風土に育ち 日本の誰もがこよなく愛し 自慢している食べ物 それがすし 永い永い伝統の中にあるすし しかしその歴史の蔭にいくたの魚介が 身を提してくれたであろうか 世人の味覚をたのしませ そしてまた わたし達のたつきの基になってくれたさかなたち それらあまた魚介の霊を慰め とわに鎮まれかしと祈り 而して永遠の食物としてのすしを表徴するためこヽゆかりの地にすし塚を建てたゆえんである。」 と、いかにも江戸町人の心を引き継いできたような碑文だ。 神社を出て、かもめが飛び交う通りを渡った先の路地に何軒もある大衆的なすし屋の前は、人の列ができていた。 店がいくら混んでいるからって、ここにきてラーメンやカレーを食べるたー、江戸っ子の面汚しだ。
by dankkochiku
| 2010-11-28 23:45
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
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idea-kobo at 2010-11-29 11:56
知人には 塚田、塚本 おるがのう
エエ話をありがとう。
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tomahawk_attack
at 2010-11-29 18:43
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塚・・・実は我が家の近くにも、以前、大きな塚がありました。今は整地されて跡形もありません。私がまだ小さかったころの話です。当時、某大学の教授らが、区画整理で整地される前に発掘に来ました。。
だもんで・・・私の中では、今まで、塚=墓・・というイメージでありました。。 それでなくとも日本人は信心深いとこがありますし、新しい建物を建てる際などは、工事の安全、家主の災い除けを願って、地鎮祭などを行います。。 昔の人が、人知の及ばぬ世界に生きる荒ぶる魂を鎮めようと・・・こうした塚を建てたのであれば・・・私的には理解できます。。。\_(-_- 彡
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dankkochiku at 2010-11-29 20:23
idea-kobo さん それにしても、日本人の苗字の多さに加え、難読名の多さをつくずく感じますね。
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dankkochiku at 2010-11-29 20:46
tomahawk_attack さん 墓と塚の区別は曖昧。 昔、墓を建てることが家計上、できなかった家では、土葬しその上に目印に石を置いただけのがありますし、八幡太郎義家が奥州征伐で、戦功の証として敵軍の首を持ち帰り、供養したという首塚があります。その一方で、指圧学会の建てた指塚のように浪越徳次郎氏を称える塚もあります。
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desire_san at 2010-12-03 09:39
こんにちは。時々訪問させていただき、記事と写真を楽しく拝見しています。「塚」は私はなんとなく日ごろ見かけても通り過ぎてしまうのですが、ブログをよませていただき、少し興味を持ってみたいと思いました。
私は沖縄県伊是名島の大自然の中で育ち生命感溢れる独特の色彩感覚を持った版画家・名嘉睦稔さんの作品を観て来ました。この人の作品も一見の価値があります。ぜひ読んでみてください。 http://desireart.exblog.jp/11649982/ よろしかったらブログにコメントをお願いします。
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dankkochiku at 2010-12-03 14:42
desire_san さん 時々お越し頂いているとのこと、有難うございます。 古き良きものが近代化、現代化の波に押し流されてどんどんと変容し、消えていくのは、なんとも惜しい気持ちです。
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cocomerita at 2010-12-03 17:41
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dankkochiku at 2010-12-04 22:36
Ciao cocomerita さん 魚、虫、縫い針、筆、包丁など人の役に立ってくれたものに感謝し、もはや使い物にならなくなったものの中にも霊的なものを認め、供養をするというのは、ものを大事にする習慣作りに役立つでしょう。
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