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今も昔も、繁華街、行楽地、寺院の祭日など人出の多い所には迷子が付きもの。 最近でこそ、野生動物の生態調査並みに子どもにGPS端末を付けたり、携帯電話を持たせたりする家庭が多いが、江戸時代、それも人口100万人と世界一にまでふくれ上がった江戸中期には、迷子対策として、町の有力者が迷子を保護し、人通り多い場所の人目に付きやすいところに迷子情報の石標が必要になった。 石標の名前は、それぞれ違うが、いずれも、見失った子どもの特徴などの情報を紙に書いて石標の片側の面に、また、迷子を見つけた通行人は、反対側の面に迷子についての情報を書き、それぞれ石標の窪みに貼り付ける、だれにでもできる迷子情報伝達塔だ。 湯島天神境内に 「奇縁氷人石」(上の写真)がある。 男女の仲を取り持つ石塚かと思ったら、迷子探しの石標で、右側に 「たずぬるかた」(尋ねる方)、左側に 「をしふるかた」(を知っている方)と、ひらがなで書いてある。 文京区教育委員会によると、これは、嘉永3年(1850)10月に江戸で初めて建てられたもの。 浅草寺境内の 「迷子しるべ石」 には、正面に 「南無大慈悲観音菩薩まよひこのしるべ」(上の写真)とあり、その左面に 「たずぬる方」、右面に 「志(し)らする方」 とある。 これは、安政7年(1860)、新吉原の松田屋嘉平衛が建てたものだが、昭和20年の東京空襲で破壊され、現在のものは、昭和32年に再建したもの。 日銀に近い一石橋のたもとにフェンスで囲った石標がある。 中に 「満よひ子の志るべ」(迷い子のしるべ)があり、左の面に 「たずぬる方」、右面には 「志らする方」(上の2枚の写真)と書いてある。 これも安政4年(1857)2月に日本橋西河岸町の町人たちが資金を出し合って建てた迷子しらせ石。 どの石標も達筆の変体文字で書かれ、書道の心得がないと難読だが、江戸の町人たちがこれを読めたというのは、読み書き算盤教育だけは徹底していたからだろうか。 ただ、この石標が迷子探しにどれだけ効果があったのか心もとない感じもするが、正徳3年(1713)には江戸の町数は933町と 「八百八町」 を超えて世界一、人口の多い大都会で迷子探しのための苦肉の策だったのだろう。 一方、町人の住まいは、大抵、4畳半の居間に土間だけの5~10軒長屋。 居間、土間の仕切りはなく、玄関から中が丸見え。 隣家とは薄板で仕切られ、家の中の物音、話声も筒抜けという全くプライバシーのない住生活だった。 だが、こうした住環境が、開けっぴろげで親しい近隣関係を生み、互いの人情で結ばれた連帯意識と共同社会で育てられた町人たちには、この程度の迷子知らせ石でも役立ったのかもしれない。 一方、経済的豊かさが家族の連帯感を緩め、近隣社会との親密な交流を閉ざし、老人の孤独死など現在の社会病理状態から離れられない現代人が果たして幸福なのか、それは疑問だ。
by dankkochiku
| 2010-11-21 21:02
| ぶらり、まち歩き
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Comments(15)
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idea-kobo at 2010-11-22 07:47
今は亡き 子を訪ねる 迷子塚
昔の人は色々考えて工夫したんですねえ。
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dankkochiku at 2010-11-22 10:43
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sidediscussion at 2010-11-22 12:06
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tomahawk_attack at 2010-11-22 18:12
昔は、非科学的な「神隠し」という名のもとに・・・人さらいが横行していたように思います。許せないし・・・胸が詰まりますねぇ。。
我が家では子供が小さいうちは、常に手をつないでいましたし、時には紐をつないだこともありました。。 今と違ってGPSも無い時代です。遊園地や花火大会、お祭り・・肩車したり、背負ったり、しっかり手をつないだり・・・もう大変でした。。 それを見て、今の人たちの感覚では過剰だと思う人もいると思いますが・・当の親としては大真面目でありまして、まさに神経の休まる暇もありませんほど、子供に集中していました。その位にしないと、子供の真の安心安全は防ぎきれません。お陰さまで事故もなく無事育ちました。。 今の親は恰好優先で、子供より自分のライフスタイルの方を優先と見えます。放任主義とかで、子供から目線を移しても平気です。こういう姿勢は良くないと思ってます。前時代の昔も・・・私はこう有るべきだったのでは?・・・と思っています。。\_(-_- 彡
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dankkochiku at 2010-11-22 21:16
sidediscussion さん 東京で生まれ、育ったのに、知らない場所が多過ぎ、やっと定年を過ぎて丹念に見て回る時間ができました。 ただ、どこもビル街になり、江戸の姿を当時のまま留めているところがほとんどなく、残念です。
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dankkochiku at 2010-11-22 21:37
tomahawk_attack さん そういえば、言うことを聞かないと人さらいに連れて行かれるよ、なんて、子供のころよく耳にしましたね。 いつもの時間までに家に戻ってこないと、親は近所に聞いて回り、探し歩いたものでした。
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yamanteg at 2010-11-23 20:57
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dankkochiku at 2010-11-23 22:07
yamanteg さん 本当にお久しぶりです。早々にお越し頂き、有難うございます。 今も昔も、少しの時間でも、子どもがいなくなったり、帰ってこなかったりすると、ドキッとするのは同じですね。
「戦場の刑務官.トラック島の悲劇」と題して書いてみました。妻のブログですが載せましたので見てください。祖父が私に話したことです。記録的には刑務官の生存者数、受刑者の被害者数は明確にはできませんでした。ネットで調べた内容では相違がありますね。dankkochikuさんのデータを基準に書かせてもらいました。
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cocomerita at 2010-11-26 00:25
Ciao dankkochikuさん
うわ―――迷い子石 興味深いわ―― こんなものがあったんですね でもさ、これって迷子と言うより、人さらいにあった子じゃぁないかなあという気がする それで売られちゃったとか だって、どんなに大きな町でも、人間一人が全くいなくなるわけがないと思うんですもん お母さんの苦しみを思うと、やるせない 私の想像が違ってて、たくさんの子どもたちがお家に帰れてたらいいなあと思います
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dankkochiku at 2010-11-26 21:17
Ciao cocomerita さん 人さらい、うーん、大いにあり得ることです。 とくに、新吉原の楼主が建てたという浅草寺のは、その可能性ありますね。タダでさらってきて、下働きに使い、女の子ならば、見込まれて遊女、生きては苦界、死しては投げ込み寺の浄閑寺? 考えすぎかなー。
ところで、もうイタリアですか?
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cocomerita at 2010-11-27 20:30
CIao dankkochikuさん
はい、イタリアです なんとなく後ろ髪ひかれて帰ってきました まだ、鍋も食べてなかったし――くやしーーー 私ね小さい頃、人さらいに会うよ―って脅かされて育ったからかも 笑 でも、ありうるよね その昔、キリスト教の伝道者たちが、農民をうまく丸めこんで、シンガポール沖に泊まってたスペイン船に奴隷として売り飛ばしていたと言うのを聞いた時から、ますます物事の裏にあるものを探るようになっちゃった
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dankkochiku at 2010-12-01 14:13
cocomerita さん 秀吉がキリシタン禁止令をだした一因に、キリシタンのポルトガル商人による日本人奴隷売買が、南アジア各地から、開拓中のアルゼンチン、メキシコなどまで売り飛ばされていたことがあげられますね。
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奥津希多世ママ
at 2015-08-21 09:25
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湯島天神迷子しるべ石(嘉永3年とありますが、現在のは明治3~4年頃の再建)は、京都の北野天神社(文政5年)のを模した、とありますから、これが始まりかも知れませんね。
芝居など各地の盛り場に建てられたようです。 参考(「風俗」日本風俗史学会誌1987)
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dankkochiku at 2015-08-21 11:17
奥津希多世ママ さま 5年も前の当方ブログへのコメントありがとうございます。風俗、民俗、世相などは事実の確証を重んじる歴史とは違いますが、民衆の活き活きした様子がよく分かり興味を呼びます。江戸風俗資料「江戸時代刑罰風俗細見」(小野武雄編著)からは大いに教えられました。
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