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都電・荒川線の終点、三ノ輪橋で下り、日光街道沿いに千住大橋方向へ5分ほど行くと、コンクリート3階建てのライトブルーの本堂の上に高さ12mの金色の聖観音像という派手な寺院が見える(前々回写真参照)。
ここ円通寺を訪れたのは、前々回の吉展ちやん誘拐殺人事件の現場であることと、上野公園の彰義隊墓の説明板から、一橋(徳川)慶喜の側近、小川興郷が画家に描かせた上野戦争 「彰義隊奮戦之図」 に描かれた両太師堂の輪王殿表門、通称 「黒門」 がここの境内に保存してあるのが分かったからだ。 江戸開城に反対する彰義隊が、上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜の下に結集し、慶應4年5月、政府軍と交戦したが、半日で、戦死者を残して敗退した。 政府軍はその遺骸を見せしめに放置してあったのを円通寺の仏磨(ぶつま)和尚、寛永寺御用商人三河屋幸三郎、浅草の火消し頭の新門辰五郎らが官許を得て遺骸266体を集め、上野の山で荼毘に付し、遺骨の一部を上野の山に、一部を円通寺に埋葬したことは、前に載せたので省略するが(6月26日付けのブログ)、円通寺には、彰義隊員の 「戦死墓」 のほか、戊辰戦争で京都から函館までの各地で戦死した幕臣125人の氏名を墓碑に彫った 「死節之墓」(上の写真)がある。 この中には、鳥羽・伏見の戦い参加した新撰組局長の近藤勇や鳥羽・伏見戦争から函館戦争まで従軍し戦死した新撰組副長の土方歳三の名前もあると聞いていたが、残念ながら、文字が薄れ確認できなかった。 なお、その近くに、新門辰五郎の石碑も立っている。 史跡墓地には、彰義隊員らへの追悼碑がいくつも建っているが、その中に、箱館五稜郭に立てこもり官軍と戦った榎本武揚の直筆の石碑がある。 榎本は、賊軍として一度は捕えられたが、「万国海律全書」 を翻訳するなど、国際法に精通していたので、斬罪に処すのは惜しまれ、やはり五稜郭の戦いで官軍側の黒田清隆からの助命願いが認められ、後に明治政府のもとで諸大臣を歴任した人士である。 円通寺に文化財指定の黒門(上の写真)が上野から運ばれてあるのは、彰義隊兵士の合葬が縁で、明治40年(1907)、上野の帝室博物館(現・国立博物館)から下賜されたから。 彰義隊攻撃時に政府軍側から撃ち込まれた無数の弾痕は、戦闘の激しさを残している。 猟銃の散弾のような鉛の弾丸は、抜き取られ、別に保存されている。 境内の案内板によると、曹洞宗・円通寺の創建は、延暦10年(791年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂とあるが、道元が曹洞宗を開祖したのが13世紀だから、その経緯は不明。 また、本堂に向かって右側に、平安朝後期の武将、八幡太郎義家が11世紀後半に、関東の兵を連れ、陸奥の国で起こった後三年の役に介入して勝利し、その証拠として、賊首48を持ち帰ってここに埋めたという首塚48基(上の写真)がある。 これが、この辺りを 「小塚原」 と呼ぶようになったいわれだと書いてある。 江戸時代の古地図を見ると、この辺りは、広々とした野原と田地の寂しいところで、そこに刑場があった。 明治12年、千住に陸軍の被服工場ができた。 敗戦で工場は操業停止し、民間の紡績工場に払い下げになったが、経営不振で閉鎖。 この跡地に、昭和37年、「永田ラッパ」 で親しまれた大映社長・永田雅一氏が私財を投じ、大毎オリオンズの拠点、東京スタジアムを作ったが、これも10年ほどで、経営不振から短命施設に終わった。 その跡地は、円通寺から日光街道を北に少し行った南千住警察署のそばだが、現在、荒川区営総合スポーツセンターになっている。 南千住は、有為転変の激しい歴史のある町だ。
by dankkochiku
| 2010-09-16 20:46
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
へ~~~~
東京にもまだこんな場所があったなんて 日本開国時の様子は、個人的になぜか興味を魅かれるのです 国のために、一歩も譲らずに互いの信じることのために闘う まあ、きっと、利に絡んだ人もいたのでしょうが 凄いなあと思う 榎本武揚さんのことは他のブログでも読みました ちょっと調べてみようかなあ もっと彼のことが知りたくなっちゃった 最近あまりにもこういう秀でた人がいないので,,,苦笑
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dankkochiku at 2010-09-17 20:22
Junko さん 京都は11年も続いた応仁の乱で、大阪は豊臣、徳川の権力争いで、いずれも古来からの様々な文化が取捨選択されたのに反して、261年間、鎖国の中とはいえ太平な江戸文化が今も保たれているのが町の所どころに見受けられます。 勿論、一時流行った、ざーます言葉の山手でなく、何てやんで―の下町文化は魅力一杯です。
明治維新期の佐幕派と尊皇派の争いでは、多くの有為の人士が亡くなったのは残念ですが、その争は、現在の政治家にはない、互いに信念をぶつけての争いでした。
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tomahawk_attack
at 2010-09-18 00:17
x
銃痕の跡が生々しい黒門てすね。往時が偲ばれます。。
ですが、私に取っての銃痕というと、実は天安門広場の石碑になります。騒乱からまだ何年も経っていない頃、中国に行ったものですから、生々しく残ってました。あの水平撃ちで多くの人が犠牲になったのかと思うと・・とても暗い気持ちになったものです。銃痕というのは、そのどれを見ても、気持ち良いもんではありませんね。。 それにしてもこの界隈、dankkochikuさんは、以前にも、かどやの「槍かけ団子」を上げていましたね。この辺、よく行かれるんですか?・・・\_(-_- 彡
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hisako-baaba at 2010-09-18 00:17
ほんとに、幕末~明治維新の人々は魅力的ですね。
勤皇も佐幕も、信じるままに一生懸命でしたものね。 今の政治家に、見習ってもらいたいです。 乱世には英雄が出るはずだけど、今はまだ乱世ではないか・・・
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dankkochiku at 2010-09-18 09:36
tomahawk_attack さん 天安門広場は行ったことがありませんが、どこでも戦火の傷跡を見ると胸が痛みます。東京大空襲の数日後、焼け跡整理に駆り出された日を思い出します。
「槍かけ団子」は、北千住でしたが、同じ地名を共有しながら北千住と南千住とでは、随分違った印象をうけませんか?
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dankkochiku at 2010-09-18 09:59
hisako-baaba さん 「今の政治家に、見習ってもらいたいです」。 全く同感。 命を賭して頑張ると明言していたお方が、負けた途端、一兵卒になって頑張るを繰り返し、雌伏して次の選挙へ準備すると民意を無視して暗躍するらしい。
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yamanteg at 2010-09-21 20:36
勝てば官軍かあ。
榎本武揚は賊軍なれど斬罪に処すのは惜しまれ・・・・・ 有為の士の才能を生かす土壌があったんですね、かつて。 話が飛んで・・・尖閣諸島をはじめとする領海、領土の紛争をどう処理し解決するのか、政権が今試されているようです。
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dankkochiku at 2010-09-21 22:46
ペリーの黒船来航から王政復古まで14年間、更に明治政府が安定するまで10年間、この間、信念と実行の人士の波乱万丈の時代でした。政府の要職に合った西郷隆盛は賊軍となり、江藤新平は晒し首になりました。
尖閣諸島問題。戦争放棄をうたった憲法の精神が、いつの間にか、何事も穏便に事を済まそうとする外交に変質したようだ。 毅然とした態度を示さないと次つぎと外国に侵略されるでしょう。
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