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前回は、吉展ちゃん誘拐殺人事件の足跡をたどって円通寺と回向院を訪れたが、この二つの寺院には、日本史の中の多くの著名人、話題となった人たちの墓と史跡がある。 南千住にある寿国山・回向院、別名、小塚原回向院のある場所は、江戸の 「切り場」 とか 「土壇場」とかと言われた小塚原刑場の跡地で、ここには、20万ともいわれる刑死者や牢死者を、ほとんど放置する形で埋めた場所であり、一説には、幕府の馬の死体の捨て場でもあったのを寛文7年(1667)に両国回向院の住職がここに刑死者を供養するために建てたのがこの寺である。 以前、書いたように、創建当時、回向院の敷地は、現在の倍ほどの広さがあった。 明治時代に常磐線鉄道が敷設され、敷地は分断され、現在の回向院と延命寺に分かれた。 「骨(こつ)が原」とも言われた小塚原刑場は、延命寺の場所にあった。 斬罪以上の重刑者は、馬上に縛り付け、市中引き回しのうえ小塚原にやってきた。 引き回しの役人は、幕府により指名された非人たち(前科者、無宿・無業者など)が当たり、先払い5人、幟持ち3人、捨札持ち3人、2本の槍持ちほか4人、刀、捕道具2本の運搬人4人、囚人4人に付き人4人、宰領2人、宰領小屋頭2人と、刑罰の恐ろしさを民衆に見せるための物々しい行列だ。 非人の役目は、罪人の護衛、死刑執行時の雑役、後片付けだった(小野武雄 「江戸時代刑罰風俗細見」)。 この罪人たちの死出の行列が延命寺と回向院へと向かった通りには、今でも 「骨(コツ)通り」(旧日光街道)と不気味な名前が付いている。 回向院には、一般墓地とは別に史跡墓地がある。 ここには、安政の大獄で刑死または牢死した梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰(上の写真、正面一番奥)、頼三樹三郎や水戸藩士ら尊王攘夷の志士。 桜田門外で大老・井伊直弼を襲った15人の浪士。 坂下門の変の後も過激な奉勅運動で捕縛された中島久蔵(文久2年 1862年刑死)ら水戸藩士達の墓石や石碑には靖国神社合祀と刻まれている。 文政4年(1821)の弘前藩主の暗殺未遂事件の相馬大作の供養碑。 さらに時代は下って、昭和12年の2・26事件で処刑された皇道派の陸軍一等主計、磯部浅一の墓などがある。 なお、吉田松陰の遺骸は、処刑後、高杉晋作らによって世田谷の松陰神社に改葬され、今はここに遺骨はない。 変わったところでは、講談噺に出てくる面々の墓や碑が、史跡墓地に入って直ぐ右側に並んで立っている。 上の写真、右側から、江戸時代後期の侠客でヤクザ同士の乱闘で、左手を斬られ、ぶら下がった腕を子分に肩から鋸で斬り落とさせたという 「腕の吉三郎」 の腕型(何故ここにあるのか不明)。 情交のあった古物商後藤吉蔵から借金を断られて殺害し、金を奪った罪で、明治12年、山田浅衛門によって女性最後の斬首刑となった 「高橋お伝」 の墓。 天保六花撰に出てくる盗賊、河内山宗俊の弟子で御家人崩れの 「片岡直次郎」 の墓。天保3年(1832)、獄門となった大名屋敷荒らしの盗賊、「鼠小僧次郎吉」 の墓がある。 十両の金を盗めば死刑だった江戸時代のことで、新たな刑死者はいつも絶えることがなかった。 これに目を付けたのが、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵などの蘭学者たち。 長崎・出島で得たオランダ語の人体解剖書、ターヘル・アナトミアを片手に、刑死者の遺体を腑分け(解剖)して見比べ、その解剖書の正確さに驚いた3人は、この書の翻訳に挑み、安永3年(1774)、「解体新書」 5巻を仕上げた。 遺体に刃物を入れるのは死者への冒涜と信じられてきたのが、処刑された罪人の遺体によって腑分けが可能になり、近代西洋医学への夜明けを迎えた。 大正11年(1922)に日本医史学会の前身、「奨進医会」 は、観臓記念碑を回向院本堂に建てた。 記念碑は、戦災にあって、現在、当時のものはないが、解体新書の絵扉をかたどった青銅板が壁に埋め込まれている。
by dankkochiku
| 2010-09-10 23:35
| ぶらり、まち歩き
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Comments(10)
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tomahawk_attack
at 2010-09-11 18:32
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記事を見ると、>斬罪以上の重刑者は、馬上に縛り付け、市中引き回しのうえ小塚原にやってきた。・・・・とあります。。
なるほど、このシーンは時代劇にも良く登場する風景ですので、直ぐにイメージが湧きます。。 一方、同じ罪人でも、唐丸籠で護送されるシーンも良く出て来ますね。その違いは何処にあるのでしょう・・・ 私の勝手な想像をすれば、・・民衆にさらすのが目的の場合と、純然たる護送の場合とで分けているように感じられます。。 ちなみに、時代劇などでは、山中を護送する時など・・長旅の場合は、唐丸籠での護送しているように見えます。。 ドラマの時代考証が正確になされているか、いないかでも、大きく違うところでは有りますが、本当のとこは、どうなんでしょねぇ?・・・・ 私って、つまらないところが・・・気になるタイプなんです。。。(^^ゞ
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Ciao dankkochikuさん
へ~~~~ なんか妙なご縁を感じさせるお寺なんですね 鼠小僧次郎吉のお墓にお参りしたい レオナルドダビンチは病人の死体を譲り受け、解剖していたそうですが、それを悪意のある人にちくられ、フィレンツェを追われたそうです
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dankkochiku at 2010-09-11 22:43
tomahawk_attack さん 唐丸籠は、今の護送車で、見せしめというよりは、容疑者、未決者の運搬用に使いました。例えば、吉田松陰は長州から江戸まで唐丸籠で運ばれてきました。 時代が下るに従って違いはありますが、既決者つまり罪人は、罪の重さにより、同じ死刑でも、犯罪の性質によって下手人はただ斬首刑、重罪者には斬首以前に引き回しが付加されました。 現在の死刑執行の方法が絞首だけになったのは明治以降で、それ以前は、斬首以外に鋸挽、磔、火焙、牛裂、釜茹など、更に、死刑後は首を2,3日晒す獄門など、公開で執行し、見物人に刑罰の威嚇効果を示したのは、ご存知でしょう。 これは、洋の東西を問わず、同じで、デュマのモンテクリスト伯には、囚人を大衆の面前で撲殺した後、カーニバルが始まる光景がありましたね。 こうなると、威嚇効果だけでなく、お祭りのイベントにもなりました。
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dankkochiku at 2010-09-11 22:54
Ciao jnko さん 鼠小僧ほどの有名人になると、両国の回向院にも墓があり、そっちの方がもっと派手なお墓です。こうなると、お寺の客寄せに使っているようで、いかにも商売熱心な日本的宗教ですね。
カトリック教国のイタリアでは、宗教的偏見が日本以上かもしれませんね。 ガリレイの地動説をやっと認めたのが21世紀に入ってからでした。
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hisako-baaba at 2010-09-11 23:38
私の歩きたいところばかりで、ありがたいです。
薀蓄もまたありがたい。面白いですね。 歴史散歩に行きたいけれど、目下脚がだめで、代わりにここで見せていただきます。 私の曽祖父は安政の大獄で刑死したという説がありますが、 祖父が身元を明かさなかったので(天狗党の生き残りゆえ)はっきりしません
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dankkochiku at 2010-09-12 09:42
hisako-baaba さんの出自は、茨城ですか、私の祖父も同じです。 尊攘派と保守派、尊攘派内でも急進派と漸進派に分かれての藩内抗争が他藩に比べて激しく、天誅組、蛤御門の変などを起こした過激な藩だったと聞いています。 いま、代表選に明け暮れする民主党みたい(笑)。
脚の具合の宜しくないbaaba さんに代わって、徘徊老人記をもう少し続けますので、よろしくご支援お願いします。
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igu-kun at 2010-09-12 09:46
南千住は何度か訪れていますが、こちらのお寺に入ったことはありませんでした。
コツ通りという名称もあり、子供の頃はちょっと不気味なエリアという感じでしたが 罪人のほかにも様々な人のお墓があるのですね。 腕の墓石が何とも珍しいです。
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dankkochiku at 2010-09-12 10:20
igu-kun さん コツ通りも、今では賑やかな小売店の並ぶ大通りですが、横道に入ると、igu-kunさん専門の下流層の木造家が続く路地裏の迷路ですね。 次回は南千住の円通寺に行きます。
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桜花
at 2010-09-13 00:21
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dankkochikuさま、小生も過去に巡った「回向院」ですが、御ブログを拝読させて頂き色々と勉強になりました。 回向院があります南千住・・・、ドヤ街の印象が強い街でしたが、近年の再開発で、高層マンションと大型商業施設が整備されて、街の雰囲気が大きく変わったと思います。 小生が最後に回向院を訪れた時、案内役を務めた御方が"元陸軍一等主計 礒部浅一"の関係者の方でした。 安政の大獄で処刑された「吉田松陰」が回向院から世田谷に改葬される際、高杉晋作は恩師「吉田松陰」の遺骨を抱いて"上野寛永寺の黒門"を通ったとの逸話があるそうです。 「明治の毒婦」と言われた「高橋お伝」ですが、上野の谷中墓地にも同女の墓がありました。 江戸期に処刑される重罪者の「市中引き回し」に関する規定で、市中引き回し中に処刑される重罪者が最期に希望することを無理の無い範囲で聞き入れなければなければならない規定で、ある重罪人が希望したことを役人たちは叶えるのに大変となり、その後に同規定は廃止されました。 ちなみに「鼠小僧次郎吉」が市中引き回しとなった時、本人が希望したものは・・・「女装」でした。 次回の「円通寺」、楽しみにしております。
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dankkochiku at 2010-09-13 20:14
桜花 さん 高橋お伝など裏街道に生きた人たちは別にして、ここの回向院の史跡墓地に攘夷派、勤皇派、皇道派と言われた志士の墓が多いのは、やはり、当時の時代精神を反映していると感じました。
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