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あの日もまた、今日のように、東京は、晴れてじりじりと肌を刺す暑い一日だった。 戦後生まれの親、その子、孫たちは、あの日をどう心に描き、感じているのだろうか。 今にして思えば、この日は、「終戦の日」 と言うよりは、むしろ、来るベくして来た 「敗戦の日」 だった。 米英が日中戦争に干渉し、石油など軍事上、産業上の必要物資の輸入停止措置に対する 「自存自衛ノ為蹶起」(開戦詔勅から)と開戦を正当化したが、では何故、国力を遥かに上回る相手に、勝ち目のない戦いを挑んだのか、今も理解できないところである。 当時の為政者の開戦決定は、向う見ずな攘夷主義的士族の流れを汲む信念に発したもののようにも思えるし、また、開戦の詔勅が冒頭 「天佑ヲ保有シ‥」 から始まるのを見ると、最初から神の加護を期待し、「(国民は)各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ」 と精神主義に訴えた勅命とも読める。 果たして、開戦半年後には、彼我の国力の格差を見せつけるように、戦局は、当初の日本軍の赫赫とした戦果から逆転し、部隊の転進(撤退)、玉砕(全滅)が続き、首都圏を始め日本全国の行政中心地は、空爆に晒され、ほぼ全滅した。 戦力の中枢、大本営は、その機能が失われたにも拘らず、本土決戦体制を固め、無謀な戦いを続けたため、徒に国力を失い、軍関係者、一般民間人を問わず、昭和20年年初から犠牲者が急増した。 厚生労働省は、満州事変から日中戦争を経て15年にわたる戦争で、日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上の合計推定310万人以上と発表し、この数を基に毎年、政府主催の全国戦没者追悼式が行われているが、この数は、あまりに少なすぎる感じがする。 ![]() 墨田区の都立横網公園に旧震災記念堂がある。 ここには、大正12年の関東大震災の犠牲者5万8千人の遺骨が納められているが、そのほかに、昭和19、20年に激化した空襲による戦災死者を都内の公園その他130か所に仮埋葬したものを昭和23年以後、逐次、改葬、火葬に付し、現在、身元不明の7万7千体の遺骨をここに納め、名称も東京都慰霊堂と改めた。 慰霊堂の脇には、ボランティアたちの呼びかけで集めた寄付金をもとに平成13年に東京空襲犠牲者慰霊碑が建てられ、「東京空襲犠牲者名簿」 が納められている。 ![]() 台東区、墨田区、江東区などのいわゆる下町一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲で最も多くの犠牲者を出した地区である。 そのため、犠牲者を供養する祈念碑、供養塔などが、あちこちの寺院の境内、公園にあるが、上の写真は、江東区木場の大横川に架かる西洲崎橋のたもとの戦災殉難者供養塔。 戦火に追われ、この辺りで沢山の犠牲者を出した場所だろう。 新しい生花が供えられ、当時を知る地元民の気持ちが痛いほど感じられる供養塔だ。 ![]() 上の写真は、大正11年に建った木造2階建ての練馬・大泉村役場の跡地で、昭和54年まで区役所の出張所として使用していたが、今は児童公園。 公園の入口には、この村から出征し、戦死した284人の兵士の名前を刻んだ 「平和記念之碑」 が戦後に建てられた。 その中の一人に隣の農家の長男の名前が彫られている。 開戦少し前に徴兵され、空母 「赤城」 の水兵の任についた。 開戦半年後の昭和17年6月5日、旗艦・赤城は、ミッドウェー海戦で米機の攻撃を受け大破した際、亡くなった。 この時、赤城の乗務員数は不明だが、221人が戦死したといわれている。 この戦闘で、日本海軍は、アメリカ側の航空母艦と駆逐艦をそれぞれ1隻撃沈したが、日本側は、航空母艦4隻、巡洋艦1隻、航空機322機と兵員3500人を失い惨敗した。 しかし、大本営海軍部は、6月10日になって、ミッドウェー作戦を 「我が方損害(イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、(ロ)未帰還飛行機三十五機」 と損害を過小発表した。(保阪正康 :東條英機と天皇の時代 下) ■
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by dankkochiku
| 2010-08-15 09:51
| ぶらり、まち歩き
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Comments(19)
15日 真夏のオリオンに 感動し
戦争はしちゃあいけん。したい人は、したい人だけでやってくれ~。
「したい人だけでやってくれ~」 と言えないのが戦争。 すでに昭和9年、「戦いは、創造の父、文化の母」と国民を総力戦に駆り立て、国民は抵抗するすべなく、男は戦地へ、女は軍需工場へ駆り立てられました。
きっかけは何だったのか?本分すら忘れるくらい、軍事は一人歩きしてしまった...外交的に...という考えは、何処かへ消されてしまった。
誰もが、文句を言いたくても、どこにも言えず、誰もが抵抗したくても、出来なかった時代。生き残った人達から、当時の話を聞く事は、ほとんどない。...思い出したくないからだ。その、沈黙から、ひしひしと、戦争は絶対にしたらいかん!という思いだけが、伝わる。...だれも望んでいないのに、戦争になるのはどうしてだろうか?...誰もが幸せになりたいのに、何故まだ戦争をしてしまうんだろうか?...そう思いながら、戦争に走り出してしまうのは何故だろうか?...誰かが一言発したら、また、いつでも戦争になってしまうのだろうか?...戦争を知らない私達が、その痛みをどこまで伝えて行けるのだろうか...憎しみまで引きずろうとは思わないが、痛みを忘れたら、また、誰かが、考えも無く、勢いで、そのボタンを押してしまいそうな気がする。
戦争をどうやって肯定しようが、絶対に悪ですね。
子供もひもじくて、辛かった思い出ばかり。 迂闊に為政者の指示に従えないと思うことばかりでした。 防空壕へ入れだなんてうるさく命令して、それでどれほどの人が蒸し焼きになったか・・・ 山本五十六将軍は先が読めていたから、開戦に反対し、反対意見が通らないとなると「半年は暴れて見せる」といった。勝ってるうちに講和しろという意味だったでしょうに・・・ 敵を知ろうとせずに始めた戦争でしたね。
marquetryさんのご疑問は、要するに、あの戦争がどうして起こったのか、ということでしょうが、できるだけ簡潔にまとめるという私のブログへの姿勢から、この問題に触れようと思い立ちながら、あまりにも複雑、多岐にわたる問題で私の手には負えないと思い、削ってしまいました。 しかし、marquetryさんの 「だれも望んでいないのに、戦争になるのはどうしてだろうか?」 だけのご質問に、あくまでも私個人の意見を申します。
明治維新政府は、文明開化と富国強兵を国是とした一方で、維新改革がもたらした士族階級の不満の解決を海外派兵計画に向けました。 「内乱を冀う(こいねがう)心を外に移して国を興すの遠略」と 西郷隆盛が板垣退助にあてた書簡(明治6年)に見られ征韓論を始め、海外遠征による国力拡大の構想は、明治政府の一貫した主張でした。 その主張が現実となったのが、1894年の日清戦争、その10年後の1904年の日露戦争、さらに1914年の第一次大戦では、ドイツに対する宣戦布告しました。 次へ続きます。
前文の続き。 これら一連の戦争で、日本は戦勝国となりましたが、度重なる海外出兵に、国力の大部分が疲弊し、大正から昭和初期にかけて慢性的な不況に見舞われました。 そこで、その打開策として再び武力による領土拡張論が台頭しました。 例えば、満州事変の指導者、石原莞爾は、「国内の不安を除くためには対外進出によるを要す」(昭和4年)と満蒙支配を主張しました。
1931年9月には満州事変が、1937年には、宣戦なく日支事変(日中戦争)が始まりました。政府は、東亜新秩序声明(1938年)のもと、八紘一宇、大東亜共栄圏など国民受けする誇大なスローガンを掲げ、国家総動員法(昭和13年)を発令し、国民に言論統制を敷き、万事、戦争遂行に国民一丸、滅私奉公を強制し、日中戦争がいつ果てるとも知れない泥沼化を続ける中、1941年に太平洋戦争へと戦線を拡大しました。 その背後には、日本軍の侵攻に悩まされた中国が米英に支援を求め、それに対して、米英は武力を背景に日本軍を中国から撤退させるために日本への経済封鎖を行ったことで、日本政府は、国家の生存権を侵すものと危機感を高め、米英へ対抗的姿勢を示しました。
(前文から続く)
その背景には、それ以前の戦争で不敗だったことの奢りがあったことも見逃せません。 つまり、戦争は、ある日突然に始まるように見えても、そこに至るには、政治的、経済的、軍事的、更には、心理的なさまざまな動機、要因が絡み合い、権力者たちが戦争へと徐々に、しかも、その方向へと国民を駆り立てていくと思います。 それを防げるのは、自由で良識ある国民からの勇気ある発言と行動だと思います。
hisako-baaba さん 平和になると誰もが戦争は悪だ、愚かだと平和を賛美します。 しかし、やがて平和に飽きるのか、敵味方とも、正義の戦い、聖戦を標榜して戦端を開いてきたのが歴史的事実です。 この平和な日本でも、過去の戦争を正当化し、軍備拡張を主張する戦後生まれの人たちが少なからずいます。
...歴史的に、色んな要素が絡んでいるというのは、何となく勉強してきた記憶があります。...ただ、当時そんなふうに走り始めた流れを、国民の声で、止める事は可能だったでしょうか?...駆り立てられた国民が、冷静に、声を上げたら、止められた戦争だったのでしょうか?...何が真実か?見えていた人達が、勇気を持て声を上げれば?...。...そんな声は、大きな歯車に、押しつぶされてしまっていたのでは無いでしょうか?...私には、戦争を止めるイメージが出来ず、私も、その流れに翻弄されていたであろうという想像しかできず、無力な自分に引きこもってしまう...。自分は、声を出す事が出来るだろうか?勇気をもって行動出来るだろうか?と、この時期になると、おなじところを、ぐるぐる巡ってしまう私です。
marquetry さん。 社会生活に法律が必要なこと、従って、法律を守るのが当然で、法律を破れば、制裁が科せられる、こんな単純なことが、為政者、国家権力者によって、法律が国を滅ぼす道具として露骨に使われたのが昭和時代でした。
勿論、その前段階として、学者、政治団体、労働者組合組織などからの政府批判が力を増しました。しかし、国家権力者たちは、むしろこれを好機として政府批判を抑圧、封殺する手に出ました。その時、これらの動きの圏外にいた法律に無関心な大衆、お上のすることに間違いないと法律を絶対視する国民、さらには、利潤追求第一主義の企業経営者たちは、自分たちの権益が侵されない限り、政府批判勢力を規制する立法に賛成し、議員もそれに靡き、新法が成立しました。 こうなれば、国の権力者たちは、安心して警察、軍隊、さらにはテロリストの行動も黙認、助長させます。例えば、治安維持法という一片の法律のもと、特高警察が政府批判の声を封殺しました。marquetryさんの言われる「国民の声で、止める事は可能だったでしょうか?」の疑問は、当時はもはや.不可能でした。こうして、国民は自分の手で自分の首を絞めることになったのです。
過去の戦争の意味を問い直し続けることは必要です。
私は、この先についても今、真剣に考えなければいけないと思っています。 中国は日本を追い越し世界第2位の経済大国となり(一人当たりの所得は別として)、その軍事力増強の早さにアメリカも警戒し始めている。 ロシア下院は7日、日本が1945年に第2次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を大戦終結の記念日とする法改正案を可決した。 (目の前に見える日本固有の領土である歯舞、色丹、国後、択捉などは戦争状態のもとでソ連が占領したのであり返還されることはない、と解釈できる。) ソ連は自国の戦艦が自由に活動できるよう、凍らない海を正式に分捕ったという理屈。 朝鮮半島は正式には休戦中にすぎなく今なお戦争状態、一触即発の緊張は続いている。 今の日本の危機意識のなさに恐怖すら覚える。
yamanteg さん 仰る通り、東の北朝鮮と西のイランが手を結び、また、この両国支援する国やゲリラ組織が西欧諸国側に対抗し、第3次大戦へ一触即発の緊張が高まっています。 かと言って、今、日本が軍備強化を図るべきか、国連など国際機関への働きかけをするかが問題です。
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Dankkochikuさんのコメント中にもありました通り、当時の日本が如何に追い込まれていたか?・・・というのだけは、私も事実として押さえておくべきものと理解しています。。
逆に欧米諸国から見れば、今、日本を叩いておかねば・・・自身に取って極めて不利なアジア情勢に変わってしまう・・・との思いがあったに違いなく、それらが日本との戦争に走らせた直接の動機だったと良く理解しています。。 中国や朝鮮、その他、植民地解放を掲げ、抗日を掲げていたアジア諸国は、そうした日本と欧米による、なかば利権争いを巧みに活かす形で、便乗し、勝利につなげていったのだと思います。。 結果、日本は連合国に敗北し、或る意味、欧米諸国の描く通りの結果になってしまった訳ですが、軍国主義が無くなったことを歓迎し、すべてを結果オーライ的に考える方も多い昨今です。。 それを全否定するものではありませんが、ただ、あの戦争に身を投じ、お亡くなりになった英霊の皆さんは、それらに対し、どのような思いで見ておられるかと?・・・今年も終戦の日を迎え、改めて考えてみたい気分になりました。。\_(-_- 彡
tomahawk_attack さん 敗戦の惨めさを一番感じたのは、特に外地からの復員軍人(帰還兵)ではなかったろうか。帰国したら家族は行方不明、就職先はない、敗残兵視される、生活保障がない、生活費欲しさに勲章を売却‥。そうした人の中から、ヤミ屋、拳銃強盗、暴力団に入った人が相当数でました。
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dankkochiku さま
ご無沙汰です。 あの戦争で、父方の祖父は高級軍属として海南島から南方戦線に行き、マラリアに罹患して戦争末期に奇跡的に内地に帰還した後に同病で戦病死しました(合掌) 小生が生まれる前に他界した父方の祖父で、1度も会ったことは無く兵役で台湾守備隊の独立重砲大隊の喇叭手で従軍した若い頃と・・・高級軍属として従軍した時に家族に送った手紙に同封された写真で、40代半ばの父方の祖父の姿を知るだけです・・・戦後、「勲八等旭日章」の叙勲を受けました、一家の大黒柱を失い困窮した父親の家では、その叙勲で下賜されたお金で老朽化した家の修理代 に充てられました。 母方の祖父は徴兵を除いて2回もの応召を受け、1度目の応召は海南島守備隊、2度目の応召は満州の関東軍・・・2度目の応召で疫病に罹患して内地に移送後に召集解除となりました、母方の祖父が疫病に罹患せずにいたならば戦後「シベリア抑留」の憂き目に遭っていたかも知れません。 母方の祖父は電気技師のリベラリストでしたが、生前に軍隊のことは多く語らず、晩年に「軍隊は辛い」「何も悪いことをしていないのに、古参兵に幾度も殴られた」と話しておりました。 ![]()
つづきです。
閑話休題、九段で旧陸軍の甲種幹部候補生の御老人と話す機会に恵まれたことがあり、同期生に・・・かの「小野田少尉」がいたことを聞きました。 また、何かの偶然ですが・・・小生が通っていた小学校の校長が陸軍士官学校出の元陸軍中尉で、あの「インパール作戦」に隷属された某師団の小隊長でしたが・・・師団が転戦する前に示達された陸軍大学校の合格通知で、白骨街道と言われたインパール作戦への従軍を免れた逸話を聞き、あの無謀な作戦で多くの将兵が犠牲になったことに対する慙愧の念があり、あの時に陸軍大学校への進学を拒否して、配下の小隊と共に再び最前線に送られることを希望した時、大隊長から「お前は生きよ!!」と言われ慰留されたこと、幾多の実戦を共にした大隊長からの命令に逆らえず、戦後・・・インパール作戦で、所属していた大隊はインパール手前のコヒマ突入の激戦での先鋒を務めて全滅したとの情報を得て、その大隊に所属した元陸軍将校として、大学に進学して教員免許を取り小学校の教師となり、機会がある度に「戦争の語り部」として生きる道を歩みました
桜花さん お久しぶりです。 お元気の様子、嬉しいです。
戦時中を知る世代の親族には、大抵、戦死病者、戦災罹災・死者が数人いるのが普通です。 私の従兄弟はフィリピンで戦死、母の親族たちは沖縄戦でいまも不明です。 戦争によって、外には勢力圏拡大を、内には利益を目論んだ財閥、いちかばちかで始めた軍閥たちの掛け声で米英に戦端を開いた無謀さ、せめて天皇が視察した東京大空襲後に終戦を決断しなかった誤りのツケが原爆投下から、今も北方領土問題、沖縄基地問題にも繋がっています。
Ciao dankkochikuさん
いつの世も戦争はほんの一握りのあまりに思い上がった故、身の程を知らず、欲に爪の先まで染まった愚かな人々が、てめーのその欲を満足させるために起きるものだと思っています。 それが権力欲であろうが、金欲であろうが そして、馬鹿だから、状況をかんがみて身を引く時期さえ知らない 天皇がもっと早く敗戦を認めていたら、たくさんの人の命が救われたと思うと、原爆の実験を日本でされることもなかったと思うと、 たかが彼らの意地のためにと悔しい思いはいつも新たに湧きあがります。 だからね、私は天皇が嫌いです
Ciao cocomerita さん 戦争は、年寄りが企画し、若者が行く、一将
功なりて万骨枯る、という構造は今も昔も、変わっていません。 また、勝てば官軍、負ければ賊軍ということも変わっていません。 正義の戦争とか聖戦などと言うのは、戦争企画者の口実で、勝者だけが正義を実現したかのように正当化します。 不意に外敵が侵入してきたら、ゲリラ戦で粘り強く対抗した方が最後には勝った、あるいは、負けなかった例が多いのです。
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