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12月14日は、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りの日。 今年は、事件から306年目に当たる。 日本の文化に育った人ならば、今も浪士たちを赤穂義士とか忠臣蔵と呼び、その行為に共鳴する人が多い。
事件は、浅野内匠頭の吉良上野介への遺恨から一方的な刃傷沙汰に始まる。 十分な詮議もないまま、即日、内匠頭の切腹、赤穂浅野家の断絶が将軍から言い渡され、一方、上野介には何のお咎めもなかった。 これに対し、遺臣たちが1年9カ月の後に上野介に対して主君の遺恨を晴らした事件である。 いまでこそ、この事件は、凶器準備集合罪、暴力行為取締法違反、器物損壊罪、住居侵入罪、傷害・殺人罪などの罪名で裁かれるテロ事件とみなされるだろうが、当時は、忠孝を人倫の基本として奨励された時代だったから、世間に波紋が広がった。 赤穂浪士たちの亡君への仇打ちを義挙として賞賛し、助命を求める声が、町人からも幕閣からも相次いだ。 その中で儒学者、荻生徂徠は、志士たちが武士の道を守り、忠義を貫いたことには違いないが、その行為は遺臣たちの私的な行為であり、もし私的な行為で社会秩序が害されるならば、「此以後天下の法は立つべからず」 と有罪、切腹を主張した(「徂徠擬律書」)。 この義をとるか法をとるかの議論はまとまらず、将軍綱吉も決断がつかないまま後西天皇第6皇子の法親王に採決を仰ぐ。 法親王は、四十七士たちによる仇討を忠義と認めたうえで、もし彼らが生き残り、晩節を損なうことがあれば、今回の義挙は無になるが、ここで死を与えれば、後世まで美談として語り継がれるだろうから、死を与えることも情け、と政治的な判断を出し、決着した。 しかし、世上の四十七士への同情、賛美の声は止まず、綱吉死後の次期将軍、家宣は、恩赦になっていた赤穂浪士の遺子たちを放免し、浅野内匠頭の弟の浅野大学長広を赦免し再び旗本に戻し、大石内蔵助の三男を広島浅野家に1500石で召抱える措置をとっている。 討入りから45年後に上演された人形浄瑠璃、歌舞伎 「仮名手本忠臣蔵」 では、事実をかなり脚色、美化し、義理と人情の世界を強調し、庶民の喝采を浴び、台本は一層、脚色されて後世へと伝わる。 さらに、明治元年(1868)には、明治天皇が勅使を泉岳寺に派遣し、大石らを嘉賞する勅語を贈られている。 こうして、現在もなお、年末が近づくと、演劇、映画、放送などの定番になっている。 赤穂浪士事件と関係のある場所を訪ねる。 江戸城内で浅野内匠頭が刃傷に及んだとされる松乃大廊下は、本丸御殿から将軍の対面場所の白書院に至る全長約50m、幅4mほどの江戸城中で2番目に長い畳敷の廊下で、廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたことからその名前が付けられたとされるが、現在、皇居東御苑の一隅にその跡を示す石碑が立っているだけである。 松乃大廊下事件の数カ月後、吉良上野介は、江戸城に近い呉服橋の屋敷から本所松坂町へ屋敷代えの処分を受けている。 とはいえ、その敷地は2,550坪(約8,400平米)もある広大な上屋敷だったので、屋敷代えは大石方に上野介への仇討をしやすくする幕府の配慮が込められていたのではないかとの臆説もある。 昭和9年になって、吉良邸跡の1/86の広さの土地を地元町会有志が買い取り、吉良邸の面影を残そうと、そこをなまこ塀で囲い、その中に上野介を祀った稲荷神社、上野介の首を洗った井戸を再現(実物は泉岳寺にある)したほか、吉良方の討死にした20人の武士の名を刻んだ石碑などが置かれている。 現在、ここは本所松坂町公園として墨田区が管理している。 吉良方の討死者数については諸説があり、不明だが、大石方には、実戦の経験者は堀部安兵衛ただ一人だけだったし、77歳の堀部弥兵衛や60歳台の小野寺十内や吉田忠左衛門も討ち入りに加わっていたにもかかわらず、死者を出さず、負傷者は2人だけにとどまった。 これは大石方の侍が兜、鎖帷子の完全武装に身を固めていたこと、また、本来、一対一で勝負するのが武士道とされていたのに、主君の仇打ちという大義名分のもと、1人の相手を2人以上で攻めたからといわれ、吉良方の二刀流剣士、清水一学もこの戦法の前にあえなく討死した。 吉良屋敷の近所に赤穂浪士のひとり、前原伊助の居宅跡がある。 前原は日本橋に住んでいたが、上野介が本所松坂町へ屋敷代えになったのを追って、吉良邸裏門に近い両国相生町(現・両国2丁目3)に転居し、「米屋五平衛」 と称して開業し、吉良邸の動向をさぐった。 現在、この居宅跡には、工事の仮小屋が建ち、その脇に説明板が立っているだけだった。 泉岳寺は、慶長17年(1612)、徳川家康が開いた曹洞宗の寺院であるが、それよりも、赤穂四十七士の墓のある寺としての方が有名だ。 本院の前には大石内蔵助良雄の立像が聳え、赤穂浪士、浅野内匠頭、その夫人の墓、供養塔のほか、討ち入りを支援したとされる大阪商人、天野屋利平衛の石碑など関係のあるものが一画にまとめられ、線香の煙が絶えることがない。 浪士の墓所のすぐ脇に、戊辰戦争(1868年)時の芸州藩戦死者の墓があったが、なぜ、ここにあるのか寺院に伺うのを忘れて帰った。 ☆当ブログは、年末、年始の間、休ませていただきます。 どうぞ、よいお年をお迎えください。
by dankkochiku
| 2009-12-22 22:45
| ぶらり、まち歩き
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Comments(7)
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tomahawk_attack
at 2009-12-25 09:00
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記事にも見られるとおり、泉岳寺は家康が開いた寺だけあって、分院も全国に及んでいると見られます。調べた訳ではないので分かりませんが、私の知人の故郷「秋田」にも泉岳寺はありました。。
それにしても、流石は赤穂藩の城代家老親子だけあって、辞世に際しても見事な振る舞いと、また見事な句を残されています。。 「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」(大石内蔵助) 「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」(大石主税良金) 最後に赴く二人の心情が、この句の中によく表われています。。 今であれば・・即刻、テロと断じられる彼らの行いですが、時を超えて、二十一世紀の現代人が、ともすれば忘れかけている日本人としての“ 何か? ”を・・改めて呼び覚ましてくれる「手掛かり」を感じさせます。。 新聞紙面を開けば、このところ毎日のように繰り返されている殺人や強姦、物取りの類と、目を伏せたくなるほど、殺伐として寒々しい世の中ではありますが、赤穂浪士の成し遂げた偉業や生き様を忘れずに、いつまでも語り継ぐことで、明日に頑張る心の拠り所として活かしていきたいと思います。。
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tomahawk_attack
at 2009-12-25 09:02
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あっ。忘れました。「良いお年を・・・」
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dankkochiku at 2009-12-25 14:33
tomahawk_attack さん コメント有難うございました。大石父子の辞世の句や泉岳寺が各地にあることまでは知りませんでした。 大石主税が16歳だったとは、昔の武士は幼くしても、なかなか肝の据わったものと敬服します。 来年もまたよろしくお願いします。
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cocomerita at 2009-12-26 03:59
CIao dankkochikuさん
年末になると、思い出すのがこの忠臣蔵 父が大好きで、年末ごとにテレビで放映されるドラマを一緒に見た思い出があります。 大きくなって、物事には裏と表があると知り、この事件もはたして世間が言うように吉良はこんなに悪者だったのかなあという思いが頭をよぎります。 泉岳寺は、夏季学習に近くの学校まで通っていたとき、母と尋ねた記憶があります。 dankkochikuさん、Buon Natale e un felice anno nuovo. よいお年を!
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dankkochiku at 2009-12-26 13:37
Ciao cocomerita さん コメント有難うございます。 どっぷり日本文化に浸かって育たれたのですね。 忠臣蔵ほど日本人に親しまれたドラマは他にはないのでは? 内容的には、かなり事実と異なるという指摘もありますが、歴史的評価は別として、日本の文化、日本人の心情をよく表した作品だと思います。 よいお年を!
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igu-kun at 2009-12-26 23:52
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dankkochiku at 2009-12-27 22:42
igu-kun さん ご訪問有難うございます。 この写真では読み取れませんが、前原伊助居宅跡は、両国2丁目3にあります。 また、竪川に塩原橋がありますが、その辺りに塩原太助の居た跡がありますが、居宅跡は不明です。 ただ、亀戸天神に太助が寄進した灯ろうがあります。 ご参考までに。
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