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荒川、台東、文京の3区が接する谷中、根津、千駄木の3町は、通称、谷根千(やねせん)の名で観光ブームになっている。 この地域は、関東大震災,戦災の被害が少なかったので、戦前からの住民が多く、古い下町の町並が残っている。 もっとも下町といっても、谷中は高台にあり、地勢的には浅草、墨田、深川などとは違う。
地下鉄千代田線根津駅で下り、「異人坂」 へ向かう。 異人坂の名の由来は、明治時代、東京大学のお雇い外国人教師の宿舎があり、外国人がこの辺りをよく歩いていたから、と坂の説明板にあるが、いま、その面影は全くない。 異人坂を上り切り、東大敷地と民家の間を路地なりに行くと、崖っぷちに鉄筋アパートと民家の脇を下る急な石段が現れる。 ここを下りるのが根津神社へ近道である。 ところが、この石段の数、上から下りると39(三重苦)段、下から上るときは40(死重)段と、忌み言葉まで付けて伝えられてきた 「お化け階段」。 近年、拡幅工事を終え、以前よりも倍の幅になったコンクリート階段は、まだ真新しい。 ![]() なぜ、下りる時と上る時とで石段の数が違うのか? そのトリックは、上の写真からお分かりだろうが、一番下の階段は、地面とステップの高さが数センチしかない。 それに気付かないで上から下りてくると、まだ一段あるのに平地に着いたと勘違いして39段。 逆に、上がるときは、最初の一段目が見えるので、40段と数える。 もとの石段は自然石だったので、コンクリート製の石段のように規格通りの大量生産ができず、一番下の石段が低くなってしまったのではなかろうか。 それにしても、昔からの 「お化け階段」 の言い伝えを否定するほど野暮な新しい階段を作らずに、元の石段を途中まで残し、しかも、一番下の段差を元の石段に合わせて低くしてあるのは心憎い。 根津神社の前の権現坂を下り、不忍通りを行くと西日暮里に出られるのだが、車騒音の多いこの通りを避け、「根津観音通り商店街」 入口に入る。 不忍通り沿いの、いわばよそ行き顔の商店や事務所の並ぶ通りから一本奥に入ると、住民の生きざまを隠さずに現している素顔の民家、商店が並んでいる。 喧騒の都会でこんな路地に入ると途端にホッとする。 ![]() そうこう行くうち、文京区と台東区の境域の細道、通称 「へび道」 に入る。 道幅は2メートルほどの一方通行道路には小住宅が密集している。 外国人観光客も訪れるのか、入ってすぐの道端に 「Spice Mixed Up . Snake Street inYanaka ‘05」 の看板を掲げたタコ焼き屋が一軒あったほか店は見当たらない。 「へび道」 の名のとおり、100メートルほどの道のりに、14、5回も蛇行し、陽の当たり方も一様でない。 所どころ 「2トン以上の貨物通行止め」 「道路狭し最徐行」 の立看がありるのに、ブロック塀を車でキズ付けられている家、警告のため門前に置き石をしている家がある。 こんな蛇行する細道になったのは、ここが、現在の染井霊園の北側低地を源泉とする川が根津谷に流れていく藍染川だったのが、水はけが悪くよく氾濫したので大正10年に暗渠工事を開始したと文京区教育委員会の掲示板に書いてある。 しかし、なぜ、暗渠化する際、道路を直線にして広げなかったのか不思議に思うが、流域の住民たちが移転を拒み、その結果、曲がりくねった川がそのまま道路になってしまったのかもしれない。 当時、庶民には高嶺の花だった車が今日ほど普及するとは夢想にもしなかったのだろうが、この通りに住む車所有者たちは、一方通行の道路に悩まされていることだろう。 ![]() 「へび道」 から出て三崎坂(さんさきざか)を上ると、道路沿いに大円寺がある。 このお寺については分からないことだらけだ。 まず、境内に入ると、上の写真のように、一つの屋根の下に本堂が二つあり、参道も中央から二つに分かれている。 入口の事務所に伺うと、大円寺の開山年は、天正時代(16世紀)という説もあるが不明で、左のお堂は日蓮宗・大円寺、右側は 「瘡守(かさもり)薬王菩薩」 を祀る薬王殿、つまり、神社である。 何故こうなったのかというと、長い間、神仏混淆して信仰してきた日本人が、明治の廃仏毀釈運動によって二分され、一時は同じ境内の別棟にあったのが、その後、本堂と本殿とが円満に一棟に治まったとのことだが、、その経緯については伺い損ねた。 ![]() 社殿の前に 「瘡守薬王菩薩」 と刻まれた石碑が立っている。 「瘡(かさ)」 とは、以前、天然痘とか疱瘡(ほうそう)とかと呼ばれた痘瘡(とうそう)のことで、極めて伝染力が強く、死亡率も高く、死を免れても醜い痘痕や失明など身体欠陥を残し、奈良時代から日本人を苦しめてきた疫病である。 それだけに、種痘接種が普及するまでは、痘瘡除けの神にすがる以外なかったのである。 また、一説には、近くに遊廓があったので、瘡とは性病、梅毒のことといわれているが、不明である。 ところが、この瘡から守る信仰 「かさもり」 に、何故か同じ谷中の笠森稲荷神社の門前茶屋(現在、功徳林寺のある辺り)で働いていた娘、「お仙」 が、絶世美人という噂が噂を呼び、浮世絵師の鈴木晴信がモデル嬢としたことで、江戸中からこの茶屋へ客が殺到したという話が割り込んでくる。 つまり、「笠森」 と 「瘡守」 の同じ発音の言葉が結びつき、大円寺境内に笠森稲荷を合祀し、そこに大正8年、なにを間違ったか、文豪、永井荷風が 「笠森阿仙の碑」 の文を書いたことから、大円寺はお仙の寺といわれるようになり、更に、台東区教育委員会が 「お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に‥」 と境内の案内板に書いてあるので、誤解が変じて確信になったのだ。 まったく不思議な話である。 ■
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by dankkochiku
| 2009-11-30 00:23
| ぶらり、まち歩き
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Comments(11)
そもそも、おせんは茶屋にはいなかった、という話もあるようです。
千代田線には時々乗るので谷根千(やねせん)を通ります。
地上のことに思いをはせる知識もなかったのですが、一度降りて(地上に上がって)歩いてみようと思います。
HOOP さん お久しぶりのご来訪、有難うございます。
お仙さんは、実在の女性で、Wikipedia によりますと、宝暦13年(1763)のころ家業の水茶屋「鍵屋」の看板娘。 突如、幕府のお侍さんと結婚し、子宝に恵まれ、77歳の長寿を全うし、現在、中野区の正見寺にお墓があるそうです。 いずれ、確かめたいと思っています。
yamanteg さん 谷根千のうち、根津は当地からは交通不便な場所で、友人に勧められても、なかなか訪れる決心がつきませんでした。 急な坂や路地が多く、親切な地元の何人もの方に助けられ、無事、帰還しました。 万歩計で約17000歩でした。
お化け階段の拡張はオリジナルを尊重した造りなのですね。
こうした配慮は嬉しいです。 大円寺に関するお話も興味深く拝読しました。 この辺りは奥深いですね。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
igu-kun さん 古くからの歴史や伝統が一杯つまったところを訪れますと、また、行きたくなってしまいます。
住民 さま 分かりました。 ただ、「へび道」の表示は、そちらへ伺いました折、「根津・千駄木下町まつり 下町いらすとマップ」(根津地域活動センター、3822-3653 平成21年10月発行)と大円寺事務所で頂いた商店、寺院などを記した詳細なイラストマップの写しに書かれていたものを使わして頂きました。
![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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当家の記事中にもありますが、直接的には、明治維新の際に出された「神仏分離令」が原因ですね。その結果、廃仏毀釈が進み、已む得ず統廃合が進められる中で起きたものです。。
ちなみに、私の知ってるメジャーなものを拾うと、愛知県の豊橋市にある豐川稲荷さんですね。ここは正式名を「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」といい、もともとは山号を圓福山とする「曹洞宗」の寺院です。でも一般には豊川稲荷として通っています。。 ですが、本来はお寺さんですので、入るには、まず総門があって、それをくぐって入いることになります。そして更に進むと・・大きな鳥居が出て来ます。更にそこをくぐって奥に進むと・・目指す社殿があるという訳です。そしてその眼前には、多くの登り旗とともに巨大なお狐さんが両脇に控えておられます。。 ここまで来れば、何処から見ても、誰が見ても、完璧なる稲荷神社と分かるのですが、入るに当たり、寺の総門をくぐる辺りで、普通の神社とは違う景色に、戸惑う人もいるかもしれませんね。もっとも信者側からすれば、そんなことは、まったく関係ないことなんですが・・・(゚.゚)ノ
尊王攘夷、王政復古、切支丹弾圧、神仏分離、天皇の神格化、国家神道、これらを標榜して出発した明治維新政府も、本をただせば、仏教僧侶に抑えられていた不満分子の神職や国学者の巻き返し、といった醜い権力争いが根にあったというこでしょう。 政治や宗教など、ま、そんなもんですな。
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