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一般から寄せられた 「練馬のイメージ」 がヤフー知恵袋に載っていた。 「田舎」 「新興住宅地の隣に大根畑」 「ごちゃごちゃした住宅街と畑」 「東京でぱっとしない地区」 等々。 「大根畑」 は、以前に比べ、ずっと少なくなったが、そのほかは、この区内に長らく住んできた私が見ても、残念ながら、ウンウンと納得できる印象である。 練馬区は、戦前から東京都民への穀物、野菜の生産・供給地で、大した戦災も受けずにすんだ農業地帯だったが、経済成長期に入った昭和30年以後、土地の区画整理が進まないまま、中小不動産業者による農地から宅地への乱開発が始まった。 隣に広い農地がありながら、軒を連ねた建て売り小住宅があちこちに島状に密集し、所どころに中低層のアパートがあるうえ、近年のマンション建設ラッシュを見れば、いい印象が持たれるはずがない。 現在もこんな無計画のまま農地が蝕まれ続けている練馬区内で、例外というか異質なのが光が丘1丁目から7丁目までの総面積1.7㎢の地区、東京23区内最大の規模をもつ光が丘団地だ。 これまで団地と聞くと、広大な敷地に同じ形のコンクリート集合住宅が整然と立ち並んでいる地区のイメージしか湧かなかったし、実際に住むのには抵抗があったが、その点、ここはパークタウンと呼ばれるだけあって、単なるベッドタウンから脱して快適な住環境作りを重視した緑豊かな公園都市建設の努力の跡がうかがえる。 例えば、上の写真は、光が丘駅に近く、ショッピングセンターと隣接する 「四季の香弐番街」 ブロックにあるアパートだが、その前にある並木道路や幼稚園を見下ろせることで高層住宅の住人に安らぎを与えるだろう。 平成21年2月現在、16ブロックの住居地区には、2世帯住宅を含む世帯数12,348戸の公団、公社、都営の分譲あるいは賃貸住宅に29,565人がに住んでいる(タウン情報誌。光が丘新聞による)。 このほか、団地内には、小学校8校、中学校4校、都立高校1校、大学病院、郵便局、銀行、図書館、美術館、コンサートホールや音楽教室などを併せ持つ大型ショッピングセンター、食堂街、森と池のある散歩道や広場、キャンプ場、野球場、テニスコート、体育館、ホテルなどがあり、練馬区内のどの地区をとっても一か所にこれだけ揃っているところはない。 しかも、地下鉄大江戸線 「光が丘駅」、有楽町線 「赤塚駅」 のほか、川越街道、環8道、目白通り、関越自動車道、外環自動車道へも近く、交通の便、この上ない。 だが、光が丘団地ができるまでには、いろいろな紆余曲折があった。 まず、昭和15年の皇紀2600年記念事業として、この一帯が環状緑地帯計画に選ばれた。 しかし、この時すでに日本はいつ終わるともしれない日中戦争の泥沼状態にはまっていたし、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まった。 この状況下で、軍需拡大、民需抑制方針のもと、軍需工場など重要産業部門に強制的に従事させる国民徴用令が出されるに及んで東京府議会が可決した緑地化計画は見直され、代わって、米軍機による本土初空襲が始まった昭和17年に、一般労働者のほか、学徒、豊多摩監獄(後の中野刑務所)の受刑者まで駆り出し、翌年、陸軍成増飛行場が完成した。 当時、中学に入ったばかりの私は、男手不足の農家へ援農作業に動員された。 警戒警報が発令されると飛行場付近は危険という理由で学校から帰宅するように言われていたが、級友数人とともに飛行場が見渡せる草地に寝転んで頭上を出撃する戦闘機をわくわくしながら見送った後、帰途についた。 と言っても飛んでいくのはいつも一、二機くらいだった。 敗戦後、飛行場は連合軍に接収され、米軍家族宿舎グランドハイツと名を変えOFF LIMITS の看板があちこちに目立つフェンスに囲まれた。 昭和48年になってやっと全面返還されると、直ちに東京都がこの地域の半分を都立公園に、半分を住宅地にする計画のもと、給水施設、清掃工場を作り、昭和58年に総戸数446戸の4階建~10階建アパートが最初に完成し、その後も建設工事は着実に進捗し、今日の姿に及んでいる。 ただ、忘れてならないことは、米軍からの光が丘返還の条件として、その代替施設として、横田飛行場が追加提供されたことである。 追記: 高齢化、少子化の影響は、ここ、光が丘団地も例外ではなく、これまで8校あった小学校が平成22年度から半分の4校になる予定とのことです。
by dankkochiku
| 2009-10-20 21:46
| ぶらり、まち歩き
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Comments(13)
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tomahawk_attack
at 2009-10-22 09:51
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以前のアップに続く練馬特集ですね。。^^
ここはマンモス団地。私の知人も、この公園の近くに戸建てで住んでますが、結構いいとこだと思います。。 脇に入ると粗製乱造の建て売りも見受けますが、総じて申せば、緑に包まれた広い公園と都心への快適なアクセス・・・ここには練馬のイメージを一変させるような快適住環境を感じます。。
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まだ会社に入社して2,3年の頃だったと思いますが、光が丘団地に応募してことがありますが、見事に抽選に外れました。あの頃はあこがれの的だったんですけどね。
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dankkochiku at 2009-10-22 14:56
tomahawk_attack さん 光が丘は我が家から自転車で30分ほどですが、別世界にきた感じです。 なによりも、休日には、沢山の住民たちが広場、ショッピングセンター、運動場などに溢れ、生活を楽しんでいる姿は印象的です
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dankkochiku at 2009-10-22 15:22
braven さん 多摩ニュータウン同様、ここでも住民の高齢化が、特に入居時期の早かった分譲アパートで問題化しているようで、高齢者率が50%を超えているブロックがあり、いま、老人介護施設が計画中とか。 やはり、一戸建て住宅と違い、家族が増えれても増築、改築のできないのがアパート生活の限界です。
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cocomerita at 2009-10-22 20:12
Ciao dankkochikuさん
ウワ―なんか久々にこういうマンモス住宅見ました 私が住んでたら、確実に迷うだろうな でもこういう住宅に、息子家族とおじいちゃんおばあちゃんが,戸は別だけど、隣同士なんてのは楽しいかもしれませんね
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dankkochiku at 2009-10-22 21:31
Ciao cocomerita さん ところが、入居希望者が滅法に多く、抽選に当たれば幸運、とても希望の棟、部屋に入居できるなんて夢のまた夢でしょう。
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igu-kun at 2009-10-24 17:52
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dankkochiku at 2009-10-24 20:00
igu-kun さん 光が丘は、天気の良い休日には、建造物だけでなく、人の動きがとても躍動的です。
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桜花
at 2009-10-26 00:39
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小生が住んでいる団地も、練馬の光が丘団地と同じUR(住宅都市再生機構)にて、昭和40年代に建てられたマンモス団地です。 室内はリフォームされていますが、建てられた当時の面影を残している部分もあり「温故知新」を感じさせます、この部屋に住んだ何代もの家族の歴史が刻まれた場所と思います。
その影で少子高齢化から、団地に住む世代の空洞化が進み、団地内にある公立中学校が生徒減少から今年の3月末で閉校しました、それでも自治会の地道な活動で地域コミュニティが形成されており、夏場には団地の大きな広場では夏祭りが催され、高齢者の入居者が集うクラブ活動も盛んです。 平成30年前後にURは、昭和40年代に建てられたマンモス団地の建替えや集約化を図り、余剰地に福祉施設や分譲の戸建を建設する計画案を示しております、意外にも建替えられたUR団地の家賃は高額にて(汗)建替えで一旦、住み慣れた地を離れた高齢者の方が戻り難い状況を呈しております。 確かに練馬の光が丘団地と同じく近郊の古いUR団地は成熟した居住環境と鉄道整備が進んだお陰で、都心への通勤が約1時間以内という好条件から、子育て世代にも魅力的な居住環境として注目を集めているようです。
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dankkochiku at 2009-10-27 17:17
桜花 さん 不景気というのに我が家の町内に高さ84m、26階建て2~3LDK分譲マンションが3千7万~4千5百万台で売り出していますが、駅に近いという以外の居住環境は、うーん、どうでしょうか。
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桜花
at 2009-10-28 00:58
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>駅に近いという以外の居住環境は、うーん、どうでしょうか。
駅付近の物件は好条件ですが、近年は郊外型の大型商業施設が相次いでオープンしております。 居住環境(通勤面&余暇面)に対する価値観の多種多様化から、駅に近いだけの物件は魅力が薄れ、物件近隣に大型の複合商業施設などのインフラ整備が進んだ地域の物件が売れているようです。
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takane2014
at 2018-09-25 16:53
「私とグラントハイツ」
私は父と母の仕事の関係で1950年グラントハイツの中で生まれました。 父はGHQで通訳や雑務、母は旧日本陸運で会計士に就いていた関係から敗戦と同時に自動的にグラントハイツに転勤となりキーパンチャーの職に就いていました。 そのような関わりからハイツ内の住宅で生活していた訳ですが、私の記憶によると最初は川越街道に面したゲートの近く、その後は現在の光が丘公園の北端近くのメルヘンチックな将校ハウスに引っ越したことをよく覚えてます。 私は、当時ハイツ内で生まれた日本人第1号と聞いており、その事を知った米軍将校達も大変喜んでくれたそうな。 当時の記憶は様々・・といっても多少になりますが、例えばクリスマスになるとサンタクロースがトナカイのソリならずセスナ機で飛んできて子供たちにプレゼントを配ったり、初めて見たサンタクロースの存在は絵本ではなく、あの定番姿の実物でセスナ機でやってくるものと思い続け、後に本当はトナカイのソリに乗ってくることを知ったのでした。 そして私が6歳で小学生になる時、初めて隣接する春日町に移住したのですが、ハイツの中しか知らなかった私にとってこれは海外移住のようなものでした。 私自身は余り記憶に無いのですが、その時私が受けたカルチャーショックは相当なものだったそうです。 その後ハイツ内で生まれた日本人が存在するのか否かは知りえないのですが、そしてその第1号である私は今現在光が丘3丁目に住んでいます。 グラントハイツが返還され、光が丘団地が誕生したのが確か1983年だと思いますので、仮にその年に光が丘に居を構えその年に誕生なさった方が存在したと仮定すると、その方は2018年現在、光が丘生まれの最年長者は普通に考えると35歳ということになる筈ですが・・。 自慢にはなりませんが当方、前述の通り今年で68歳になり、紛れもなくこの地で生まれた最年長者なのです
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dankkochiku at 2018-10-14 21:45
コメントありがとうございます。戦時中、戦後、そして現在の光が丘
へと大替わりし、高齢化時代の今また変化しています。今後の変化が興味をよびます。
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