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板橋駅東口ロータリーの先に東京都北区が有形文化財に指定している近藤勇と新撰組隊士の供養塔と永倉新八の墓がある(下の写真)。 近藤勇は、慶応4年(1868)4月、33歳で板橋刑場で斬首処刑され、その首は京都三条河原に晒され、ここには胴体だけが埋葬されたと教育委員会の説明板にある。
この供養塔は、明治9年(1876)、元新撰組長の永倉新八が発起人となって建てたもので、高さ3.6mの塔の表には、「近藤 勇 宜昌 土方歳三 義豊 之墓」 と刻まれている。 だが、近藤の実名は 「宜昌」 ではなく、「昌宜」(まさよし)(いずれも、冖かんむりに且の字だが、活字がないので宜とする)が正しく、同士だった永倉らが新撰組局長の名前を間違えたとは思えないが、これは今も謎である。 また、土方が近藤の側近だったとはいえ、同じ家族でもない二人を一つの墓に埋葬するのは、日本人の風習として考えられない。 とすると、ここには墓と書いてはあるが、新撰組隊士の供養記念碑ではなかろうか。 事実、この塔の45㎝幅の両側面には、新撰組隊士110人の名前が刻まれ、その名誉を讃えている。 供養塔の右側に近藤の銅像があり、その後ろに置かれた自然石は、埋葬当初の墓石と書かれている(上の写真)。 ここは、刑場から700m程離れた寿徳寺の飛び地の無縁仏の墓地で、罪人として処刑された近藤の名を墓石に刻み本院に埋葬できなかった事情は分かる。 刑場は、板橋駅から東へ60メートルほど先の滝野川区7丁目にあって、当時、その辺りは水田で宿場の馬の死骸の捨て場があったといわれているが、現在は道路が整備され、ビルが建ち、それらしい跡は見当たらない。 ところで、近藤勇の墓所は、ここ以外に少なくとも4か所あって、それぞれ、その由来を今に伝えている。 ただ、これらの話は、現地を訪れ確かめたわけではないので、関係寺院などのホームページからの知識であることを断っておく。 まず、三鷹市にある龍源寺。 その門前に近藤勇の胸像と天然理心流の石碑があり、5つある近藤家の墓のひとつに勇の墓がある。 子母沢寛の小説 「新撰組始末記」 によると、近藤が処刑される現場にいた娘婿の近藤勇五郎が、後日、見張り役人に金を握らせ、首のない遺体を掘り起こし、勇の生家、宮川家の菩提寺の龍源寺に埋葬したという説である。 この説が正しければ、板橋の墓所は、供養塔だけで遺体はないことになる。 つぎは、愛知県岡崎市の法蔵寺にある近藤勇の首塚である。 京都三条大橋西の河原に晒された首を同士が三晩目に持出し、近藤と縁のあった京都の誓願寺に持ち込み、後日、その住職が岡崎の法蔵寺の住職に移った際、土方歳三が新撰組の同士たちとこの寺に首を埋めたという説である。 首塚の台座には、土方歳三らの名前が刻まれ、首塚には近藤勇の胸像が置かれている。 また、逆賊ということで密かに埋葬していた誓願寺が昭和33年に見つけた記録文書に基づいてその地を掘り返したところ、台座や遺品などが出土したとある。 また、福島県会津若松市の天寧寺にも近藤勇の墓がある。 土方歳三が会津戦の折、会津藩主松平容保配下の浪人だった近藤の遺髪などを持って、ここに墓を建てて仮埋葬したと、「近藤勇之墓」 の説明板に書いてあり、4月25日の近藤勇の命日には、現在も墓前祭りが行われている。 さらに、山形県米沢市の高国寺に近藤勇の首を埋葬したという墓がある。 寺の案内板には、米沢の織物業者で剣の達人だった従兄弟の近藤金太郎がたまたま上京した折、近藤の首が板橋で晒されていたのを盗み出し、近くの河原で焼いて砕き、紙に包んで米沢に持って帰り、高国寺の近藤家墓地に埋葬したとあるそうだ。 このことは近藤金太郎の孫、近藤利三郎の 「覚書」 にも書かれているとか。 米沢からたまたま上京した時に刑場に晒された首を見つけた、というのは話が出来すぎている感じがするが、では、京都の三条河原に晒された首は誰だったのか。 今もって首の所在は不明だ。 話を、板橋の供養塔境内に戻すと、近藤勇埋葬当初の石と銅像の間に墓参者用の記帳棚にノートが20数冊が置いてある(上の写真)。 新撰組に対する一般の評価は分かれるところだが、そのうちの数冊をめくったところ、マンガやドラマなどに魅せられたのか、新撰組員の生き方がカッコイイと共鳴する若者たちの記述が多く、その単純さに呆れ、苦笑した。
by dankkochiku
| 2009-09-18 22:05
| ぶらり、まち歩き
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Comments(5)
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tomahawk_attack
at 2009-09-20 15:25
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新撰組というと?・・そこに纏わる歴史的な事件は数多く、その切り口によっては、様々な人間模様が浮かび上がって来て、大変、興味深いものを感じます。ただ?全体としてみれば、歴史の裏側で、体制維持のために暗躍した一種の殺戮集団でもあり、また時代の立役者でもありました。。
ちなみに新撰組というと、一般には、Dankkochikuさんの記事にある近藤 勇や、土方歳三、或いは沖田総司あたりに、大方の人気が集まるのではないかと思われますが、記事にもありましたが、近藤勇らしき墓は、どうも全国にあるようで、実際はどうなってるのか?・・正直のところ、私にも良く分かりません。。
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tomahawk_attack
at 2009-09-20 15:26
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ただ?私の場合は少し偏屈なのか何なのか?・・新撰組というと、この近藤 勇氏よりも、浅田次郎原作の「壬生義士伝」に登場する吉村貫一郎(実在人物)の方が、遥かに興味深く映ります。これは映画化されました。そこに描かれる吉村貫一郎は、近藤 勇のような豪放磊落さは微塵にも感じさせませんが、義に対する一途な侍精神、そして前篇に流れる家族愛に満ちた壮絶な生涯。そこには現代人が忘れかけている何かを?・・思い起こさせてくれるようで、見る者を感動の渦に包んで離しません。この人を通してみる新撰組は、近藤 勇や、土方歳三らからくるイメージとは、かけ離れたものを感じ、私的には、こちらの方が好きなのです。。\_(-_- 彡
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桜花
at 2009-09-20 22:51
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近藤勇の墓など新選組に纏わる伝承の多くは、明治の世になってから取材を受けた永倉新八(杉村義衛)による物が多いです。
板橋に建立された供養塔?、その建立費用は永倉新八が、新選組と交流があった元幕府の医師・松本良順からのアドバイスで集めました、また、供養塔に刻まれた字を書いたのは、元会津藩主・松平容保でした。 後世では、永倉新八の他に、数名の元新選組隊士による記録が発見されております。 義経伝説みたく、時の新政府に対する庶民感情での新選組に対する「判官びいき」等から、近藤勇の墓に関する伝承や有名隊士に関する伝承が生まれたと考えます。 新選組がNHKの大河ドラマ化された時、過去のドラマや漫画などのビジュアル的な要素で新選組ファンとなった若者が多くおり、NHKの新選組特番にて若者たちが、口々に「新選組には"誠"があるからと」連発している様子("誠"に込められた奥深い意味も分からず?)を見て、その単純さに些か呆れ苦笑いしました。
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dankkochiku at 2009-09-21 00:10
tomahawk_attack さん 政権維持に狂奔した幕府は、崩壊の危機に怯えながら、その一方で、朝廷から幕臣たちへ直接の非難を避けるために、腕の立つ浪人達を集め、尊王攘夷論者の殺害を目的にテロリスト集団、新撰組を組織しました。 こうした暗躍活動にはつきものの集団統制力強化策として、内部の分裂を防ぐため権力闘争が激化し、粛正された者が多かったといわれています。 連合赤軍派事件を連想させます。
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dankkochiku at 2009-09-21 17:22
桜花さん 「誠」の字を染め抜いた羽織、隊旗を見ただけで新撰組に共鳴する人は少なくありません。 内容不明だが、何か人の心を引き付けるこの種の言葉を前面に掲げ、ある目的に人を動かし、組織作りをするというのはどの世界でも見られる独裁者のありふれた煽動技法。 言葉の魔術に騙されてはいけません。 誠と同様に得体のしれないものでも美化されやすい言葉には、真、義、信などがありますね。
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