両国というと、まず大相撲。 いつも国技館前を通る人たちの気を引き立てるのが林立する大相撲の幟だ。 ふと、見ると、今年は、茨城県牛久市にある少年院、「法務省茨城農芸学院篤志面接委員会」 と染め抜いた横綱白鵬関の幟が風にはためいているではないか。 篤志面接委員とは、少年院や刑務所などに収容されている人の改善更生、社会復帰を目的とした相談・活動に協力するボランティアたちだ。

両国と大相撲とのつながりは古い。 4代将軍、徳川家綱の時代、明暦3年(1657)1月に起きた江戸史上最大の大火 「明暦の大火」(俗にいう振袖火事)が江戸市街の三分の二を焼きつくし、5,6万人とも10万8千人ともいわれる焼死者のうち、2万人あまりの身元不明の亡骸を、幕府から払い下げられた両国の空地に約2町(約220m)四方の大穴を掘って埋葬し、そこに 「万人塚」 を築き、念仏堂を建て死者の霊を弔ったのが両国の回向院創建の年で、正式の名前を 「諸宗山 無縁寺 回向院」 という。

回向院は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」(回向院ホームページ)とあるように、明暦大火以後も、「八百屋お七」の大火、安政の大地震、関東大震災の死者、海難死者、刑死者、行路死者、横死者など、主に無縁の死者のほか、ぺット動物も境内に埋葬してきた。
回向院創建111年後の明和5年(1768)、祭の人寄せに開いた境内での相撲興行が好評を博し、天保4年(1833)には、年2回、勧進相撲として境内の掛け小屋で行う 「回向院相撲」 の歴史が始まる。 明治17年に明治天皇の天覧相撲が機となって、明治42年に掛け小屋の3倍以上の客席を持つ常設館が万人塚のある境内に建ち、板垣退助が 「国技館」 命名、大相撲は隆盛の一途をたどった。
その後、回向院も国技館も関東大震災、東京大空襲などで3回全焼。 その都度復旧したが、昭和58年に建物老朽化により解体されるまで、総武線の車内から国技館の巨大な円屋根を見せてきた。 現在、その跡地には事務所、住宅、劇場、食堂などが入る高層複合ビル 「両国シティコア」 が建っている。
回向院を訪れる観光客の人気の首位は、「教覚速善居士」 の戒名をもつ鼠小僧次郎吉の墓だろう。 いつの頃からか、この墓石のかけらを持って賭場に出ると勝機がつかめるという噂信仰から、墓石を掻き砕いて持ち去るものが増え、現在の墓は何代目かのものだが、それでも、墓石の破片を求める人が絶えないため、代わりの墓石(お前立て)を本物の前に建ててあったが、それも今では、味気ないただの白い石に代わり、掻き用の小石が置いてあるだけ。 小学生の男の子と母親がしきりに白いお前立てを削っているので、声を掛けたら、テストがあるからとのこと。

鼠小僧は、富豪の商家、諸大名の屋敷に忍び込み、盗んだ金銭を貧しい町人たちに施した義賊と、社会主義者のように書いた草双紙 「鼠小僧実記」 や講談が一時、もてはやされたが、そのような記録はなく、悪銭身につかずの譬えの通り、盗んだ大金は、ほとんど博打と女に費やした、と言うのが事実のようだ。
鼠小僧の墓の隣に、見えるのが 「猫塚」 で、鼠と猫を並べて建てたのは、ユーモア小説を見るようだが、掲示板にある 「猫の恩返し(猫塚)」 の説明は、昔、聞いた六代目三遊亭円生の古典落語 「猫定」 の怪談噺とはかなり違い、いい子のためのお話だった。