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この季節になると坂を上るのはしんどい。関西弁がぴったりの感じだ。それでも、その坂の名のいわれが書かれた標識を見つけると、暑さを忘れて元気をとりもどす。その地域の歴史・文化を垣間見ることができるからだ。もっとも古くからの坂の名前は、行政機関が決めたものではなく、民間伝承なので、同じ坂でも複数の名前が付けられているものもあるが、その民間伝承的なことが生きた庶民の生活を映し出している。
今回は、東京23区内のそんな坂をいくつか拾い出す。港区・赤坂の「三分坂」の名は、急坂のため、通る車賃が銀三分(100円ほど)の割増料金を取ったことに由来したからと標識にある。文京区・千駄木の「団子坂」には、坂下に団子屋があったからとする説と、悪路のため転ぶと泥団子のようになったから、という二説を文京区教育委員会はあげている。また新宿区・若松の「団子坂」もまた、「昔この一帯が低湿地でいつも泥んこで、歩くたびに泥団子のようになったから」と千駄木説と同じ説だ。新宿区「軽子坂」のいわれは、「軽篭持の略称。今の飯田濠にかって船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた」とある。私の学生の頃(昭和30年代初め)も、飯田橋駅北側の濠には船付き場で木造船から荷下ろしをしていた。 江戸時代の参勤交代制度の名残りとして、地方大名屋敷跡の名が付けられた坂も多い。中央線・御茶ノ水駅と神田駅の線路沿いの「淡路町」「淡路坂」の名は、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があったことに起因し、千代田区「紀尾井町」「紀尾井坂」の名は、紀伊家、尾張家、井伊家の屋敷跡から名づけられた。 そのほか、漢方薬の薬種を砕き、粉末にする鋳物の薬研(やげん)の形に似た上り下りする「薬研坂」(港・赤坂)、野生動物がよく現れた、「鼬坂(いたちざか)」「狸穴坂(まみあなざか)」「鼠坂」「蛇坂」(いずれも港区)がある。また「逢坂」(新宿区・市谷)の由来は奈良時代に溯る。 目前の急坂の印象をそのまま坂の名にした、「胸突坂」(文京・西片、文京・関口、豊島・高田)は複数あり、豊島区高田2丁目の「胸突坂」は、東京で一番急な坂で車も徐行するほどだが、標識はみつからなかった。暗くて通るのが恐ろしい「暗闇坂」(文京・根津、同・白山、大田・南馬込)や「闇坂」(新宿・四谷、大田・南馬込)、「幽霊坂」(千代田・神田淡路町、港・三田、同・高輪、文京・目白台、北・田端)も多い坂の名前だ。「行きはよいよい、帰りはこわい」の童謡はこんな坂道を想像する。また、「富士見坂」は、千代田、文京、北、荒川、豊島、目黒、太田区など都内で一番多い坂の名だが、今では高層ビルが邪魔してほとんど富士山が見えないのはさびしい。 地図でもナビでも、よく分からないのが場所の高低だ。地図の上で、番地は接近しているのに急坂の上または下に隔てられているところがある。こうした坂は大抵、細く、曲がりくねっており、標識がないと、行くのが憚られる。古くからの地元の人に出会わない限り、気付かない坂もある。たとえば、港区にある高野山東京別院の住所は、高輪3丁目15番地だが、江戸時代後期に寺院の一部を外国人の宿寺として英国公使館に使用した臨済宗・東禅寺の住所は高輪3丁目16番地と、1番地しか違わないのに、最短距離の「洞坂(ほこらさか)」を通っても300メートルほど離れている(下の写真 洞坂と東禅寺) また、名前が表示されていない坂だと、近所の通りつけている人しか知らない。四十七士の墓地のある高輪・泉岳寺から、大石良雄ら17人が細川邸に預けられ、自刃した跡地への道は、泉岳寺外塀と高輪中高校、民家の間の細道を抜けるのが一番近道だと泉岳寺境内の売店で教えていただいたのは幸運だった(下の写真・泉岳寺から大石良雄等自刃跡への裏道)。最後の写真の右側の石碑は、日本画家、川端玉章の碑と辛うじて読み取れたが、なぜこの無名の坂上立っているのか分からなかった。 #
by dankkochiku
| 2014-07-23 11:57
| ぶらり、まち歩き
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いつもの年ならば、そろそろ、上野・不忍池の蓮の花が満開の時節を迎える。大型台風8号接近とあって気をもませたが、幸い、都心部をそれて、被害を残さずに太平洋海上を北上、通過した。
不忍池、弁天堂先のボート場を右手に見ながら不忍通りに出ると、通りの向側に無縁坂の上り口が見える。無縁坂は、坂下が台東区、坂上は文京区と2区に跨り、また、下町と山手との境で、傾斜度7~9%(1,000m進むごとに7~9mの高低差)の坂だ。 無縁坂の名前の由来は、昔、この坂上に無縁寺があったからと文京区教育委員会の案内板にある。現在、坂の途中にある寺院は、浄土宗の講安寺(上の写真)で、慶長11年(1606)に湯島天神の下に創建され、元和2年(1616)にここに移ってきたとある。建物の特徴は、度々の江戸の大火から難を免れるために、防火建築に建てられていることだ。つまり、寺院建築でありながら、本堂と庫裏は、木造建築の上を漆喰で塗り固めた土蔵建築にしたために、他の多くの寺院が数度にわたる江戸の大火で焼失した中にあって焼失を免れ、当時のままの姿をとどめており、文京区の文化財に指定されている。 無縁坂が人々に愛着をもって広く知られるようになったのは、森鴎外の小説「雁」だ。小説の筋は、東大鉄門(現在のものとは別)の真向かいの下宿屋で生活する医学生の岡田(鴎外がモデル)が毎日決まって通る散歩道がこの坂だ。坂の途中に高利貸しの妾宅があり、そこに住む美人で二十歳ほどのお玉と岡田がたまたま目を合わせて以来、互いに惹かれながらも、心を打ち明けることなく、時が過ぎ、岡田は卒業前にドイツへ留学してしまうというストーリーだ。 小説の設定は、明治13年(1880)で、「その頃から,無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ、今のやうな巍々たる土塀で圍ってはなかった。きたない石垣が築いてあった。苔蒸した石との間から、歯朶や杉菜が覗いてゐた。」 「坂の北側はけちな家が軒を並べてゐて、一番體裁の好いのが、板塀を繞らした、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住ひであった。店は荒物屋に烟草屋位しかなかった。」(原文)。現在も坂の南側は石垣の上に煉瓦塀を巡らした旧岩崎邸庭園があるが、坂の北側には、鉄筋4階建てのアパート(マンションというべきか)が数棟と幼稚園などが並び、けちな家どころか場所柄、閑静な高級住宅通りだ。 森鴎外のこの大正初期の作品とはなじみ薄い現代の人々でも、昭和50年にシンガーソングライター、さだまさしが作詞・作曲したヒット曲、「無縁坂」は、人びとにこの坂への関心を一層高めた。「母がまだ若い頃 僕の手をひいて この坂を登る度 いつもため息をついた ため息つけば それで済む 後ろだけは見ちゃだめと 笑っていた白い手は とてもやわらかだった」 で始まり、「忍ぶ 不忍無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の 母の人生」で終わるこの歌は、暗い曲との評もあるが、家族を大切にし、親子の情愛を暖かく歌っている。 しかし、母に手を引かれて無縁坂をたびたび通って何処へ行ったのだろうか。母がため息をついた上り坂の先は、東京大学医学部棟に突き当たり、JR上野駅から東大付属病院へいく最短距離だが、病気の治療とか誰か病人見舞いとは想像しにくい。母が僕に「後ろだけは見ちゃだめ」と言ったのは、多分、講安寺へ寺参りに行き来する情景を描いたのではなかろうか。 ところで、「無縁」とは、いかにも頼れる人のいない孤独の寂しさを連想する言葉だが、大辞林には、仏教用語として、「万物を区別しない仏の知恵が、対象を縁とすることなく平等に慈悲を及ぼすこと」と、普通、使っている言葉の意味とは正反対の意味もあることが分かった。この意味を更に進めると、ものに囚われない自由な心の意味もあるような気がするが、どうなのだろうか。 #
by dankkochiku
| 2014-07-12 11:44
| ぶらり、まち歩き
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生まれも育ちも東京(23区内)の私だが、それでも少し間を置いて都心部に行くと、その変貌振りに道に迷うことしばしば。特に、周囲を見通せない超高層ビル群には圧倒される。
1964年、東京五輪の外国人客受け入れ目的で建設されたホテルニューオータニが、当時、国会議事堂を抜き、始めて日本一の高さのビルと話題になったが、それでも17階、72メートル強の高さで、いまではその程度のビルは都心外にもあり、驚くほどでない。 その後、1980年をはさんで前後4年あまり、仕事関係で虎ノ門,霞ヶ関、日比谷界隈を行き来していた頃、高さ156メートルの霞ヶ関ビルが開業し、一時、外務省がその新ビルに間借りし、その傍の旧文部省庁舎が対照的に古ぼけて貧相に見えた。 その頃からにわかに世界貿易センタービル(浜松町),京王プラザホテル(新宿〉、サンシャイン60(池袋)、都庁ビル(新宿)と都心部に高さ100~200メートル級の高層ビルが次々に建ち、超高層ビルの呼び名が流行り始めた。これらのビルは耐震建築基準を全うしているとはいえ、まだ、建設後、大地震を経験していない東京では、倒壊しないまでも、特に、埋立地で標高の低い地盤地域の高層のビルでは、地震の揺れに人びとがパニック状態にならないことを祈るばかりだ。 そんな虎ノ門1丁目で地区再開発工事が2003年に始まり、今月11日、地上52階、高さ247メートルの複合施設、「虎ノ門ヒルズ」が開業し、喫茶店・レストランなど商業施設(1~4階)、オフィス(6~35階)、レジデンス(37~46階)、外資系ホテル(47~52階)などが入った。 こんな都心の一等地での生活は、とても庶民向けではないが、このビルのオーナー、森ビルの辻慎吾社長は、その竣工記者会見で、「ほぼ満室に近い状態でスタートが切れた。賃料もかなり高い水準で契約できている」と意気揚々と語ったと、6月29日付けの東洋経済オンラインが報じた。レジデンス部分は、172戸、うち70戸が賃貸で、賃貸料は、このブログ更新日現在、約51平米(1LDK)で55万円から約283平米(3LDK)が292万円で空室がまだあると、ある不動産会社が広告している。 驚いたのは、東京一の高さという虎ノ門ヒルズだけではない。この地区一帯の様子が4年ほど前に来た時とは一変したのだ。まず、このヒルズ2階の芝生公園地下をトンネルが通り、汐留方向へ向かう環状2号線自動車道が開通し、地上には新橋へ向かう100メートル幅街路に拡張整備された(上の写真)。ここは、4年前には、都心部としては普通の道幅の街路で、地元民がかつて、通称、「マッカーサー道路」と呼んできたところで、地域開発後、「新虎通り」と名付けられた。ただ、10年後には、この通りの両側には超高層ビルが林立し、空の視界が狭まっているだろうとおもうと、この写真は記念になるかもしれない。 写真・浅野内匠頭終焉地と切腹最中店 この地帯は、また歴史的に見落とせない場所だ。地域再開発工事中、行方が分からなくなっていた「浅野内匠頭終焉之地」の石碑が再び道路沿いに建てられた。都の案内板には、ここは、「旧、田村右京太夫屋敷跡にして、元禄十四年(辛巳三月十四日)に浅野内匠頭の自刃せし所なり」と史跡に指定している。また、ここから少し離れた場所で再開発工事中も、田村右京太夫屋敷跡で営業を続けてきた大正元年創業の和菓子屋には、名物の餡のはみ出した「切腹もなか」を求める観光客で店内は満員だった。 #
by dankkochiku
| 2014-06-30 22:13
| ぶらり、まち歩き
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「不況脱出」、「景気回復」の公約が有権者の圧倒的支持を得て、政権をとった安倍政権は、与党議員数を頼りに次々と選挙前の公約に掲げなかった国家安全保障会議(NSC)設置、特定秘密保護法制定 武器輸出三原則緩和 防衛態勢強化を念頭にした防衛大綱などを次々と立ち上げてきた。
これらの政策は、明治政府以来、経済成長と軍事力強化を国家目的としてきた戦前の富国強兵政策、国家主義政策を髣髴とさせる。安倍政権のこうした歩みの中で、いま、集団的自衛権行使容認を推進する動きが強行されている。 集団的自衛権行使は、国連憲章によって認められているとはいえ、これを直ちに我国で容認できないのは、我が国の憲法が国際紛争を解決する手段に武力行使を永久に放棄すると鮮明にし、戦後歴代政府も集団的自衛権行使を違憲とする立場をとり、専守防衛を自衛隊の基本として守ってきたからだ。 それがいま、これらを否定しようとする動きに出てきたのは何故か、国民への説明を抜きにして集団的自衛権行使容認を巡り与党内で議論を進めている。その与党内でも公明党の容認慎重論によって議事が一進一退しているのだから、もっと早く、国会に堂々と提出し国民の前で論ずるべきではなかろうか。いったん国会に提出し、否決されたら、再提出が難しくなると姑息なことを懸念しているとしか思えない。 安倍政権側は、憲法第9条をかなり恣意的に拡大解釈し、なんとか与党内だけでも賛成を得て閣議決定しようと、集団的自衛権行使が必要となる場面を想定し例示したのだが、そのような事例だけで済むかは、全く分からす、実際の戦闘場面を経験したことのない者の想像に過ぎず、この点を指摘されると、話を変え、ただ国民の財産、生命、幸福追求権を守る必要最小限度の実力行使、「積極的平和主義」などと具体性を欠いた抽象論を繰り返し、数の力で自民党作成の法案を押し通そうとしているとしか国民の目には映らない。 公明党からの行使容認慎重論に加え、自民党内の意見集約も難しいとみたのか、突如、「国連の集団安全保障による武力行使」を提案してきた。相手が強行と見ると、文言、表現を変えて煙に巻き、前面突破を図る安倍政権の常套戦術だ。 この与党内のやり取りの裏には、政権与党から離れたくない公明党側の思惑と、公明党抜きでは国会通過は困難と見る自民党、その外側からの遠吠えとしか聞こえないあまりにも弱体な野党勢力といった政策決定を巡る危険な政局が見え隠れする。 集団的自衛権を巡る議論が今年になってにわかに活発化した背景には、尖閣諸島をめぐる中国との緊張関係や北朝鮮の核・ミサイル開発、竹島、慰安婦を巡る韓国との関係悪化、更には同盟国アメリカを失望させた安倍総理の靖国神社参拝への信頼挽回、さらにはアメリカの支持を取り付ける動きなどがある。しかしいつ戦端が切られても対処できる準備態勢作りの必要性を訴えれば訴えるほど、自国民にも周辺国にも警戒心を与え、その危険性を増すことになる。それよりも、周辺諸国との関係改善に向けての積極的外交をもっと進めるべきだろう。 いつの時代も、戦争は老人が始め、殺されるのは若者であるのを忘れてはならない。 このような国際情勢のさなか、パリの武器見本市に始めて日本企業13社が出品し、出席した武田防衛副大臣が展示品のライフルを取って銃口を人に向け、会場でたしなめられ、笑って誤魔化したのが世界に報じられた。政権側は、これしきのことと、大目にみることだろうが、ヤレヤレである。 奢れる人も久しからず,唯春の夜の夢の如し、としたいものだ。 #
by dankkochiku
| 2014-06-22 21:26
| 時評
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祥雲寺の駐車場をでると、目前に門前町が開ける。普通、門前町というと、饅頭屋、団子屋、煎餅屋、佃煮屋、ウナギ店、屋台など庶民的な店が並ぶ帝釈天、深川不動、巣鴨地蔵などの参道をイメージするならば、ここは全く違う印象を受ける。横文字の開放的なカフェー、高級レストラン、若者が列をつくるサラダ店、休日は市民バンドの街頭演奏など、観光客も地元民も入り混じってリラックスした気分になれる、そんな印象を受けるのがここ、「広尾散歩道」だ。(下の写真)
目を楽しませながら200メートルほどの「広尾散歩道」(上の写真)を抜け、外苑西通りを横切ると、渋谷区広尾から港区南麻布に入る。麻布もまた都内有数の高級住宅地で、各国の大使館が点在し、西欧人の姿を多く見かける国際的な町並に、自然がいっぱいの有栖川宮記念公園がある。(下の写真は公園正門) 有栖川宮公園の正門前で南部坂と交差する木下坂は、木下備前守の屋敷跡に因んで名付けた坂、北条坂は、木下坂上で交差し、外苑西通りへ向かって下り,日赤病院脇を通る坂下近くの南側に北条相模守の下屋敷が坂沿いにあったためにつけた坂の名前だ。明治以後、これらの広い武家屋敷跡に、有栖川宮家の用地のほか、各国大使館、学校、病院、高級住宅が建ち発展したのがこの町の特長といえる。。 有栖川記念公園は、江戸時代、旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷跡が明治29年に有栖川宮家の用地となり、有栖川家が絶えた後の大正2年に有栖川家の旧称高松宮邸用地になり、児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる1934年(昭和9年)にこの地を東京市に賜与され、記念公園として一般開放された1万1千坪の公園だ。 港区に坂が多いのは、前回紹介したが、有栖川宮公園の中もまた、東側が高く、南西側が低い傾斜地にある。入り口からすぐ近い池の端を木々に覆われた階段を上ると、陸軍大将、参謀総長、福岡県知事、元老院議長を歴任された軍服姿の有栖川宮熾仁(たるひと)親王の騎馬像とその向かいに新聞配達少年像のある広場と都立中央図書館がある。(下の写真) 有栖川家は、後陽成天皇の流れを汲む京都の出身宮家で、歴代皇室で書道、歌道の指南役を勤め、信任厚く、「五箇条の御誓文」の正本は、有栖川流書道を大成させた幟仁(たかひと)親王(1812-1886)によって書かれた有栖川流書道文字だそうだ。 余談だが、戦後混乱期に、自分こそは真の天皇家の末裔と名乗りを上げた男が現れた。男は、名古屋市で洋品雑貨店を営む故熊沢寛道。いわゆる熊沢天皇事件報道で世間を騒がした事件の男だ。 皇族、華族、貴族という肩書きには不思議と人の心を惹きつけるものがあるようで、今度は2003年に、政治団体 「有栖川宮記念」 代表、名詞に総裁と肩書きをつけた41歳の無職の男性が有栖川宮家と関係がないのに、「有栖川識仁」 と自称し、また、この男性と全く恋愛関係、内縁関係、婚姻関係のない妃殿下を自称する無職の45歳の女性が有栖川人識仁との結婚披露宴を赤坂の会員制クラブで、「有栖川宮記念奉祝晩餐会」 なるパーティを開いて、招待客から祝儀約1210万円や絵画を騙し取った詐欺事件が起こった。この事件の公判で、検察側は、「皇族への畏敬を利用した大胆不敵な犯行。公判でも、被告人は『殿下』と呼び続けるなど、一切反省していないのは明らかだ」と指摘し、2人に懲役3年を求刑したが、06年に東京地裁は、2人とも懲役2年2か月の実刑を言い渡し、一審判決が確定した。 2008年1月4日付けの朝日新聞によると、自称「殿下」の男性は出所しており、自身の政治団体再興を目指し、以前のように「有栖川宮」として活動しているという。また平成20年度版『政治団体名簿』(政治資金制度研究会編、財団法人地方財務協会刊)に依ると、2007年(平成19年)5月1日付けで京都府宇治市に政治団体『有栖川宮記念』(代表者:有栖川識仁、会計責任者:有栖川晴美)が新規設立届出されているという。ムショ生活もなんのそののようだ。 #
by dankkochiku
| 2014-06-08 17:26
| ぶらり、まち歩き
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