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戦後60数年間、団塊の世代といわれるベビー・ブーマーたち(昭和22~24年生まれ)は、人生の節目節目でとかく世間の話題に事欠かない。 今回は、地方農村で生まれた彼らが中学卒業後、すぐ就職し、大都会へ送られていった話だが、その前に、当時の農村社会の様子を見る。 農業国日本から出征した多くの青壮年が終戦で故郷に戻ってきた。 負け戦での帰国とは言っても、無事に戻れたことを家族ともども祝った。 しかし、それも束の間、長男が家の後継ぎをする習慣がまだ当然視されていた農村では、二男三男に分け与えるほどの農地はなかった。 人手不足の農繁期には有難がられても、農閑期には穀潰し(ごくつぶし)と見られ、落ち着く居場所のない鬱屈した生活を強いられていた。 郷里を出て都会で働くにも、都市部は、まだどこも戦後の混乱が収まらず食糧難、就職難で、縁故者でもいない限り、地方人を受け入れる余地はなかった。 ほとんどの二男三男に残された道は、若い独身者であれば、意を決して未知の都会に出ていくか、あるいは、親から農地を少し分けてもらって分家し、五反百姓(土地1500坪程度の零細農業)をしながら、別の仕事を見つけ、通勤する兼業農家になる以外なかった。 昭和25年当時、農業人口は戦前よりもはるかに多い1600万人以上に膨れ上がり、全国の全就労者の45%を占めていた(総理府統計)。 農地面積に比べ農業人口の過剰状態による二男三男の問題は、国にとっても深刻な問題だった。 こうした戦後社会の閉塞状態は、昭和25年に勃発した朝鮮戦争によって、日本が米軍の補給基地となり、特需(特別需要)景気をもたらし、その後の高度経済成長への足掛かりになった。 それまでの求職難は一転して、求人難に変わった。 企業は、求人先を賃金が安くて使いやすい新規中卒者に向け、職安(ハローワーク)単位、学校単位で大量募集に乗り出した。 昭和25年ともなると、東京の高校進学率は50%を超え、その後も年ごとに上昇していったので、まだ中卒後就職する者の多かった地方に求人募集の的を絞ったのだ。 その結果、全国新規中卒者の求人倍率は、昭和27年以後、1を超え、いわゆる団塊世代の子供たちが次々に中学を卒業した38~40年には、男女とも求人倍率は3倍を超えた。 企業側は彼等を 「金の卵」 と呼んでもてはやし、少年企業戦士たちを地方から東京、神奈川、大阪へと大量に運ぶ集団就職臨時列車が昭和29年からその後20年間にわたって走った。 子供たちが郷里を離れ、都市で働くことは、企業側にとって 「金の卵」 だっただけではなく、貧しい農家にとっても人減らしになり、親もとへ送られてくる子供からの月給は、この上ない収入源になった。 これを見た後継ぎの長男たちもまた、労多くして報いの少ない農業に見切りをつけ、やがて都市部へ出稼ぎに行き始め、農村の過疎化が始まる。 少年たちの就職先は、建設業、製造業、サービス業など広範囲にわたったが、必ずしも優遇されたわけでなかった。 当時、最先端企業と言われた化学繊維工場やトランジスタ製造工場など大企業に採用された女子たちは、給与水準、勤務時間、寮生活など他の女子工員同様の待遇が受けられたが、他方、家内商工業など零細企業に就職した少年たちは、そこに住み込み、家族同様、勤務時間は不規則、残業手当は支給されず、休日は不定期で、家事の手伝いもさせられるなど、勤め先の労働条件は千差万別だった。 中でも、少年たちにとってよくなかった就職先は、雇用者が10人ほどの企業で、そこでは、同僚から、「田舎者」 といじめにあい、離職率が高かったと言われている。 ところで、他府県から都市部へ流入した少年(流入少年)の数が全国一、多かったのは東京だが、例えば、昭和38年に東京都在住の15~19歳の少年は、86万6千人で、そのうちの27%に当たる23万4千人が他府県から就職目的の流入少年だった。 これらの少年たちの就職先は、工場街、繁華街のある墨田、大田、足立、新宿、葛飾、江東などに大部分が集中し、男子では工員が過半数を占め、次いで職人、店員の順で、女子では工員が4割で店員、事務員の順で就業していた。 一方、昭和38年から40年までの3年間は、戦後、刑法犯少年犯罪(14~19歳)の第2の山と呼ばれているが、その山頂を作ったのはベビーブーマーたちで、流入少年の増加とともに、38年には全国の少年検挙者数の約30%が6大都市に集中した。 また、38、39年に東京少年鑑別所に収容された少年のうち、東京以外の地に保護者の住む少年は、43%、45%を占めた。(昭和40年版 犯罪白書) 昭和44年に東京家裁に送致された流入少年のうち、初犯者は平均して72%だったが、本土復帰前の沖縄県からの流入少年では、86%が初犯者だったのにもかかわらず、窃盗をした少年が51%を占め、他からの流入少年の41%より目立って高かった。 戦後25年間、本土との交流が絶たれ、頼れる同県人が少なかったほかに沖縄行政の遅れが指摘された。 また、流入少年のうち犯罪をした少年の犯行時の様子は、独り暮らしで、職業は、サービス業、露天商、とび職、単純労働者など不安定な職種が大部分で、転職回数が多かった。 その動機は 「給料が安い」、「仕事がきつい」、「職場の雰囲気が悪い」、「将来性がない」 などをあげた少年が多かった。 転職するたびに一層不安定な職種に移り、相談相手も見つからないまま、少年事件には多い共犯者もなく、独りで犯罪に走った少年たちだった。 非行のある流入少年について、当時の東京家裁の三淵嘉子判事は、「雇主としては、少年は勤労の場においては金の卵であるが、その余暇の日常生活の場においては、いかにして逃げられないようにするか、ただ少年のしたいままにまったく自由放任だったと思うのです。 少年達にはまだ誰か保護者がいなければならない年齢だというのに、雇主はその責任を放棄していました。」 と流入少年の非行の背景について語っている(「繁栄の落し子たち 70年代の少年非行」1972年)。 しかし、これは、雇主が少年たちの保護責任を果たさなかったというよりも、労働省が職安行政として、雇い主が使用人を家族的に扱うよりも、労働基準法に沿った近代的雇用関係を重視し、私生活にあまり立ち入らない指導をしていたことも忘れてはならない。 都会生活に馴染めず、親たちからの保護を受けられず、収入を親に送金するといったさまざまな労苦を強いられた多くの流入勤労少年の中で、労苦をバネとして栄光を勝ち取った人に、直木賞作家の出久根達郎や演歌の代表的歌手の森進一がいる。 しかし、その一方で、連続ピストル4人射殺事件を起こし、その後、獄中で、新日本文学賞を得た永山則夫(死刑)、東京・深川通り魔6人殺傷事件を起こした覚醒剤中毒の犯人(無期刑)のような挫折者も中卒後すぐに加わった集団就職組たった。 ☆なお、このブログ記事は、本文にあげたもの以外に、下記の文献を参考にしました。 加瀬和俊著 「集団就職の時代 -高度成長のにない手たち-」 1997年 青少年問題研究会編 「流入青少年実態調査報告書 -東京都における青少年の流入状況 とその後の生活環境・勤務条件について-」 昭和39年
by dankkochiku
| 2008-09-15 21:40
| 非行・犯罪
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Comments(11)
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cocomerita at 2008-09-15 23:36
Ciao dankkochikuさん
私は全くの戦後なので、こういう暗い時代があったことを話のごく一部でしか知りません。 戦争からやっと帰ってきたら、自分の居場所がないなんて、なんて辛いことだったろうと思います。 そして、まだまだ親に甘えたい子供たちが見ず知らずの都会に出ていき、そして実家の家計を支える。 大変だったろうなあと思います。 その大変の本当の中身さえ想像もできない私ですから、、 本当にその頃の人と比べたら、私たちは恵まれていますよね。 それなのに、なぜこんなに社会は、むしろその頃よりも病んでいるように感じるのでしょうかね?? こういう話をきちんと聞くと、今ある程度のお歳になっている人達を 違う目で、ごくろうさまでしたという目で見られる気がします。 それぞれの時代に生きてきた人たちの背景を知るということは大事なことですね。 いつもありがとうございます。
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dankkochiku at 2008-09-16 08:48
Buongiorno,cocomerita さん そう、あの時代と比べると、現在は天国です。 「私は全くの戦後なので」 「今ある程度のお歳になっている人達を」 と言われると、Allora, quanti anni ha?
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cocomerita at 2008-09-16 19:31
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yamanteg at 2008-09-16 21:11
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dankkochiku at 2008-09-16 21:14
Segreto? Ho capito,ma e’ un peccato,signora cocomerita.
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dankkochiku at 2008-09-16 21:48
yamanteg さん。 そうですねぇ、確かに、他人の不幸で得をしたと言われても仕方ないと私も思っています。 運命のなせる業でしょうが‥。
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cocomerita at 2008-09-18 20:21
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dankkochiku at 2008-09-18 21:53
Si, certo. Volentieri, signora Tesoroさん
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tomahawk_attack at 2008-09-19 09:34
地方から出て来た段階の世代前後の方々は、艱難辛苦を舐めて来られた方が多いせいか?皆、精神的にも、とてもタフで、プラス思考の方が多く見受けます。私の知り合いにも、そういう方が多くいます。
彼らはまた、同郷の結び付きや、団結心が強く、出身地の政治家や学閥をコアにして、仕事の面でも互いに助け合い、励まし合う環境が有ったように思います。 しかしながら、皮肉にも、その後における日本の交通や情報の発達が、都会と地方の距離を縮め、個人主義の台頭とともに、かっての良き美風であった同郷同士の連帯感や結び付きを、急速に失わせる流れとなりました。 その意味から考えると?・・人と人の結び付きの薄い?今日の社会環境であれば、なお更のこと、疎外感の助長も、やむ得ぬ流れのように感じられてしまうのです。。。(*'へ'*)
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dankkochiku at 2008-09-19 10:05
tomahawk さん 集団就職で都市に集まった子供たちの心の拠り所として各地にいろいろな仲間作り運動ができました。 一例をあげると、昭和28年に東京・世田谷に、「根っこの家」 が、政・財界、芸能、スポーツ界などの支援を得て、財団法人を立ち上げ、創立50年以上の現在も川越市で活動し、ホームページも出しています。 全体主義は息苦しい、個人主義は心細い、この二律背反を調和させるのが大事ですね。
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cocomerita at 2008-09-22 07:50
dankkochikuさん、Ciao,
COme stai? それはそうと、8/15にいただいていたコメントに返事を書いておらず、只今発見したという不始末。 ごみんなさ~~い。 お返事書いておきましたので、お時間のある時に見てやって下さい。 こっちはさむいよ= 冬見たい、、 Sembra inverno.,,che palle!
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