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地下鉄西大島駅から地上に出ると明治通りと新大橋通りの交差点にでる。その一角に「羅漢寺」があり、その道向こうの住民センター前に「五百羅漢跡」の石碑が立っている。(下の写真:羅漢寺 五百羅漢石碑)
江東区が昭和33年に建てた石碑には、「元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せられ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年(1887)に墨田区へさらに同四十二年(1949)に目黒区へ移転した」とある。 目黒へ移転のわけは、この辺りが埋立地で、度たび洪水に見舞われ、寺は荒廃し、五百羅漢像も守れなくなったためといわれている。安藤広重の描いた羅漢寺の周辺一帯は田んぼだったし、今もこの辺りは海抜、-1メートル。因みに、目黒区内でも土地の低い下目黒にある五百羅漢寺付近の海抜でも、10メートルあるし、大島から下目黒へ移された羅漢像は305体と数こそ減ったが、移転によって関東大震災からも戦災からも免れたことはなによりも幸いだった。 では、現在、大島の交差点にある鉄筋コンクリート3階建ての羅漢寺は何かというと、元の羅漢寺が下目黒へ移転後の明治36年(1903)に、その跡地に奥多摩町氷川にあった曹洞宗の祥安寺が移転してきた寺院で、昭和11年(1936)に羅漢寺と改称し、現在に至っており、元の羅漢寺とは歴史的つながりはない。 新大橋通りを西へ向う。貨物専用線が残るガード先にある俳人・小林一茶ゆかりの神社、愛宕神社へ行く。一茶の句帳や日記に「本所五ッ目・愛宕山」とあるのは、40代前半の一時期を愛宕神社に仮住いしていた当時と思われる」と江東区の説明にある。しかし、境内の石碑にある「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」の有名な句がここに仮住まいしていた当時のものかどうかは、明らかでない。 愛宕神社から明治通りへ一旦戻り、小名木川方向へ行き、大島4丁目団地を過ぎた辺りを右折し、釜屋堀通りを行く。(下の写真:釜屋堀跡?、釜屋跡碑) 「釜屋堀通り」は、大正時代まで、この辺りで鍋釜などの日用品のほか、浅草・浅草寺の梵鐘、両国・回向院の銅造阿弥陀如来坐像などを仕上げた鋳物工場のあった場所。関東大震災を受け、いまではその面影なく、大島橋たもとの児童公園「釜屋堀公園」には、「釜屋堀」の名残のような小さな池と、教育委員会が立てた釜屋跡碑を残すのみだが、石碑には、「太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六 釜七と称し 寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまもなくこの付近に住い 釜六は明治時代まで 釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ なべかまの日用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した 昭和33年10月1日 江東区第十九号。」とある。 また公園には、明治20年(1887)、ここ釜屋堀一帯で創業したわが国最初の化学肥料製造会社、東京人造肥料会社本工場(現・日産化学工業)による日本近代農業への功績を称える言葉と、その用地250坪を公園として昭和19年に都に寄付した感謝の気持ちを述べた東京都による記念碑があり、また、公園内には、「化学肥料創業記念碑建設会」による、記念碑「尊農」(上の写真)には、会社創設協力者として、渋沢栄一(1840-1931、第一国立銀行、東京証券取引所、理化学研究所の創設者)、益田孝(1848-1938、三井物産、日本経済新聞社創始者)、高峰譲吉(1854-1922 理化学研究所創設者の一人、人造肥料会社(現、日産化学)設立者。消化薬タカジャスターゼ発明者、現、第一三共の初代社長)等諸氏の先導による化学肥料開発の功績を称えている。 近年、化学肥料(化成肥料)から有機肥料を用いる有機栽培農業を重視する動きがあるが、家庭菜園程度ならいざ知らず、農業を営む以上、堆肥、草木を燃やした灰、魚粉、米糠、油粕、家畜の骨粉、糞を熟成させた肥料の使用に頼ったかつての農業では、農作物の大量生産、安定供給、価格安定性などの面から、今更、有機肥料にだけ頼ることはできず、両者の適当な使用が必要であろう。
by dankkochiku
| 2016-03-07 17:37
| 徘徊老人紀行
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Comments(2)
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jj111iii2016 at 2016-04-15 14:50
dankkochikuさん こんにちは〜( ^ω^ )
釜屋堀後から西大島方面に歩いて行くと、右手になぜか崎陽軒のシュウマイ工場があって、そこからいわゆる「女工さん」の一群に出くわしたことがあります。Were come from?と聞いたらベトナム!という明るい声で答えてくれました。 みんな屈託のない笑顔が印象的で、きっと低賃金だろうに楽しそうに手を振ってくれたことを思い出します〜*\(^o^)/* 大島周辺が日本のいわゆる「近代的工業地帯」として肝入りで発展して来たんだな〜と思い、ずっと考えていました。日産コンツェルンは今は悪名高きモンサントの農薬「ラウンドアップ」の総代理店です。その基礎があの澁澤榮一によってこの地に花開いたと思うと、複雑な思いです。 確かにその流れが連綿と続いている中で、六価クロムの問題も含めて、大島地区はずいぶんと酷い目に遭って来たと同時に、集中した新開地の有り様も考えさせられる貴重な記事だったと思います。 今後の日本の行く末を示唆するのはこの大島地区なのではないかと考えています。 少々深いのでなかなか追いつけないのですが、継続して考えるきっかけをいただきありがとうございました〜;^_^A でもあのベトナムから来た二十歳前の女の子たちの笑顔が希望を与えてくれるので、頑張って探求して行きたいと思います〜σ^_^;
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dankkochiku at 2016-04-15 17:05
jj111iii2016さん 戦前、この辺りは東京の一大工業地帯だったとはとても思えない街の変身ぶりですね。大島から毛利の猿江恩賜公園まで探索しましたが、横浜シューマイの崎陽軒工場があるのには気付きませんでした。それにしても地下を都営新宿線が走るこの一帯は江戸から東京の文化がいっぱい詰っているところで魅力ある一帯です。
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