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千駄ヶ谷というと、明治神宮外苑スポーツ施設の町を連想するが、駅のホームには将棋の大山康晴十五世名人直筆の王将の駒があり、その裏に「昔この付近の谷あいから「千駄の稲」が収穫されたところから大田道灌が千駄ヶ谷と名づけた」とある。たしかに、東京体育館は小高い岡の上にあり、国立競技場が見渡せる。そこは水田地帯だったのだろうか。そんな昔をとどめる場所がまだあるかもしれないと胸を弾ませ歩き出す。
駅から東京体育館を左に見ながら南へ行くと、交差点の一角にこんもりと樹木に囲まれた鳩森八幡宮に出る。この神社の名前の由来についてホームページには、「『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。」とある。ただ、もとの社殿、神楽堂は、昭和20年の米軍空襲により焼失し、平成5年に、昔の建物を復元し、まだ新しい。 境内に富士塚がある。寛政元年(1789)に築かれ、都内に現存する最古の富士塚として、東京都の有形民族文化財に指定されている。古くから山を宗教的信仰の対象とした日本人にとって、日本で一番高く、美しい富士山への参詣は、人びとの願いであっても誰でも登りきれる山でないのでミニアチュアでも富士山に登り、山の神霊に触れたいと願ったのだろう。そこで、登ってみると屈折する自然の石段は意外と険しく、山道の途中に池があり、洞窟に石像が安置され、6メートルほどの高さの頂上には御影石の奥宮がある。 また、境内の一隅に六角の将棋堂がある。これは、昭和61年に日本将棋連盟が山形県の駒師に依頼し製作した高さ1.2メートルのケヤキの駒、王将が奉納され、棋士を目指す人たちの守護神として建てられた。堂の壁板には、プロ棋士への願いを込めた「棋力向上」の絵馬がかかっている。余談だが、近年、ほとんどの神社には、参詣の仕方を書いた札や張り紙が目に付く。ここにも絵入りで「二釋二拍一禮」と旧漢字で書かれており、現代人の神社離れはかなり進んでいるようだ。 八幡神社の道の向かいに3階建ての将棋会館ビルがある。2階ガラス窓には「将棋道場」と書かれ、大人も子どもも真剣な面持ちでに対している姿が見える。ふと、一世を風靡した演歌、「王将」,♪吹けば飛ぶような将棋の駒に‥♪ の一節を思い出す。 一昨年の電脳ソフトとプロの棋士との5番戦では、ノートパソコンを駆使しての電脳棋士が3勝1敗1引き分けの成績を出し、昨年の対局では、電脳棋士が賞金100万円を勝ち取ったそうだ。プロの棋士といってもうかうかできない。 ♪何が何でも勝たねばならぬ♪。 鳩森八幡の別当寺の瑞圓寺が近くにあると聞き、将棋会館先の坂を下る。別当寺とは、神仏習合が行われていた江戸時代以前には、神社を管理する寺のことと、スマホで検索して始めて知った。墓地は見えるものの、お寺の入り口が分からず、たまたま犬を連れた女性から、この坂の途中の榎稲荷の石段を上るとお寺の境内でると教えられる。ここは、「榎坂」だという。 「江戸名所 お萬榎 榎稲荷」と石碑が立っている。そこの細い急な石段を上る。戦前、ここに榎の大木があったが、戦災で枯れ、今は、それを知る人もいないようだ。ネットで調べたら、「お萬」は家康の側室で徳川頼宣の母で瑞園寺住職の叔母にあたる女性。ここにあった霊木といわれた榎を度々訪れ、信仰したことから「お萬の榎」と呼ばれるようになったが、江戸の初めに大風で榎の根元から折れ、朽ちた幹の裂け目に雨水が溜まり、そこから左右に2本の芽がでて、枝となって伸び、女性が逆立ちして両足を広げたような形となったが、これを庶民は猥褻視せず、多産、豊穣をもたらす呪術的力をみとめる日本の生殖器崇拝の例としてイギリスの学会にも紹介されたこともあるそうだ。 いまでは、教育上などと理屈をつけて撤去していたろうと、昔の人の心のおおらかさが思い返される。 また、瑞圓寺境内には、享保5年(1720)の珍しい庚申塔が2基ある。庚申塔には、その本尊の青面金剛が天邪鬼を踏みつけた姿が彫られ、普通は、街道沿いや村境に立っているものだが、ここの庚申塔の表面には、戒名や家紋が彫られており、墓標に転用されたと考えられる珍しいものと区教育委員の掲示にあった。(つづく)
by dankkochiku
| 2015-05-02 10:56
| ぶらり、まち歩き
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Comments(2)
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tomahawk_attack
at 2015-05-05 18:49
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医療技術の未熟だった時代、、
人々が信仰に救いを求めていたのは容易に想像付くとこです。取り分け男女の生殖器に至っては、さだめし神秘なる存在と映ったのでありましょう。その想いは私も共有してます。(;’∀’)
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dankkochiku at 2015-05-06 09:40
tomahawk_attack さん 仰るとおり、食と性は生物が行き続けられる源でありながら、性的なものを隠そうとするのは、神社でも寺院でもご本尊の姿を普段は人の目に触れさせないのと同じで心情ではないでしょうか。キリスト教の中でも潔癖なアメリカ清教徒の文明が戦後日本社会を支配するまでは、公共の乗り物の中で母親が誰憚ることなく、授乳する姿は母の愛の象徴でした。
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