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船は、ブラチスラヴァを午後1時半に出港し、100キロほど離れたコマールノ(Komárno)に6時間半ほどかけて行く。 快晴に恵まれ、のんびりとドナウ河を下る。
2時間ほどして、スロバキアとハンガリーの共同出資で出来たカブシコフ水門を通り、午後8時、コマールノの船着場に停泊。 ここは、ドナウ河がスロバキアとハンガリーを分ける国境。 暗くて何も見えなかったが、ここにかかるエルジェーベト橋を渡ると、両国を行き来できる。 観光誌には、この町は、おとぎ話に出てくるような色あざやな中世風建物のある町並みとあったが、生憎、着いたのが夕食後の8時では下船できず、おとなしく寝ることにした。 翌朝6時に出港した船は8時半にハンガリーのエステルゴム(Esztergom)に着く。 外は濃霧で何も見えない。 9時を過ぎても、船着場から20メートルほど先の木々がぼんやりと見える程度。 この季節、日中の気温は10℃以上になるが、一日の寒暖の差が大きく、未明の寒気がドナウ河の水を冷やして霧を発生させるのだ。 今日の目的は、ドナウ河の畔に聳える大聖堂。 ここは、神聖ローマ帝国時代の紀元1世紀に、ハンガリー初代国王イシュトヴァーン1世(I. István)がここで戴冠式を挙げたところ。 彼は、ハンガリーに初めてキリスト教会を建てて国教とし、国を治めた功績でカトリック教の聖人に叙され、大聖堂の前に銅像が立っている。 ただ、現在見る大聖堂は、16-17世紀にオスマントルコ軍によって破壊され、1869年に再建したもの。 この大聖堂は、長さ118メートル、ドームの高さ100メートルのハンガリー最大のカトリック教会だが、この濃霧では、その威容も形無し。 スロバキアとハンガリーの両岸にかかるマーリア ヴァレーリア橋とその一帯の町が一望できる展望台に案内されたものの、文字通りの五里霧中とあってガイド氏も諦め顔。 この大聖堂はエステルゴム・バシリカ(Estergom Basilika)と呼ばれている。 バシリカとは、ローマ教皇によって認められた格の高い教会堂のこととガイド氏が話す。 後で調べたら、ほかにも、礼拝堂の建築様式で、平面が長方形で光取りの窓や画の描いてある円蓋式の丸天井のある形の聖堂という説明もあった。 祭壇に掲げられたミケランジェロ・グレコレティイの 「聖母マリアの被昇天」 は、1枚のキャンバスに描かれたものとしては世界最大の13.5m×6.6mメートルといわれる絵画、そのほか壁画、彫像、パイプオルガンなど、すべてが歴史的重厚さ、荘重さに圧倒される。 大聖堂の壁に音楽家のリストの碑がある。 これは、1856年に大聖堂のこけら落としに リストが 「グランのバジリカ落成のためのミサ・ソレムニス」 を作曲し、ここで演奏したことの記念碑だ。 グラン(Gran)とは、エステルゴムのドイツ語名ということも始めて知った。 このリストの記念碑(上の写真)について、リストの名前がハンガリー語で 「リスト・フェレンツ」 とある。 日本語式に名字、名前の順に書いてあり、日付の書き順も、1856.AUG. 31.と日本語式。 そう言えば、以前、ハンガリー(Hungary)語は、起源的にヨーロッパの言語とは異なり、フィンランド語と同系統であり、フン族(Hun)の言語に発していると教えられことを思い出した。 フン族は、ヴォルガ川東方の遊牧民で、1世紀以前にヨーロッパに移住した一方、中国の北隣に住んでいた匈奴(きょうど)の子孫という学説がある。 もし、これが事実ならば、中国語はフン族の言語の影響を受け、それが日本へ伝わってきたので、ハンガリー語と日本語の間に共通するところがあるのではなかろうか。 11時半にエステルゴムを出た船は、1時にハンガリー北部のヴィシェグラード(Visegrad)に着く。 午前中の濃霧は嘘のようにすっかり上がって青空の晴天だ。 この地には11世紀に城が築かれ、14世紀にハンガリー国王カーロイ一世(Károly 1288-1342)がここに都を移し、ヴィシェグラード城を王宮としたので、この町は、16世紀にオスマントルコ軍によって城が破壊されるまで城下町として栄えたが、いまでは、ドナウ河と並行する国道沿いに民家が点在する小さな村といった感じ。 ここから高さ350メートルのシブリクの丘の上にあるウィシェグラード城の砦跡を望遠にしてみると、すでに沢山の人が登っている。 バスで城跡入口に近くの駐車場は、観光客の車で混み、周囲の出店も人だかり。 近くにはホテルもある。 城跡まで道は整備され、城壁に沿って散歩気分で登れる。 途中の見晴らしの良い場所には、模型のギロチン台が置いてあるが、首を入れる人はいなかった。 砦内に入る木製の急階段を上って入ると、内部を改装した一寸した武器博物館があり、往時の城の全景、見取図、説明板、甲冑姿に武器を手にした蝋人形、軍旗などのほか、当時の人々の生活の様子や動物のはく製まで展示されている。 砦の直ぐ下の広場には、たくさんの観光客がドナウ河を見下ろしている。 東西に流れてきたドナウ河がヴィシェグラードでほぼ直角に南へ折れ、ブダペストの方へ流れる、「ドナウの曲り角」 とか 「ドナウの膝」 とかと呼ばれる場所に見入る人たちだ。 あまり大勢の人が群がり、かき分けて前に出るのに気が引け、砦の上からシャッターを切るにとどめたが、ここに砦を築いたというのは、このような河の要所を監視するためだったに違いない(上の写真)。 肝心の 「ドナウの曲がり角」 光景の方は、あまりよく撮れなかったので割愛する。 砦跡から下り、国道脇の王宮跡を見る。 750年前に建てられた石造りの王宮は、ハプスブルグ家のヨーゼフ一世により破壊された後、その場所が分からなくなっていたが、1934年に、ここに農夫がワイン蔵を作っている時、偶然に発見し、発掘された遺跡で、現在も、発掘調査作業は続いている。 その一角に王宮を復元した王宮博物館があるが、私たちが訪れた時は、生憎、休館中で人影はなく、柵の外から見て帰った。 砦と王宮は、11世紀から16世紀にかけて建てられ、外敵の侵攻や国内の権力闘争に明け暮れしていた中世の戦乱時代が想像される。 当時、日本では平安、室町時代。 矢張り内戦に明け暮れしていた。「夏草やつわものどもが夢のあと」。
by dankkochiku
| 2012-12-25 11:57
| ぶらり、まち歩き
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Comments(4)
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yamanteg at 2012-12-25 19:28
世界最大の13.5m×6.6mメートルといわれる絵画・・・・・・・・・
さぞかし威容だったことでしょう。 ドナウ河を見下す広場・・・・・ ⇒宮本輝の長編小説「ドナウの旅人」を思い出しました。 ドナウ川に沿って西ドイツからルーマニアまでの3,000kmを旅する雄大なフィクションでした。
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dankkochiku at 2012-12-26 09:59
外国を舞台に、長編小説では、歴史から、言葉の問題まで取材に時間が相当かかったことでしょう。
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desire_san at 2012-12-30 13:43
こんには。
ドナウ河クルーズはいつか行ってみたいという夢を持っていたので、旅行記を楽しく拝見しています。 エステルゴム・バシリカと呼ばれる大聖堂の中は素晴らしいですね。 「聖母マリアの被昇天」 は見たら釘付けになるほど感動的な絵画のようですね。 すばらしい旅をされていいて羨ましいですね。 私は大河ドラマ・平清盛の舞台となった厳島神舎の写真を載せました。ご感想などコメントをいただけるとうれしいです。
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dankkochiku at 2012-12-31 08:03
desire_san さん いつもご覧頂いているとのことありがとうございます。 安いデジカメでの下手な映りように、自分ながら呆れながら、私なりの主観で書いています。 どうぞ良いお年を。
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