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前に品川を訪れたときは(09年5月12日)、駅東口前にそそり立つ超高層ビル群に、ただ圧倒されながらビルの谷間(そこは品川区でなく港区だった)を通り抜け、やっと広い空が見える北品川と東品川の間の旧東海道にでた。 しかし、「ようこそ品川宿へ」 と観光客を呼び込もうとする地元商店街の意気込みを感じながらも、なにか物足りず、天保大飢饉で農村からここにたどり着いた多数の流浪者の餓死者を葬った法禅寺の 「流民叢塚」 以外、品川の歴史を知る史跡と出会えなかった。 そこで今回は、改めて、目黒川対岸の南品川に多い仏教寺院を訪ね、品川の史跡探しに出かけた。
日蓮宗とキリシタンとは、加藤清正と小西行長の両大名の時代から、犬猿の仲だったのだろうか、目黒川岸通りの日蓮宗・海徳寺境内にキリシタン禁令札が立っている。 あるいは、ここは、他宗信徒からの布施は受けないし、他宗徒には供養もしないという日蓮宗一派の原理主義、不受不施を信奉する寺院だったのだろうか。 それにしても、明治新政府(慶応4年)になってからもこのような 「定」 が出されたのは何故だろうか。 生憎、事務所には来客がいて、その由来を伺えなかった。 海徳寺から近い妙蓮寺には、丸橋忠弥が、由比正雪らと共謀し、江戸、大阪、京都で蜂起し、天皇制樹立を目的に幕府転覆を計画した慶安事件(1651年)が露見し、品川の鈴ケ森の磔台で最初に処刑された忠弥の首塚がある。 前に、目白の金乗院にある忠弥の墓を訪れた時も書いたが、このクーデター事件に賛同する大勢の民衆が、この反骨者へ密かに供養し続けてきたのだろう。 それぞれの訪問記については、08年12月25日と今年10月1日に載せた。 品川で最も悲惨な歴史を物語っているのが、永仁6年(1298)創建とされられる時宗・海蔵寺にある史跡だ。 山門にある 「江戸時代無縁並首塚 関東大震災殃(横)死者塚」 の石碑から窺えるように、この寺院は品川の 「投げ込み寺」 と呼ばれているほど多くの横死者、引き取り手のない死者の墓と塚がある。 入口近くには、大正4年に建てた鉄道事故死者を祀る 「京浜鉄道轢死者之墓」、大正12年の関東大震災で品川海岸に流れ着いた数十の遺体を埋葬しその上に建てた釈迦如来像、慶応元年(1865)に建てた 「津波溺死者供養塔」 のほか天保の大飢饉(1833~40頃)の折、地方農村から品川にたどりついたものの死亡した流民891人のうち、前に訪れた北品川の法禅寺が約500人、それほかの死者をここに埋葬した。 これらさまざまの横死者を合葬した供養塔が 「無縁供養群」(上の写真)で、墓誌には、元禄時代に獄死した多くの罪人、江戸時代に鈴ケ森で処刑された罪人、品川宿で死んだ無縁の遊女たち、品川京浜電鉄轢死者、品川海岸溺死者、行路病死者、関東大震災横死者、そのた無縁の死者を弔う供養塚とある。 海蔵寺に近い天龍寺の境内には、かなり風化した小さな 「碑文谷踏切責任地蔵尊」 が立っている。 これは、大正7年(1918)5月、ここから近い品川碑文谷踏切で、開いていた踏み切り竿の脇を渡り始めた人力車が貨物列車にはねられ、車夫は難をまぬかれたが客2人が死亡した鉄道事故だ。 事故当時、その番小屋で勤務していた2人の踏切番(一人が立番中、一人は仮眠中)の一人がうたた寝をしたのが原因だった。 責任を感じた2人は、事故直後に鉄路に伏して自殺した。 この事件を供養して建てた地蔵尊である。 この事件を機に、一昼夜勤務という踏切番人の過重な勤務体制が社会問題化した。 労働者の人権や福祉に配慮する労働基準法など夢の存在でしかなかった時代の不幸な事件だった。
by dankkochiku
| 2011-12-15 13:32
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
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tomahawk_attack
at 2011-12-16 20:30
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清正公というと、私の場合は、目黒通りと一国の合流するところの交差点名を直ぐに思い出してしまいます。。
その交差点も、確か「清正公」という名の交差点名でありました。。 どうも、近くにある覚林寺というお寺さんが清正公所縁のお寺さんということらしく、清正公のお位牌や像が安置されているといいます。。 どうも・・・目黒川といいますか、今の目黒通り界隈というのは、清正公を偲ぶ遺跡が多いですねぇ。この近くに、昔、お屋敷でもあったのでしょうか・・・ まっ、それは兎も角として・・・品川という地は、今より遥かに内陸に入江が走っていたのが分かってますし、それ故、色んな悲劇の舞台として登場してくる土地柄のようであります。。 今では至る所にタワーマンションの立ち並ぶこの界隈でありますが、決してサンマだけの地ではないんですね。。^^ ちなみに、品川から、白金、高輪と、やたらお寺さんが点在しておりますが・・・そうしたセイもあるのでしょうか・・・なんともはや、う~むでありますね。。。\_(-_- 彡
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cocomerita at 2011-12-16 22:12
Ciao dankkochikuさん
東品川は私が小学校まで過ごした思いで深い場所です 品川区立文化センターを大崎の方に行くと、たくあん和尚さんで有名な東海禅寺があって、その向かいの線路沿いのお寺には和尚さんのお墓があります 私は東海禅寺もだけど、彼のお墓が大好きです 一度行ってみてください
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dankkochiku at 2011-12-17 10:54
tomahawk_attack さん ご紹介ありがとうございます。私の生活圏からは、品川、港区は、山手線では180度の位置にあって、殆ど未知の地です。ご紹介の覚林寺も地図を辿って見つけました。泉岳寺に近いのですね。前から、都営高輪アパート敷地内に大石良雄らの忠烈碑や魚籃寺の観音菩薩に関心がありましたので、併せて訪問の機会を狙っています。
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dankkochiku at 2011-12-17 11:10
Ciao cocomerita さん お知らせ有難うございます。東海禅寺って、天龍寺に近く、目黒川の川向こうにあるのをホームページで確認しました。 どこのお寺にもその地域の歴史を知る手がかりが多くあり、信心もないのに寺巡りをしています。 良い場所があればまた、どうぞお願いします。
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cocomerita at 2011-12-17 19:33
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dankkochiku at 2011-12-18 11:03
Ciao cocomerita さん 以前は、「oo家之墓」が普通でしたが、近年は、墓も核家族化が進み、個人名のものや、「和」 「心」 「優」 「真」 など個人の遺志表明型の墓標が目を引きます。
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desire_san at 2011-12-27 13:09
こんにちは。
品川に流浪者、餓死者を葬った法禅寺の 「流民叢塚」があるのは初めて知りました。いろいろな歴史の中で、多くの人の魂がこもっている場所なんですね。 私も一度訪れてみようと思います。ご紹介いただきありがとうございました。 私はトルコのカッパドキアの2回目として、カッパドキアのいろいろな特色ある風景の写真と現地の人から聞いたカッパドキアの人々の生活の話をブログに載せました。ぜひご覧になってください。 ブログに何でも結構ですのでコメントを頂けるとうれしいです。
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dankkochiku at 2011-12-30 20:33
desire_san さん 古くからの寺院の墓石には、その当時の文化、歴史を知る手がかりになるような文字、文章が彫られていますが、長年の雨ざらしで風化し、何も判読できないものがあるのは残念です。
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