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地図を見ているうちに、どうしても行きたくなるような歴史的な地名の場所がある。 権之助坂(ごんのすけざか)、行人坂(ぎょうにんざか)がその例だ。 目黒駅西口を出ると、駅前の三井住友銀行ビルを挟んで、道は右側の 「権之助坂」 と、左側の 「行人坂」 の方向に分かれる。 いずれも目黒川に向かう下り坂の始まりだが、江戸時代、この辺りは、農地で見晴らしがよく、目黒不動尊への人で賑わう富士見茶屋があり、夕日の丘といわれた高台だった。 権之助坂の由来は、目黒区ホームページによると、江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がおり、村人のために、年貢米の取り立てを緩めてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。 なんとか助けてほしいという村人の願いも空しく、刑に処せられることになり、馬の背の上で縛られ刑場へ向かう途中、最後に村を振り返ったこの坂を村民たちが権之助坂と呼ぶようになった、とある。 また、一説には、その当時、行人坂は、江戸市中と目黒を結ぶ主要道路だったが、あまりに急な坂で、通行人の難儀する姿を見るに忍びず、権之助が許可なく新しい坂を切り開いたので刑に処せられたが、村人は、彼の功績をたたえて、新坂を権之助坂と呼ぶようになったという話もある。 明治時代に鉄道が敷かれ、目黒駅ができると、権之助坂のある目黒通りの方が主要道路になり、行人坂は、脇道になった。 行人坂は、昔、行人(修行僧)がよく行き来した坂道に因んで名付けられた道で、現在も、歩行者が多く通る、樹木生い茂る閑静な道だが、平均勾配15.5%の急な坂道で、そこを下ると結婚式場・ホテルの目黒雅叙園の脇を通り、目黒川に架かる太鼓橋へ通じる。 この坂の途中に大円(圓)寺がある。 この寺は、元和年間(1615~1624)に山形・湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まる寺院だが、そのことよりも二つの江戸の大火にまつわる話の方が知られている。 一つは、天和2年(1682年)12月28日の天和の大火で焼け出された八百屋お七が避難先の駒込の円林寺で知り合い、恋仲となった寺の小姓、吉三(吉三郎)と会いたさから自宅に放火し、鈴が森で火焙りの刑に処せられた話だが、相手の吉三の方はその後、どうなったのだろうか。 井原西鶴の 「好色五人女」 の巻4 「恋草からげし八百屋物語」 では、吉三は、お七の母から遺言を伝え聞き、自殺を思いとどまり出家する筋書きだが、出家したのは史実である。 大円寺の説明板には、お七が処刑された後、吉三は僧、「西運」 と名を改め、諸国を行脚し、大円寺の坂下の雅叙園の場所にあって、その後、大円寺と一つになった明光院に入った。 そして、お七の菩提を弔うために往復10里(約40キロ)の浅草観音に鉦を叩きながら念仏を唱え、1万日の行を27年5か月かけて成し遂げ、お七地蔵尊を建て、また、市民からの喜捨をもとに、元禄16年(1703)、行人坂を敷石の道にして、江戸・目黒の寺社間の参詣路の改修に尽くしたほか、石造りの太鼓橋を架けるのに貢献した。 境内には、お七地蔵尊と橋桁の石が記念碑とともに置いてある。 もう一つの江戸大火にまつわる話は、明和9年(1772)2月29日正午頃、大円寺が火元とされる火事が春先の南西風に煽られ、江戸北部の千住に至るまで帯状に延焼し、死者14700人、行方不明者4060人、焼失した町904と言われる江戸3大火の一つ明和の大火である。 出火の原因は放火で、犯人は真秀といい、大円寺に盗みに入り放火したが、火の廻りが速かったために何もとらず逃走したものの、結局捕らえられ、その年の6月21日に処刑されたという。 そこで、大円寺は焼死者の供養として天明年間(1781~89)に五百羅漢(524体)を境内に建立した。 この石仏群は、東京都の重要文化財に指定されているが、以前、仏様は拝んで頂くためで単なる被写物象ではない、と、五百羅漢の前に 「撮影謝止」 の立て札があったとのことだが、当時の硬骨和尚さんはご健在だろうか。 このほか、大円寺には、国の重要文化財に指定されている鎌倉時代の 「生身の釈迦如来立像」、目黒区重要文化財指定の藤原時代の 「十一面観音像」 のほか、指定重要文化財が豊富にある。
by dankkochiku
| 2010-02-11 16:31
| ぶらり、まち歩き
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Comments(11)
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tomahawk_attack at 2010-02-12 23:11
目黒は山ですよね。もう大分前になりますが、山手通りと目黒通りが交わる交差点。大鳥神社のあるところです。。
その日は何時になく大雪が降ってましてね。低い山手通り側から、目黒駅方面へ向かう目黒通りにおいて、坂で多くの車がスタッグしてました。。 あそこは坂ばかりですよね。しかも狭い坂が多い。一つ一つの坂の名前まで知りませんでした。。 車で行く際は殆ど通過していました。電車だと・・目黒線(以前の目蒲線)を良く利用したものです。あそこには昔から東急ストアがあるんですが・・目黒線の起点に有りながら・・今一つ儲かっているのか?いないのか良く分かんない店ですね。。 昔はサンマで名を売り、その後は・・雅叙園で知られるようになった目黒です。。 小和田雅子さんのご実家もこちらですし、都内における一等地には違いないと思いますが・・どうも?他の地域と比べると・・今一つのポテンシャルのなさを感じます。これといった“売り”がないんですよね。。
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tomahawk_attack at 2010-02-12 23:14
まっ、それにしても大円寺の五百羅漢さま。ここの羅漢さまも、きっと一つとして同じ姿勢のはないのではないでしょうか・・・
自分に似た顔立ちの羅漢さまや、いま自分が悩んでることに答えてくれそうな羅漢さまなど・・色々な発見が出来そうで、私も行ってみたくなりました。。\_(-_- 彡
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cocomerita at 2010-02-13 00:47
CIao dankkochikuさん
権之助さん、いずれにしてもご立派! この界隈私には結構なじみが深いのですが、こういう深いお話は全く知りませんでした。 ありがとう、dankkochikuさん 大円寺一度行ってみたいです。 確かあだしの念仏寺も撮影禁止になってしまったとか、、?
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dankkochiku at 2010-02-13 10:56
tomahawk_attack さん 港区、文京区ほどではないにしろ、谷間の目黒川を挟んで急な上り坂、下り坂が多い所ですね。昭和50年代半ば、高台の東山にいた頃、大雨で目黒川が氾濫し、流域の地下バーなど浸水騒ぎがありました。次回は大鳥神社あたりを探訪予定です、どうぞお楽しみを‥。
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dankkochiku at 2010-02-13 11:08
Ciao cocomerita さん 生まれも育ちも東京人なのに東京知らずを感じることしばしばです。目黒では、柿の木坂以外行ったことがありませんが、半兵衛坂、なべころ坂など行ってみたい坂がまだまだありそうです。江戸幕府265年間が残した由緒ある文化跡があちこちにあり、興味津津です。
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dankkochiku at 2010-02-15 20:56
昭和55年頃、東山にいましたが,東京の中心地に住むのは初めてで物珍しさから自転車で走り回り、碑文谷から柿の木坂に入りました。柿の木の街路樹のある坂かと思っていたので、見込み違い。目黒区は23区内では狭い方なのに、細長いので随分、広い区かと誤解していました。
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igu-kun at 2010-02-16 23:21
この辺りは高低差があって、地形を感じながらの散策は本当に楽しいですね。
坂の名前も味わい深く、その謂われも興味深く拝見しました。
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dankkochiku at 2010-02-17 10:59
igu-kun さん コメント有難うございます。 目黒区は、港区、文京区ほどではありませんが、目黒台地と言われる所だけあって、坂道が40近くあり、そのうちでも目黒、下目黒地区が最も多いようです。
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yamanteg at 2010-02-17 20:37
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dankkochiku at 2010-02-18 11:10
火事と喧嘩は江戸の華と、火事見物の野次馬たちが茶化した江戸の火災は、江戸幕府267年間の記録だけでも1800件近く発生しています。 特に、冬と春先の空っ風の時期に、安普請の民家の密集地帯から出火すれば、消防といっても、周辺の家屋を取り壊し、延焼を防止するくらいでしたから、失火、放火が大火になる条件がそろっていたのでしょう。
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