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小日向台でも高台にある切支丹屋敷跡を神田川に向かって荒木坂を下りると通称、水道通り(正式には、巻石通り)に出る。 この通りは、明治の初めに暗渠化されるまでここに神田川上水が流れていたので、「通称」 とはいうものの、水道通りの方が通じやすい。 この通りを境に小日向町と水道町に分かれ、水道町には水道端図書館もある。ちなみに 「巻石通り」 のいわれは、旧神田上水路に石を巻(撒)いて暗渠にしたところから名付けられた。 この通りには、崖を背にした寺が10軒近く集まっている。 その一軒に漱石の 「坊っちゃん」 に出てくる 「養源寺」 こと浄土真宗・本法寺がある。 「坊っちゃん」 の最終ページを開こう。 先の当てもなく四国の中学校から東京へ戻ってきた正義漢の坊っちゃんが真っ先に会いに行った先は、溺愛してくれた老いた下女の清。 その清は、「気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。 死ぬ前日におれを呼んで坊っちゃん後生だから、清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。 お墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみにして待っておりますと云った。 だから清の墓は小日向の養源寺にある。」 で終わっている。 本法寺の本堂裏に広がる墓地の急な石段を40段以上も上った一番上の墓地に古くて小さい 「夏目墓」 がある。 ここが漱石の菩提寺。 漱石の親は、江戸代々の町名主だったが、明治維新の政変で家計が傾き、第5子の漱石は、生後すぐ四谷の古道具屋に里子に出され、その後も養父母、実父母の間を転々と行き来し、夏目の姓に戻ったのは成人後。 こうした幼少期の不遇な生い立ちが終生、漱石の人柄や作品に付きまとっていた。 本法寺の墓には母、長兄、次兄は葬られているが、漱石の墓は、ここにはなく豊島区雑司ヶ谷墓地にある。 文豪に相応しい墓としてその場所が選ばれたのだろうか(下の写真)。 本法寺の隣の曹洞宗・日輪寺には、劇作家、真山青果の墓があるが、それよりも知られているのは 「甘酒婆地蔵」。 青森県や宮城県の民間伝承による甘酒婆は、夜中に 「甘酒はござらんか?」 と民家を訪ね歩く老婆の声に応えて、甘酒があるともないとものいずれの返事をしても病気になるという恐ろしい妖怪で、その来訪を防ぐには戸口に杉の葉を吊るすといいと信じられていたそうだ。 ところが、この日輪寺の方の甘酒婆は、話が違う。 むかし日輪寺の門前で、ひどい咳に悩まされながら甘酒を売っていた老婆が、自分が死んだ後、咳の神になって同じ病気の子供たちを救うと言い残して死んだという。 そこで咳に悩む人は、この地蔵に甘酒を入れた竹筒や徳利を供えて願をかけると、霊験があるとされ、江戸時代、百日咳が流行した折には大勢の人が願掛けに集まり、そのお礼参りの際には皆が甘酒を供えたので、日輪寺の境内は甘酒の香に包まれていたそうだ。 かつて、百日咳は幼い子どもにとって命取り病のように恐れられたが、ワクチン接種の普及とともにその行事も廃れ、今では、「甘酒婆地蔵尊」 とある茶碗が置かれているだけだ。 日輪寺を出て巻石通りを音羽通に向かって少し行くと道路わきに 「黒田小学校跡地」 と文京区教育委員会の掲示版が立っている。 黒田小学校は、明治11年(1878)、ここに住んでいた福岡藩主の黒田長知が明治維新の功労によって政府からの賜米を東京府に献納し、この地に学校設立を請願して建てられ、「黒田学校」 と名付けた木造南北2棟、8教室の小学校で、永井荷風、黒澤明、松平恒雄(宮内大臣)などの卒業生をだした名門校。 昭和20年の空襲で全焼した後、24年に新制区立第五中学校となり現在地にあった。 あった、と過去形でいうのは、今年度から第七中学と統合して、700mほど先の新校舎に移転し、校名も音羽中学と変ったからだ。 現在、無人の第五中学の校舎には、電気時計だけが時を告げていた(上の写真)。 少子化の波が由緒ある学校を歴史から消してしまった。
by dankkochiku
| 2009-11-15 20:18
| ぶらり、まち歩き
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Comments(4)
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tomahawk_attack
at 2009-11-16 10:07
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甘酒婆・・・その昔、東北では、その屋に病をもたらす恐ろしい妖怪として知られていました。寒い地方では小さな風邪でも死に至る人が多く出たとされています。「戸口に杉の葉を吊るす」と良いとされていたようですが、杉の葉はチクチクするので「妖怪も嫌うんじゃないか」との・・単純発想から生まれたものと推察されます。節分の日に、玄関に鰯の頭を付けたヒイラギの葉っぱを飾りますが、あれと似たような感覚ではないでしょうか。江戸期には、流行り病を防ぎたいとの理由で、戸口に「久松留守」の張り紙をする風習がありましたが、いずれも病を恐れるがあまりの庶民信仰の一つではなかったのかと感じました。それが何処でどうすり替わったのか?・・こちらでは有りがたいお婆さんへの信仰になっています。恐れが極まった時に起きるとされる「ヘルシンキ・シンドローム」の可能性も感じました。いずれにしても、人々の病を救ってくださるのは有りがたいことですし、感謝申し上げたいと思います。願わくば新型インフルエンザも抑えてくださると・・・有り難いところです。。。\_(-_- 彡
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dankkochiku at 2009-11-16 17:16
昔は、苦しい時の神頼みがかなり現実的に考えらていたようですが、、科学の進んだ現代でも、怪しげな宗教に引っかかる人は一向に減らないようです。 理工系のエリートたちがマインドコントロールされ犯罪を正当化したのはその例でしょう。
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igu-kun at 2009-11-18 00:53
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dankkochiku at 2009-11-18 13:58
江戸時代からの神社仏閣には、民間伝承、民俗信仰の痕跡があり、明治以後になると、忠魂碑などきな臭いものが増えてきます。
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