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新宿は、日本一といわれる繁華街だが、同時に、東京一の歓楽街でもある。 その歴史は、遠く江戸時代に遡る。 徳川家康が江戸に入城した翌年の天正19年(1591 )、高遠藩、3万石の譜代、内藤清成の功績に対して、馬を走らせて回れるだけの土地として、南は千駄ヶ谷、北は大久保までの広大な土地を与えた。 その後、内藤家の中屋敷だった現在の新宿御苑前の甲州街道(現在の新宿通り)筋に次第に町屋ができ、内藤宿と呼ばれるようになった。 その後、100年以上も経った元禄11年(1698)、浅草の名主、高松喜兵衛や町人たちは、吉原遊廓の繁栄ぶりを見て、利益を目論み、日本橋から最初の宿場、高井戸まで行くのに15キロ以上もあっては、旅人に不便と口実を設け、幕府に5600両もの上納金を出して、新しく宿場を作り、岡場所(非公認の売春宿)を開き、新しい宿場を内藤新宿と名付けたのがそもそも新宿の名と町の発達の始まり。 ただ、新宿の娼家は、吉原と違い公認の遊廓ではなく、遊女を置くことが許されなかった。 そこで楼主たちは一計を案じ、遊女たちを旅籠屋の宿泊客の 「足洗い女」、給仕をする 「飯盛り女」 の名のもとに、女衒(人買い)が各地の貧農から集めてきた十歳にも満たない娘たちを娼家のあるじのもとで性の奴隷に仕上げ、過酷な勤めを強い、病気になれば放置し、死亡すれば衣装を剥ぎ取り、合葬場所と定めた投げ込み寺、成覚寺(新宿2丁目)へと運んだ(下の写真)。 成覚寺には、万延元年(1860)に旅籠屋一同で建てた 「子供合埋碑」 がある(上の写真)。 当時、子供と呼んでいた飯盛女たちの共同墓地で、その前に立つと、宿場町繁栄の蔭で悲惨な末路をたどった年若い女たちの呻く声や姿を彷彿とさせる。 明和9年(1772)から明治26年3月(1893)までにこの寺に投げ込まれた遊女たちは、2千人とも3千人ともいわれ、そのうち、遊女ひとりのみの墓は23基に過ぎない( 「内藤新宿娼妓招魂碑 内藤新宿貸座敷五十九軒」 碑)。 また、一隅には 「旭地蔵」 が立っている(上の写真)。 これは、ここの宿場で不慮の死を遂げた旅人のほか、遊女と客との叶わぬ恋の果てに心中した男女の墓への供養地蔵で、またの名を 「夜泣き地蔵」 といわれている。 大正時代に入り、天皇、皇族が新宿御苑に立ち寄られることやその前を走る市電から遊女屋が見えることが問題になり、甲州街道(現在の新宿通り)北側の奥(新宿2丁目)へ移り、戦後には、をさらに北西へと中心を歌舞伎町へ移動したが、新宿の歓楽街は、江戸の昔から、時勢に合わせ、商売の形を変え、呼び名を変えながら衰えることなく現在もあくどく儲けている。
by dankkochiku
| 2009-07-03 20:44
| ぶらり、まち歩き
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Comments(2)
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tomahawk_attack
at 2009-07-03 22:24
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dankkochiku さんの吉原の記事の時にも有りましたが、女性蔑視が酷かった時代の悲劇ですね。。
この時代、こうした話は各地にあったように思います。その意味で、赤線の廃止に尽力された市川房江議員の功績は、改めて考えても偉大の一言ですね。。 迫害を受けた女性の魂が、少しでも癒されることを、切にお祈りしたいと思います。。
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dankkochiku at 2009-07-04 21:19
遊廓について日本独特の文化と美化する人がいますが、その人たちはよほど、美味い汁を吸った人ではないかと、その感覚を疑います。
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