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皇居、大手濠前の内堀通りに立ち並ぶ高層ビルのオフィス街一角に、大樹に囲まれ、さして広くない場所(50坪ほどか)に平安時代半ばの関東の武将、平将門の首塚がある。
将門は、時の政府軍と戦い、関東一円を制覇し、京都の朝廷に対抗し、自らを新皇と称したため、逆賊として討たれた天慶の乱(940年)の張本人である。 その首塚が、地価1平米当たり1千万円以上もする都内でも最も高いこの地域に祀られているのは、何とも場違いの感じがするが、その昔から現代にいたる数々の将門の祟り伝説に現代人も打ち消し難い怖れから、これを許しているからではなかろうか。 将門の首塚保存会の掲示板によると、首塚の由来は、将門の首が京都の大路に晒された3日後に白光を放ち、東方へ飛び去り、この場所に落ちた後、大地が鳴動し、太陽は光を失い、暗夜が続き、怖れおののいた村民が塚を築き、霊を供養したことに始まるとある。 その後もときどき現れる将門の祟りを鎮めるため、徳治2年(1307)には、遊行真教上人が将門に 「蓮阿弥陀佛」 の法号を贈った石碑が建っている(現在の石碑は、幾度か建て替えられたもの)。 そのほか、江戸時代に、将門の首を確かめるため首桶(関東大震災で焼失)を開けた僧の目が潰れたという伝説もある。 時代が下って明治2年、将門の首塚が祀られていた大名屋敷跡に大蔵省が建ち、首塚もその敷地内に引き継がれ、39年には、阪谷芳郎大蔵大臣が、故跡保存碑を建立し、史跡保存の要を告示している。 だが、将門を巡る怪奇物語は、その後も止まない。 大正12年の関東大震災で大蔵省庁舎が全焼し、仮庁舎の建設計画に当たって、首塚の石室を発掘し、内部を確かめたところ、土に混り瓦や陶器の破片だけだったので、礎石の石灯籠と補修した石碑を残して首塚を取り壊し、翌年から仮庁舎で事務をとり始めたところ、その数年後、大蔵大臣ほか14名の職員の病気、怪我による死亡が続き、将門の祟りと慌てて首塚を元の状態に復旧し、その後、事なきを得たという(財務省総合政策研究所主任調査官、寺井純一 「財務省今昔物語」)。 ところが、昭和15年(1940)、今度は、激しい落雷で隣接の逓信省庁舎から出火し、大蔵省にも燃え移って全焼したが、この年がたまたま将門没後一千年目に当たっていたことから、将門祟り説が再浮上し、大蔵大臣列席のもと将門鎮魂祭が行われている。 更に、戦後の昭和20年9月、占領軍に大蔵省庁舎が接収され、駐車場建設に、首塚を地ならし中、ブルトーザー運転手が墓石のようなものの前で突然転落死する事故を機に、造成工事を中止し、塚は、無事、残されることになったという。 このほかにも、首塚の写真をとると祟りがある、周囲の事務所では塚に尻を向けて座ると祟りがある、爆笑問題の大田光が首塚を足蹴にした後、仕事がしばらく入ってこなくなった等など、根も葉もない噂が今も伝ってくる。 現在、将門は、神田明神の祭神として祀られ、神輿も将門塚も隣接する三井物産内の保存会本部の手で守られ、塚には、年じゅう生花が供えられ、参拝者が絶えない。 石碑の後ろにある石灯籠は、真教上人が塚を建てた当時のままのものという。 また塚の左右にある4匹の蛙の石造は、将門の娘、瀧夜又姫がガマの妖術を使ったいわれから置かれたものだそうだ。 今後とも、この塚が粗末に扱われると将門にまつわる新手のミステリー話が出てきそうだ。 何とも人騒がせな神様だ。
by dankkochiku
| 2009-06-21 21:15
| ぶらり、まち歩き
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Comments(8)
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marquetry at 2009-06-22 20:26
平の将門にまつわる祟りって、いっぱい有るんですね...。
娘までガマの妖術使いなんて言われて...よっぽど、将門が死んだ事に関わった多くの人達に、強い罪悪感が有ったのでしょうかね?それも、千年もつづくと祭神ですか...。日本人は、感謝だけじゃなく、恐怖心からも神を作り出してしまうんですね。 なんだか、臭いものに蓋...と似ている様な気がしますが、あっぱれですね..。 ところで、一等地の税金は誰が払っているんでしょう?子孫が払っているなら、それも大変ですね...それこそ、一種の祟りのようなきがするわ...。
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dankkochiku at 2009-06-22 23:40
多くの日本人が信仰する、八百万の神。 フィクションと思いながらも、祈祷もする、熱心過ぎると周囲から敬遠される。 一神教徒たちにとっては理解不能な宗教文化に生活しています。 宗教は、人生の節々でのスパイスのように感じているようです。
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tomahawk_attack
at 2009-06-23 16:04
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平将門も源義経も、おのおの、互いの立場や、境遇そのものは異なりますが、共に朝廷に尽くし、そして利用され、味方からも裏切りに遭うという悲運さが共通しています。そうした不遇な生涯には、おそらく当時の世論からも多くの同情が寄せられていたと考えられ、その生き様を「真の武士」の姿として捉える風潮もあったように思われます。後にそれらは、歌舞伎や芝居などの題材として様々にアレンジされ、今日に繋がる逸話としての原点が出来上がったのでしょう。。
それにしても、三井物産が日本・イラン石油化学合弁事業から撤退し、当時、莫大な損害を負ったにも拘わらず、何とか無事に立ち直ることが出来たのも、一重に、将門公のお墓を大切にして来たことに対する「御利益」であったとも受け取れますし、毎年のお引っ越しが話題になったカルガモたちでが、お堀へ何時も無事に渡り切ることが出来たのも?・・陰ながら見守り続けてくれている?将門公の助けが有ったからとも考えられ、今以て、そのご意向は光り輝き続けているように感じられます。。。\_(-_- 彡
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dankkochiku at 2009-06-23 21:54
朝廷の威光をかさにきて関東一帯の人民へ圧政を加え、収奪を繰り返してきた藤原政治への将門の反乱が、朝敵の汚名を蒙りながらも、民衆からは支持、慕われ、それを権力者側が抑えようとすると、祟りという伝説を作リ出して、権力者たちももつ心の弱みを突くという、権力者側と民衆側とのせめぎ合いの構図でしょうか。
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yamanteg at 2009-06-24 19:54
首塚の写真をとると祟りがある・・・・・・・・
万一写真を撮った暁には、お賽銭をタンマリあげることにします。 将門の碑はあちこちにありますね。 柏にも将門神社があります。 祟りを恐れて?立ち寄ったことがありません。 いずれ、お賽銭をタンマリ用意して参拝してみようと思います。
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dankkochiku at 2009-06-24 21:47
上の写真に対しては、幸い、祟りがないようで、‥‥。 どうも日本人は写真撮影にアレルギー反応を起こしやすいのか、例えば、本場、パリのルーブル美術館では、誰もが自由に撮影しているのに、上野の美術館でのルーブル展では撮影禁止でした。
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tomahawk_attack
at 2009-06-25 19:16
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>本場、パリのルーブル美術館では、誰もが自由に撮影しているのに、上野の美術館でのルーブル展では撮影禁止でした。・・・・以前、ニュースにもなりましたが、海外はマナー感覚の点で、日本とは随分違うようですね。。
イタリアの世界遺産に落書きした京都の大学生が、ネットで激しく非難され、謝罪を込めて、ワザワザ消しに出向きました。。 当の相手の方はと言うと、まるで怒るでもなく、何処の国の観光客も、みんなやってることと恐縮した表情。その温度差に、学生たちも拍子抜けしたに違いありません。。 日本人は律義なんですよ。一心太助じゃないですが、昔から曲がったことが嫌いな民族で、一本義なところが、とても誇らしく感じられます。。。
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dankkochiku at 2009-06-25 21:59
カメラ王国でありながら日本人の写真撮影へのアレルギーは、まだまだありますよ。 大した数の資料もないのに有料の上野東照宮の資料館?も撮影禁止、靖国神社も拝殿前では撮影禁止など、どうも撮影されると魂が抜き取られるとでも信じているらしい。 フラッシュで他人が迷惑する、著作権侵害といった合理的理由なら分かるのですが‥‥。
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