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哲学とは、ドンブリものと同じではないかと、思ったことがある。 哲学だけでは内容が分からず、人生、政治、法、経営、あるいは誰々の、などを頭につけないと様にならない。 食堂でドンブリものといえば、天ぷら、カツレツ、ウナギ、牛、卵などが付き物で、ドンブリものとだけ注文しても店員は何を出していいか分からないのと同じだ。
そんな考えの持主が、これまで幾度もバスで素通りしていた哲学堂公園を訪れる気になったのは、仏教哲学者であり教育家でもある井上圓了(1858~1919)博士が明治37年に小石川区原町(現・文京区白山)に哲学館大学(現・東洋大学)を創設した記念に、精神修養の場として、中野に公園を開いた博士のユニークな思想に好奇心が刺激されたからだ。 博士の著書は、現在も、全集になって発行され、一部はインターネットでも読むことができるが、発刊当時、日本は、まだ文明開化の荒波の中で欧米崇拝の風潮と、その反面、前時代から引きずってきたカルト信仰が広がっていた時代で、これに対する博士の反対論は、いささか過激だが面白い。 「漢字万歳 漢学万歳 漢字漢学万々歳」 の言葉で終わる 「漢字不可廃論 -国字改良論駁撃」(1900年)は、国民教育普及のため学習に時間のかかる漢字、漢文を廃止し仮名文字にせよ、という国字改良論への反論だ。 また、妖怪博士の異名をもつ博士は、民衆の間で広がっている迷信打破を目的とした著書、「妖怪学」(1892年)、「妖怪玄談 狐狗狸の事」(1887年)の中で、いわゆる 「こっくりさん」 なるものは、「鬼神の所為にあらず、狐狸の憑るにあらず、・・・ 別に道理上証明すべき種々の事情ありて、無意自然に回転、上下するに至るなり」 と持論を展開している。 こんなユニークな哲学者が、ここに土地を買い、自身でデザインした公園だけあって、形而上学に通じる者ならでは理解できないような独特の名前の建物、石碑などが多く、博士の哲学に翻弄されながらの公園散策になった。 ![]() ![]() その中でも、誰でも分かるのは、明治37年、この公園に最初に建立した、孔子、釈迦、ソクラテス、カントの世界四哲学者を祀る 「四聖堂」 で、当初、「哲学堂」 と呼ばれ、その名がそのまま公園の名となったものと(最初の写真)、もう一つは、聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、竜樹、迦毘羅山の6人を 「六賢」 として祀った六角形の塔、「六賢台」(次の写真)くらいだろう。 ![]() 大正4年に建てた「絶対城」(上の写真)は、もとは図書館だったが、その名の由来は難しい。 「万巻の書を哲学界の万象とみたて、それを読み尽くせば、絶対の妙境に到達するという寓意から図書館を絶対城と名付けた」 とあるが、少なくとも、グーテンベルクが15世紀に印刷技術を開発してからは、とても万巻の書を読み尽くすことは不可能な話だ。 ![]() 次の、「哲理門」(上の写真)、またの名 「妖怪門」は、「本堂の左右にあった天狗松と幽霊梅があったことに因み、天狗は物的・陽性、幽霊は心的・陰性なもので、物質界、精神界とも根底に不可思議が存在しているという博士の妖怪観にもとづき、不可解の象徴とみなした」 となると不可解。 その他、理解困難なものには、常識門、理外門、唯物園、唯心庭、経験坂、理想橋、鬼神窟、髑髏庵(どくろあん)、感覚巒(かんかくらん)、懐疑巷(かいぎこう)、時空岡(じくうこう)等などと続く。 ![]() こんな不可解な名前のものが一杯ある公園の中で、日本とハンガリー外交関係開設140周年・国交回復50周年の記念事業の一環として日本に帰化した彫刻家故ワグナー・ナンドール氏が平成21年に寄贈された群像彫刻(上の写真)のある 「哲学の庭」 に来ると、やっと日常界に戻ってきた気持ちになった。 哲学堂公園は、昭和19年に東京都に寄付され、野球場、庭球場など運動施設を加えた都営公園になり、昭和50年以来、中野区営公園。 これまで見てきた 「四聖堂」 「六賢台」 を含め、12棟の古建築物は、中野区有形文化財に指定されている。
今年と同様、1月21日は土曜日だった。 いわゆる半ドン日で、大寒というのに小春日和に誘われ、勤め先からの帰り道に新宿へ寄った。 その頃の新宿通りには、地下通路がなく、歩道は、冬で着膨れした人の波で溢れ、互いに体を触れながら、やっとの思いで紀伊国屋書店に辿り着いた。 紀伊国屋は、神田神保町の三省堂や東京堂に匹敵する山手随一の大型書店のうえ、洋書も置いてあり、専門家の間では定評のある店だった。 しかし、木造2階バラック建ての店とあって、階段を上り下りする大勢の客の足音で絶えずガタガタと騒音がひどく、いつ床が抜けてもおかしくないと思った。
紀伊国屋に何の本を探しに行ったのか、何を買ったのか、今では、全く思い出せないが、家に戻ったのは夜7時のニュース時で、白黒テレビは、私の勤め先の所長がしきりと詫びているところを映し出していた。 妻が 「あなたのところの中野刑務所から囚人が脱走しったって、聞いた? 職員が殺されたんですって‥」 という。 それは、昭和36年(1961)1月21日のことだった。 土曜日の午後は、私を含め事務職員は休みだったが、受刑者を直接管理する職員は、通常勤務だった。 というのも、懲役受刑者には、祝祭日以外、1日8時間、週48時間労働が義務付けられていたので、保安、作業関係の職員の勤務時間もそれに合わせて組まれていたからだ。 とにかく出勤しないことには事情が分からないので、お茶漬け飯をかっ込み、新婚1ヶ月目の不安顔の妻を置いて家を出た。 西武新宿線沼袋駅周辺の店は、ほとんど閉め、刑務所へ通じる道に歩行者の姿はなく、暗闇の電柱の陰に警察官らしい人影がじっと立っていた。 刑務所の保安区域内は、警備隊員だけが千人ほどいた受刑者の収容棟を巡回し、保安課事務所には、管理部長、保安課長ほか数人の職員がいらいらした様子で捜索に出向いた職員からの電話報告を待っていた。 刑務所職員のほとんどが敷地内の官舎居住者なので、非常招集をかけ、登庁してきた職員を数人ずつ組分けにして都内各所に張り込ませる慌ただしさの中で、自宅通勤者に連絡する時間的余裕がなかったのか、事件をテレビで初めて知ってやってきた私が、この時間になって、事件について今さら職員に聞ける空気ではなかったし、刑務官ではない私ひとりを今どきになって張り込みに出すわけにもいかないのか、所内待機を命じられ、ばつが悪い思いをしながら深夜までいた。 翌日、上司の課長が教えてくれた逃走事件の内容は、次のようだった。 午後の就業開始後、営繕工場の交代担当のY看守が配管工のSとMの2人の受刑者を連れて構外に出たまま交代時間になっても戻ってこない異変に、正担当が咄嗟に逃走事件と直感し、上司に報告したのが事件発生の第一報だった。 しかし、受刑者の監視に当たっていた37歳のY看守の行方が分からず、職員が総出で構外の作業場所を探し回ったところ、刑務所の外塀の外にある共済組合学生寮の便所の便器の中に頭を突っ込む形で殺害されているのを午後3時ころになって発見したということだった。 事件全容が判明したのは、逃走後24時間以内に2人が北区の王子で逮捕されたからだった。 SがMを誘って共謀し、その日予定されていた構外の倉庫裏で工事材料を手押し車に積み込んだ後、ついでに近くの学生寮の便所の修理もしていきたいとウソの作業をY看守に申し出て、その場所に3人で行き、便所の修理をするふりをし、便所を覗き込んだY看守をSが背後から鉄のバールで頭部を乱打し、倒れたY看守をパイプ接合用の麻縄で絞殺し、Mと2人で便所の中に遺体を引きずり込み、刑務官手帳と現金を奪い、発見されるまでの時間稼ぎに便所の内鍵をかけ、使用中を装って便所の壁から逃走したと自供した。 逃走した受刑者の身分帳を見ると、犯行を誘われたMは、その年の7月に仮釈放が予定されており、Sは、刑期満了日まであと2年半残っていた。 中野刑務所の収容対象者は、男子成人受刑者のうち25歳未満、刑期1年以上で入所歴のない者、知能指数70以上で集団処遇に適し、警備上は軽ないし中程度といった、いわば、処遇上問題の少ないG級と判定された受刑者だったが、このグループの受刑者には、営繕作業に就けられる程度の技能者がおらず、その補充のために、逃走したこの2人が配管工技能者として累犯刑務所から派遣されていたのだった。 数カ月後、逮捕されたSには死刑が、誘われて犯行に加わったMには無期懲役の判決がそれぞれ言い渡された。 法務年鑑によると、昭和36年は、この事件を含めて全国の刑務所、拘置所からの逃走事件は40件(逃走人員54人)だった。 ![]() あの忌まわしい刑務事故から51年が過ぎ、この間に中野刑務所はなくなった。 その5万4700平米(約1万6千坪)の跡地は、昭和60年に区民公園と災害時の避難場所として、中野区営の 「平和の森公園」(上の写真)に姿を変え、その後、東京都の 「下水処理場」 「中野水再生センター」 が建った。 ![]() ![]() この場所に刑務所があったことの証となるものは、今では、煉瓦造りの豊多摩監獄の表門(上の写真)と3分の1ほどの高さに切り取ったコンクリート外塀(次の写真)を僅かに残すだけなので、ここで中野刑務所の歩んだ足跡を辿ってみよう。 なお、私がここにいた当時には、すでにこの表門は使われておらず、その右側の新しい表門から職員も外来者も出入りしていた。 ![]() 中野刑務所がこの地に建てられたのは、牛込区(現・新宿区)市ヶ谷台町に明治43年以来あった市ヶ谷監獄が手狭になったのを機に、監獄が都心にあるのは好ましくないとの声から、ここ豊多摩郡野方村新井(現・中野区新井町)に移転したが、市ヶ谷監獄の名称はそのままだった。 ![]() その一方で、当時、若き天才建築家といわれた司法技師、後藤慶二の設計・監督のもとで、新しい監獄の建設工事が始まり、明治43年から5年間をかけ、敷地4万600坪(構内1万6千坪)に約900メートルの外塀で囲んだ煉瓦造りのバロック調の近代的監獄が総工費64万円で竣工し、大正4年、市ヶ谷監獄をここに移転させ、豊多摩監獄と改称した。 豊玉監獄表門(上の写真)に警察旭日章と月桂冠の標章が付いているのは、明治43年に市ヶ谷監獄が豊多摩に移転した後も豊多摩監獄が竣工するまで市谷監獄は警視庁の管轄下にあったからだ。 しかし、この新監獄がその後、歩んだ道は、決して平たんなものではなかった。 建物の堅牢さから、凶悪不良囚集禁監獄に指定されたが、大正12年の関東大震災では、煉瓦造りの建物は残ったが、外塀が7ヶ所で倒壊するなどの被害を受け、軍隊に警備応援を求める一方で、受刑者100人を仮出獄させ急場をしのいだ。 被災した監獄の復旧工事は、翌年から始まり、99万円の経費と8年の歳月を費やし、昭和6年に工事が終了した。 なお、大正11年の監獄官制改正で、監獄の名称は、刑務所と呼ぶようになり、豊多摩刑務所に改称した。 大正14年の治安維持法制定以来、いわゆる思想犯がここに多く収容され、さらに、昭和16年の同法改正に伴って、この刑務所の一隅に予防拘禁所が設けられ、19年5月末日までに162人(うち女性5人)の思想犯が拘禁された(平成元年版 犯罪白書)。 昭和20年5月の東京大空襲では、死傷者こそ出さなかったものの被災し、受刑者も予防拘禁者も他施設に移動させたが、今度は、翌21年から31年までは、通称、中野プリズンの名で米陸軍刑務所(U.S.8th.Army Stockade)に接収された。 余談だが、電力不足から、停電日が常態化していた当時、中野プリズンだけは、連日、ライトが煌々と輝き、夜空を明るく染め、地域住民から羨ましがられた。 ![]() 昭和32年に米軍から返還された豊玉刑務所を改装し、中野刑務所と改称し、受刑者に対する 「矯正の科学化による処遇改善の実をあげるため」 の施設に指定され(昭和32年、中野刑務所の運営についての通達)、東京管区管内の受刑者の分類センター、処遇センターとして精神医、心理職員、職業訓練担当技官ら専門官が集められ、将来の矯正処遇を念頭に様々な実験的処遇が試みられた。 しかし、軌道に乗り始めて間もない進歩的な処遇も、職員殺害逃走事件の余波で、受刑者警備に重点が移り、大幅に後退した。 (上の写真は、解体直前の刑務所舎房) また、刑務所の外では、米軍から中野プリズンの接収解除以前の昭和29年頃から、豊多摩刑務所の復帰が都市化を阻害するとして周辺住民から刑務所立ち退き運動が次第に活発化し、それに逃走事件が拍車をかけ、58年に中野刑務所は廃庁になった。 現在、川越少年刑務所の中で、調査センターと名称を変えた部門で、中野刑務所当時の業務が引き継がれている。
JR駒込駅前の本郷通りを滝野川方向に行くと、次第に高層ビル街から昔ながらの銭湯や地蔵の立つ商店通りになる。 ゆるい上り坂道に大木の枝が覆いかかる石垣沿いに旧古河庭園の正門がある。
![]() 東京都公園協会のサイトによると、この庭園は、もと明治の政治家、陸奥宗光の別邸だったが、宗光の次男が実業家で古河財閥創業者の古河市兵衛の養子となった時、古河家に譲られ、三代目の古河虎之助が大正3年頃に、隣接する土地を買い足し、約3万平米の土地に、上野・池之端の旧岩崎邸の設計者と同じ、イギリス人コンドルに洋館と西洋庭園の設計を、また日本庭園は、京都平安神宮神苑や円山公園を手掛けた京都の庭師、小川治兵衛に依頼して造らせたもので、陸奥宗光のもとの邸宅ではない。 財界事情に疎い私には、古河財閥は日本8大財閥のひとつだといわれてもピンとこなかったが、富士電機、富士通、関電工、横浜ゴム、日軽金、損保ジャパンなどよく聞く企業は、すべて古河財閥傘下企業と知り、その財力の大きさを初めて知らされた。 洋館は、煉瓦造りで外壁を安山岩で覆い、屋根はスレート葺きにした地上2階、地下1階の英国風の重厚な感じの建物で、大正6年に古河家の本邸として建てられ、1階は接客用に、2階は和室で私宅に使われた。 しかし、その後、この邸宅は様々な時代の荒波にさらされた。 大正12年の関東大震災時には、約2千人の避難者を収容し、大正15年に虎之助夫妻が、現在の新宿区市ヶ谷船河原町へ転居した後は、貴賓のための別邸として使われ、日中戦争中の昭和14年には、中国に南京国民政府の樹立を目指した国民党で知日派の汪兆銘が、一時、この邸宅にかくまわれ、戦争末期には、陸軍の将校宿舎として接収された。 戦後は、占領軍に接収されて英国大使館駐在武官の邸宅に使用されるなど波乱の時代を経た後、財産税を物納する形で国有地となり、国が都に無償で貸し出し、昭和31年に都立公園とし開園した。 洋館は、連合軍が撤収後、30年ほど放置されていたのを昭和57年から平成元年にかけて現在の状態に復元し、現在、大谷美術館(特例財団法人)が管理している。 ![]() 庭園は、平成18年に文化財保護法により国の名勝に指定され、洋館東側にはイタリア露壇式庭園が、南側の斜面の西洋庭園は植木を左右対称の幾何学模様に刈り込んだフランス式庭園が、西洋庭園より低い土地には日本庭園が広がっている。 訪れた日は、冬ざれの花のない季節だったが、春は桜、つつじ、シャガ、バラが、初夏には花菖蒲、秋はサザンカ、モミジがなどの紅葉が楽しめそうで、もう一度、訪れたい。 ![]() 日本庭園は、池を中心にした回遊式庭園で、その途中に、山、滝、川をめぐらし、自然石を積み上げ、土地に起伏をつけ、適宜に庭石、灯籠、水車などを置いて自然の風景を造り出し、それを鑑賞する人を迎えるあずま屋、茶室、といった日本庭園の特徴を備えている。 特に、目を奪われたのは、様々な型や大きさの石灯籠で、春日型、濡鷺型、雪見型、泰平型、奥の院型、松陰型などそれぞれの立て札と見比べながら歩くと、石灯籠の博物館にいるようだ。 「心」 の字を模して造られた 「心字池」 の端にある 「雪見型灯籠」(上の写真)の由来について立て札には、「水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いて見える 「浮き見」 と、点灯時にそのともしびが浮いて見える 「浮灯」(うきび)が 「雪見」 に変化したという見方がある」とある。 ![]() また、「奥の院型灯籠」(上の写真)は、石面が風化し分かりにくいが、灯袋(火を灯す箇所)には牡丹、唐獅子、雲、七宝透かしを、灯袋を支える中台には、十二支が、下の基礎の台には、波に千鳥、波に兎が刻んであり、この型としては、ここにあるが国内で最大のものとある。 これまで、旧岩崎邸、旧前田邸、旧古河邸の三邸宅を見てきた。 いずれも明治・文明開化の象徴とされた鹿鳴館以来の欧米先進諸国の上流社会文化を模倣しながら、日本固有の伝統文化も固持し、贅を尽くした館での貴賓接待、日常生活振りを垣間見ることができた。 このほか、都有形文化財に指定されている貴族(皇族、華族)の旧邸には、港区白金台町の旧朝香宮邸あとの都庭園美術館(現在改装中で休館、庭園のみ入場可)、文京区目白台にある旧細川侯爵邸、和敬塾などがあり、いずれ訪れたい。
前回は、土佐の地下浪人(じげろうにん・半農半士)から出世し、三菱財閥の創始者になった岩崎弥太郎の子、久弥が建てた邸宅を訪れたが、今回は、大名から華族へ列せられた加賀藩主、前田家16代、前田利為(としなり1885-1942)侯爵が昭和4年に建てた邸宅へ行く。
![]() 京王井の頭線 「駒場東大前」 で下り、大学キャンパスに沿いに駒場通りを北に閑静な高級住宅通りを行くと、面積約4万平米の駒場公園の正門前にでる。 正門に無人の守衛棟が建っているのが邸宅当時の面影を残している。 ![]() 邸宅は、戦後、一時、占領軍に接収され、連合軍司令官の官邸などに使われたが、昭和32年に返還され、現在、公園として庭園、館内とも一般に開放され入場無料。 正門からこんもりとした森の道を行くと、当時、東洋一の邸宅といわれた地上3階、地下1階のコンクリート建ての洋館が見えてくる。 ![]() 上の写真、左に見える掲示板によると、この洋館の由来は、前田侯爵の本邸として建築され、「外国の貴賓を迎え入れる洋館として、駒場の田園の野趣にあわせたイギリス・チューダー式がとり入れられ、‥ この様式はイギリス後期ゴシック様式を簡素化したもので、玄関ポーチの偏平アーチにその特徴をみせ‥ 外観は、当時流行した長手のスクラッチ・タイルを貼り、落ち着いた雰囲気を漂わせ‥。 内部は一変して王朝風に装飾が施され、各室はイタリア産大理石によるマントルピースや角柱、壁面にはフランス産絹織物や壁紙を貼り、イギリス家具などを配したヨーロッパ調‥、こうした洋風の室内に江戸情緒をのぞかせる、唐草に雛菊をあしらった文様なども見られます」 とある。 ![]() なるほど、玄関から入ると、目の前に格調高く、豪華な劇場やホテル並みのロビー、広間、大小食堂が広がる。 盛装したハイクラスの紳士淑女、海外の招待客たちが歓談し、舞踏会が催され、皆がディナーの席につき、撞球に興じた当時の上流社会の生活が目に浮かぶ。 その一方で、こんな豪邸での日常生活は、なんとも堅苦しく、息苦しくないかと思うのは、私の小市民根性かもしれない。 邸宅の主、前田利為は、日本一禄高の高い加賀百万石の藩主という毛並みのいい家系に生まれ、終身貴族院議員に任じられ、陸軍大学を卒業、昭和2年から5年まで駐英大使付き武官などいかにも豊富な経験の持主らしい、国内外の貴賓を邸宅に迎える心遣いがシャンデリア、壁紙、マントルピース、庭園に面したバルコニー、廊下で通じる和室など部屋の造りに、随所、感じられる。 ![]() この贅を極めた館に住む侯爵は、他面、陸軍中将という武人の顔ももつ。 参謀本部部長、師団長などを歴任後、太平洋戦争中の昭和17年4月にボルネオ守備軍司令官の任に就いたが、その年の9月、ボルネオ沖で搭乗機が墜落し、57歳の生涯を終える。 その死が事故死か戦死かを巡っては、国会でも論じられたが、謎を残したまま、正ニ位に叙せられ、陸軍大将に昇格する。 その後、夫人をはじめ一家は転居し、この邸宅に戻ることはなかった。 現在、洋館は、東京都指定有形文化財になっている。
あ 合言葉 絆、がんばれで年を越し
け 結末は オウンゴールでメルトダウン ま マニフェスト やっぱり選挙向けだった し シーベルト 皆が覚えた専門語 て 手にあまる 国債売出し買うは誰 お おやじギャグ なでしこジャパンで復活し め めまぐるし 事件と事故の 氾濫期 で でっち上げ 有罪判決多いわけ と 年ごとに信頼できるものが減り う うるささが バロメーターの視聴率 ご 御破算で願いましては ユーロ崩壊 ざ 財界が 胸なでおろすTPP い いつだって 事故が起これば想定外 ま また寿命 伸びて年金あとずさり す ストレスが 犯罪をする 言い訳に ![]() ダンクからひとこと 「ボクも12歳になり、老眼鏡が要る齢になりました。 今年もよろしくネ」 今年のお正月は、なんとなく 御祝詞を差し上げるのに気か引けますが、なにはともあれ、皆様のご健康を願いつつ、良き年であることを祈ります。
日本から貴族制度が消えて65年になる。 戦後の人たちには無縁の制度だが、それ以前生まれのほとんどの国民にとって貴族(華族)には、羨望と反感を感じる、いわば 「雲の上」 の人たちだった。
彼らは、華族学校(学習院)で教育を受け、華族専用の銀行(十五銀行)を持ち、世襲財産が保障され、終身制の貴族院議員に就き、皇族と姻戚関係が結べるなど、一般国民が介入できない法律と組織で守られていた。 庶民たちが知っている華族と言えば、新聞やニュース映画のスクリーン上で胸一杯に勲章を付けた軍服姿か、乗馬服姿、シルクハットにフロックコート姿くらいだったから、彼らが栄華を極めた当時の生活を知る由もなく、戦後、新憲法の制定とともに、貴族制度が廃止され、連合軍によって財閥が解体され、広大な邸宅、敷地を維持できなくなって手放し、一般市民に開放されて初めて、その旧邸宅や庭園から華族の生活ぶりが想像できるようになったに過ぎない。 明治新政府は、公卿や将軍、大名などの身分制度を廃止したが、それに代えて彼らを華族として保護し、その格付けとして爵位を与えた。 これに加え、国は、明治維新以後の国への功労者にも爵位を与え、財政を助け、経済発展に貢献した大実業家たちも、国の功労者として新華族の称号が与えられた。 新華族の多くは、爵位では一番下の男爵だったが、封建制度国家から資本主義経済国家への発達に伴って、新華族たちは経済力において絶大の羽振りを増しっていった。 ![]() 前に、三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎が柳沢吉保の下屋敷を買い取って別邸とした 「六義園」(12月5日付け)へ行ったが、今回は、明治11年に岩崎弥太郎が旧舞鶴藩士から買った上野・池之端の高台の土地に、弥太郎の長男で三菱財閥3代目の久弥が明治29年に建てた旧邸宅を訪れた(1枚目写真)。 ![]() 洋館は、お茶ノ水のニコライ堂を建てたと同じ英国人、コンドル設計によるイギリス・ルネッサンス風と言われる木造2階建てだが、2階のベランダは米ペンシルバニアのカントリーハウス風であったり(2枚目写真)、また、別棟にありながら洋館と地下道でつながる木造平屋のビリヤードルーム(3枚目写真)はスイスの山小屋風だったり、そして、 ![]() 洋館から廊下伝いに行ける和館は書院造りだったり、庭園(4枚目写真)は、大名庭園の形式を取り入れていたりと、和洋さまざまの建築様式と取り混ぜた邸宅だ。 このうち、洋館とビリヤードルームは、重要文化財に指定されている。 ![]() また、旧岩崎邸敷地に隣接する上野年金事務所や合同庁舎ビルは、以前は旧邸宅の敷地だったし、さらには、江東区の清澄公園、国分寺市の殿ケ谷戸庭園、六本木の国際文化会館などもまた岩崎家の敷地だったというから、その絶大な財力にただただ圧倒される。
前に品川を訪れたときは(09年5月12日)、駅東口前にそそり立つ超高層ビル群に、ただ圧倒されながらビルの谷間(そこは品川区でなく港区だった)を通り抜け、やっと広い空が見える北品川と東品川の間の旧東海道にでた。 しかし、「ようこそ品川宿へ」 と観光客を呼び込もうとする地元商店街の意気込みを感じながらも、なにか物足りず、天保大飢饉で農村からここにたどり着いた多数の流浪者の餓死者を葬った法禅寺の 「流民叢塚」 以外、品川の歴史を知る史跡と出会えなかった。 そこで今回は、改めて、目黒川対岸の南品川に多い仏教寺院を訪ね、品川の史跡探しに出かけた。
![]() 日蓮宗とキリシタンとは、加藤清正と小西行長の両大名の時代から、犬猿の仲だったのだろうか、目黒川岸通りの日蓮宗・海徳寺境内にキリシタン禁令札が立っている。 あるいは、ここは、他宗信徒からの布施は受けないし、他宗徒には供養もしないという日蓮宗一派の原理主義、不受不施を信奉する寺院だったのだろうか。 それにしても、明治新政府(慶応4年)になってからもこのような 「定」 が出されたのは何故だろうか。 生憎、事務所には来客がいて、その由来を伺えなかった。 ![]() 海徳寺から近い妙蓮寺には、丸橋忠弥が、由比正雪らと共謀し、江戸、大阪、京都で蜂起し、天皇制樹立を目的に幕府転覆を計画した慶安事件(1651年)が露見し、品川の鈴ケ森の磔台で最初に処刑された忠弥の首塚がある。 前に、目白の金乗院にある忠弥の墓を訪れた時も書いたが、このクーデター事件に賛同する大勢の民衆が、この反骨者へ密かに供養し続けてきたのだろう。 それぞれの訪問記については、08年12月25日と今年10月1日に載せた。 ![]() 品川で最も悲惨な歴史を物語っているのが、永仁6年(1298)創建とされられる時宗・海蔵寺にある史跡だ。 山門にある 「江戸時代無縁並首塚 関東大震災殃(横)死者塚」 の石碑から窺えるように、この寺院は品川の 「投げ込み寺」 と呼ばれているほど多くの横死者、引き取り手のない死者の墓と塚がある。 入口近くには、大正4年に建てた鉄道事故死者を祀る 「京浜鉄道轢死者之墓」、大正12年の関東大震災で品川海岸に流れ着いた数十の遺体を埋葬しその上に建てた釈迦如来像、慶応元年(1865)に建てた 「津波溺死者供養塔」 のほか天保の大飢饉(1833~40頃)の折、地方農村から品川にたどりついたものの死亡した流民891人のうち、前に訪れた北品川の法禅寺が約500人、それほかの死者をここに埋葬した。 これらさまざまの横死者を合葬した供養塔が 「無縁供養群」(上の写真)で、墓誌には、元禄時代に獄死した多くの罪人、江戸時代に鈴ケ森で処刑された罪人、品川宿で死んだ無縁の遊女たち、品川京浜電鉄轢死者、品川海岸溺死者、行路病死者、関東大震災横死者、そのた無縁の死者を弔う供養塚とある。 ![]() 海蔵寺に近い天龍寺の境内には、かなり風化した小さな 「碑文谷踏切責任地蔵尊」 が立っている。 これは、大正7年(1918)5月、ここから近い品川碑文谷踏切で、開いていた踏み切り竿の脇を渡り始めた人力車が貨物列車にはねられ、車夫は難をまぬかれたが客2人が死亡した鉄道事故だ。 事故当時、その番小屋で勤務していた2人の踏切番(一人が立番中、一人は仮眠中)の一人がうたた寝をしたのが原因だった。 責任を感じた2人は、事故直後に鉄路に伏して自殺した。 この事件を供養して建てた地蔵尊である。 この事件を機に、一昼夜勤務という踏切番人の過重な勤務体制が社会問題化した。 労働者の人権や福祉に配慮する労働基準法など夢の存在でしかなかった時代の不幸な事件だった。 ![]() 本駒込には20軒ほどの寺院が本郷通りをはさんで立っているが、中でも一番、広く、有名なのが吉祥寺。 「きちじょうじ」 が公式の読み方だが、「きっしょうじ」 という地元の人もいる。 ![]() ![]() 吉祥寺は、当初、現在の水道橋辺りにあったのが、明暦の大火(1657年)で類焼し、現在の地へ移って来て以来の寺院とあって、歴史上、有名人の墓や江戸時代からの史跡に富んでいる。 毀誉褒貶が相半ばする江戸南町奉行・鳥居燿蔵の墓、箱館五稜郭に立てこもり官軍と戦って敗れた後に明治政府の下でいくつもの大臣を歴任した榎本武揚の墓(写真上)もここにあり、また、経蔵としては、都内でただ一つ残る江戸時代建造の史跡だ(その下の写真)。 ![]() 本堂の左手にある鳥居燿蔵の墓の先に古い墓が集まって立っているのが見える。 近づいて見ると、驚いたことに、倒壊した墓石や石塔が転がっている。 先の東北大地震で、東京でも震度5弱の揺れに襲われたせいだろうか。 どの墓石もかなり古く、風化し、多くは墓碑銘も読み取れなかったが、中に、傾いた 「従五位新○○之墓」 もあり、いずれも高位の人の墓と見受けられる。 子孫が絶え、お参りする親族もないのだろうかと、倒壊し放置されたままの墓をみるのは哀れを催す。 ![]() 吉祥寺を出て、本郷通り沿いに不忍通りを横切った先にある六義園へ行く。 ここは、川越藩主、柳沢吉保が元禄年間にここに庭園を築き、明治に入って、藤堂家、安藤家、前田家の邸宅を経て、三菱大財閥を築いた岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年に東京市へ岩崎家から寄贈された由緒ある大名庭園で日本を代表する名園の一つだ。 昔の大名や大富豪ともなると、ふんだんに人手を駆使し、こうも広大な庭園を築き、維持できるものかと圧倒される。 もちろん、後世の人びとをも唸らせるに十分な日本の美を演出している芸術作品だ。 庭園の案内については、観光書その他で広く紹介し尽くされているので割愛するが、戦時中、子どもの頃、親に連れられて来て以来、戦後復興期の昭和20年代、経済成長期の30年代、そして豊かで平和な生活の現在と、訪れる度ごとに夫々の時代が反映されているように感じた。
子どもの頃に過ごした場所は、いつまでも懐かしく、そぞろ神に憑かれたように本郷へと向かった。 新小岩から本郷への転居のきっかけは、前に書いたが(2010年12月14日付)、本郷は、私には初めて大都会の町中の生活だった。 引っ越した先は、本郷区曙町13番地(現在の文京区本駒込1-25辺り)の貸家で2階屋だった。
小学2年2学期から小学4年修了までと短い期間の生活だったが、「電車通り」 と呼んでいた本郷通りを上富士前の昭和小学校に通ったお陰で、通学路の様子はかなり覚えている。 市電の乗車賃は、市内どこへ行っても7銭、銭湯も7銭の頃の話だ。 (下の写真は、現在の本郷通り) ![]() 当時から市電、市バス、車など交通量の多かった本郷通りには、木造の個人商店が並び、その間に寺院や神社があった。 目立ったビルといえば、駒込警察署と昭和小学校くらいだった。 その警察署も今から15年ほど前に行った時は、すでに不忍通りに移転し、その跡は空き地になっており、所どころに8階建てのビルが建ち始めた頃だったが、現在のような日の光をさえぎる高層ビル街の冷たさは感じられなかった。 吉祥寺の山門近くの表通りにある5,6軒の木造住宅が昔の電車通りの面影を残している。 ![]() 私の家は、飛鳥山行きの市電を吉祥寺前停留所で下り、本郷通りから左へ坂道を4、50メートル下った四つ辻を右手に行った曙町で、今も当時の町名を残す町内会の掲示板が建っている。 ![]() 当時、この道の右側には、トタン屋根の長屋が縦並びに4,5棟あり、左側には板塀に囲まれた5,6軒の民家があった。 その民家の並びに日蓮宗の信徒の家があり、お会式の日には長屋の子どもたちを駄菓子で釣って集め、お題目を唱え、ウチワ太鼓を叩いて道路をねり歩かせた。 私も一度その一群に加わっていたところを生憎、学校から帰りがけの母に見つかり無理に家へ連れていかれたのを覚えている。 私の家は、その道路先を左に入った迷路のような路地の一角にあった。 ただ、今では袋小路になっており、元いた家へ通じる路地はなくなっていた。 当時、この路地を抜け旧白山通りへ通じる道があり、そこを少し先へ行くと、突然、周りの様子が一変し、お抱え運転手付きの自家用車があるようなお屋敷の通りになった。 ![]() 現在の本駒込1,2丁目一帯は、戦災で丸焼けになったところで、あまりの町の変貌振りには戸惑うばかりだ。 本郷通りの崖下にあって曙町を区分けた石垣の壁面一帯には、粗末な民家が密集していたが、今ではそこにマンションや民家が建ち並んでいる。 その路地から本郷通りへ上っていける石段は残っていた。 また、昔ながらの曲がりくねった通り道沿いのコンクリート造りや木造の一戸建て、2階建ての民間アパートなどが雑然と建ち並んでいる路地に出会うと、子どもの頃のごちゃごちゃした家々の密集地を思い出す。 しかし、こうした懐かしい私の記憶は、他方、なんとも鬱陶しい思い出とも交錯している。 当時の子どもたちの多くが罹った猩紅熱、赤痢に罹り、避病院といわれた伝染病棟のある駒込病院で2回も生死をさ迷った入院生活を送り、その後も余病を併発したために小学4年時は、ほとんど通学できずじまいの一年間だった。 それが理由で、今度は、空気の良い板橋区中新井(現在の練馬区豊玉)へ引っ越したが、小学4年生を2回繰り返す羽目になった。 しかし、ここに転居したことが戦局激化に伴う学童集団疎開からも、中学生の軍需工場への勤労動員からも、戦災からも免れる幸運にもつながった。 縁とは不思議なものだ。
白子川は、源流から河口までのほぼ全域に、両岸あるいは片側に散歩道がある。 所どころ湧水が流れ込み、小魚や水鳥の居心地をよくしている。 途中、春はカタクリの花で覆われる清水山、武蔵野の姿をそのまま残す稲荷山など市民憩いの森があって、都会の騒音から離れ、家族中で楽しめる。 前回は、源流から目白通りを横切った地点までやってきたが、今回は、その先の東京と埼玉の県境を流れる白子川の中流から荒川支流の新河岸川との合流点まで行く。
しかし、その川沿いの快適な散歩道も、所によって川べり一杯に民家が建ち並び、側道が途絶える箇所があり、そんなところでは民有地を迂回しなくてはならないのだが、特に、練馬区が飛び地のように和光市内に喰い込んでいる地域では、地図や住所表示板だけを頼りに行くと、自分のいる位置が分からなくなる難所がある。 ![]() 出発点の源泉からほぼ6キロ先に行ったところにある越後山橋は、東京(練馬区)と埼玉(和光市)の境だが、橋を渡って埼玉県側を川沿いに行くと、和光市第5小学校前の車道に出る。 白子川は、その通りに架かる芝屋橋の下を流れ、両岸の民有地の間をいく(上の写真)。 仕方なく、橋を渡り、200メートあまり直進すると笹目道路(国道443号)に出た。 地図の上では、白子川は笹目通りの下を暗渠になってくぐり抜けているので、笹目通りを渡り、牛房通りに出ればいいと見当をつけて行ったが、川は見つからず、また、町の表示板は、和光市ではなく、練馬区旭町だった。 ![]() 通りがかった地元の数人に、「牛房通り」 への道を尋ねたが、分からず、練馬区のひとでは分からないのだろうかと、そのまま行くと、偶然、牛房通りにでた。 そして、初めて、牛房通りを 「うしふさ通り」 と言って道を尋ねた私の誤りに気づいた。 道路表示には、ご丁寧にも 「ごぼうどおり」 と振り仮名がしてあり、そこは和光市白子1丁目だった。 通りに面して大きな旧家があり、通りがかりの人から、この屋敷の持ち主は、この辺り一帯の大地主で某カメラ会社社長だった人の邸宅とうかがった (上の写真)。 この屋敷の崖下を流れる白子川に架かる小源治橋を渡ると、また練馬区(旭町3丁目)に入る。 民家と農地の間を流れる白子川が見え隠れする道から川に近付けそうな路地を下りると、突き当たりにフェンスがあり、行き止まり。 ![]() 思案にくれていると、右手の家の方が庭を掃除中。 声をかけ、道を尋ねると、全くの僥倖に巡り合わせた。 家の御主人は 「白子川水辺の会」 の会員だった。 住宅地域を通り抜け、次の橋の子安橋で白子川に出会える近道を事細かく教えて頂けた。 さらに、そこから先は、農地や住宅地があって、川に近づけないが、川越街道に出たところに架かる東埼橋からは、河口の落合橋まで両岸に散歩道が整備されていること、東埼橋は埼玉県(和光市)と練馬区(旭町)と板橋区(成増)とが境を接する場所で、昔、ここに川越街道白子宿があったことに因んで白子川と名付けられたこと、東埼橋の下には3メートル近い段差があって荒川から上ってきた魚は上流へ行けないが、その先の東武東上線鉄橋の下を通って、成増団地のある白藤橋辺りまで行くと、鯉が泳いでおり、荒川から上ってきたボラ、スズキ、ウナギなどが見られることもあり、平成になってからもアユの遡上を板橋区が確認したこともあったこと、また、白藤橋の先へ行くと河川管理用道路の表示があり、これは白子川の増水に備えて両岸にコンクリート壁を築き、道より一段と高くした歩行者用の袴道橋が二か所あること、など、日ごろから白子川を案内されている方だけに話は詳しい。 ![]() ![]() こうした予備知識を得たお陰で、子安橋から荒川支流の新河岸川に架かる落合橋までのほぼ3キロの行程を楽に進むことができ、無事、目的地にたどり着いた。 源流から此処まで来るのは、徒歩では無理、車ではなお駄目、やはり自転車が一番だ。(写真上は、落合橋の先に荒川の土手が見える。 下は、土手から見た白子川と新河岸川の合流点に架かる落合橋) 最後に、種々、教えを頂いた旭町3丁目の白子川の会員の方にお礼を申し上げます。
練馬区大泉は、その名のとおり、あちこちから地下水が湧き出る泉に恵まれた土地だった。 終戦後の西武池袋線・大泉学園駅周辺は、戦災をほとんど受けず、駅北口の戦前からの商店街は早々に活気を取り戻したが、駅からバス通りを100メートルも行くと、民家はまばらになり、畑と水田が一面に広がっていた。 駅南口は、深夜には、無人になるタバコ店と飲食店の仮店舗と民家が10数軒かたまり、その先は、ケヤキの防風林に囲まれた農家が点在し、昼間の人通りは、大部分が、第3師範学校(現、学芸大学)付属小学校と終戦数年前に開校した大泉中学(学制改正後は高校)に通学する生徒くらいだった。
東大泉と保谷町(現、西東京市)に挟まれた南大泉は、昭和30年代に入ってからも大部分が農耕地と森林だった。 低地の草むらの所どころから湧水が浸み出し、いつの間にか、水は 「しまっぽ」 とか 「しまっぽり」 と呼んでいた幅1メートルほどの窪地を伝ってより低地へと向かい、幅を広げ、小川となり、その一部は、灌漑用水として、あぜ道と泥と草の土手で仕切った田畑を潤し、練馬大根など収穫野菜の洗い場が所どころにあった。 春には、川沿いの水田にはレンゲやクローバーの花が咲き乱れ、カエル、ドジョウ、ザリガニ、タニシを取る子どもの姿があった。 この澄んだ水の流れが練馬区、埼玉県和光市、板橋区を通り、10キロ先の荒川まで続く白子川の源流とはあまり知られていなかった。 そんなのどかな田園風景に趣を添える白子川だったが、その流域は、しばしば梅雨時の集中豪雨で川の水が溢れ出し、谷間の田畑、住宅地に繰り返し浸水被害をもたらした。 昭和50年代から河川整備、下水道整備が都の豪雨対策計画に従って始まり、現在も続いているが、近年では、平成13年7月の集中豪雨によって、大泉地区で40棟が、また17年9月には練馬区と埼玉県和光市の境を流れる越後山橋流域で77棟以上が床下・床上浸水被害を受けた。 戦後の白子川氾濫の主な原因は、昭和30年代からマイホームを求めるニューファミリーの要求に応え、地価の安い農地、森林の宅地化が進み、一戸建ての建売住宅が増える一方で、それに対して土地行政が追い付かなかったことだ。 白子川流域の水田も、埋め立てて宅地化する乱開発が行われ、道路はアスファルトで簡易舗装され、住民の増加は、高度経済成長期に入ると一層加速し、西武池袋線の大泉学園駅を中心に低層の公共アパートやマンション建設が進み、商業地や学校などの公共施設が増え、路線バス網も拡大する、いわゆるスプロール現象が進行した。 その結果、雨水の大部分を吸収していた森や畑地は減少の一途をたどり、急激に増え続ける家庭からの排水が浄化されないまま下水溝から白子川に流れ込み、昭和4,50年代には汚泥の匂いを発する川が、しばしば豪雨の後、洪水となって流域を襲った。 ![]() 今では、白子川の源流付近(上の写真)は、すっかり整備され、湿地帯にあった溜池は児童公園へ変身し、川の氾濫を防ぐためにもとの水路を変え、川床を掘り下げ、川幅を広げ、護岸をコンクリートで固め、雨水や家庭排水を流す下水道が整備されるに従って、白子川は、源流から1.5キロほど先まで湧水が姿を表した。 青々とした水草に交じって地元の人の手で放流された真鯉、緋鯉がカルガモと泳いでいる。 ![]() 川底の所どころに汚れた板状のものが置いてあるのを見かける。 これは、水質汚濁防止の浄化設備で(下の写真)、保谷町の方から東大泉地区へ下水管を伝って流れてくる雨水と家庭排水を白子川本流の合流地点で、川底を掘り下げ、コンクリート製のU字溝のようなブロックを並べ、その上を繊維状の網で覆い、川底に沈殿する汚泥を定期的に清掃、除去する設備だ。 そのお陰で、澄んだ川には、いつも水生植物が生え、コイや野鳥が生息できる環境が保たれ、川岸の遊歩道を行く人の目を楽しませている。 ![]() 豪雨による洪水防止対策として、下水道の整備のほか、アスファルト道路舗装に代えて雨水が地中に浸透できる材質のものが20年以上前から使われているが、交通量の多い道路の舗装には強度から不向きという限界がある。 ![]() また下流地域の水害防止対策として、増水した川の水を一時溜めて、とどめておく調整池(上の写真)が平成13年、比丘尼橋の側にでき、徐々にではあるが、白子川は住民の協力も得て、綺麗な流れに向かっている。 いま、ボランティアの集まり 「白子川源流・水辺の会」 の間で、水質の良くなった白子川上流に荒川からアユを呼びたい!という声が高まっている(「白子川源流通信」 2011年8月号)。 ★今回の記事作成に当たっては、東京都総合治水対策協議会編 「白子川流域豪雨対策計画(平成21年11月)」と白子川汚濁対策協議会編 「白子川を知っていますか-水辺再生に向けて」(平成6年)を参考にしました。 ![]() 西永福駅と永福町駅から北へほぼ等距離のところにある大宮八幡宮へ行く。 「大宮」 とは、埼玉県の大宮とは関係がない。 大きなお宮の意味で、約15万坪という都内3番目に広い敷地をもつ1063年(康平6年)創建の古い神社だ。 ![]() また、この辺りは、「東京のへそ」 といわれているところで(杉並区大宮1丁目。 大宮八幡宮の場所は2丁目)、商魂逞しく、白ゴマで包んだ餅の真ん中に黒豆を一つおいた 「大宮八幡へそ福餅」 を境内の結婚式場ロビーで食べさせている。 ところで 「東京のへそ」 とは何だろうか。 インターネットで検索したところ、総務省統計局のホームページ 「国勢調査 e-ガイド」 に答えが出ていた。 例えば、「日本のへそ(人口重心)とは、日本中に住むすべての人が同じ体重と仮定して日本地図の上に乗った場合に、その地図を一点でバランスを崩さずに支えられる点のことです。 人間の身体でいえば 「へそ」 に当たる地点のことです。 国勢調査のデータを使って計算すると、日本のへそ(人口重心)を求めることができます。」 とあるが、その算出式は、数学に弱い当方の能力を超えるので飛ばすとして、「我が国の人口重心の動きは、国勢調査のたびに少しずつ移動しています。 長期的にみると、首都圏への人口の転入超過が続いてきたことなどにより、東あるいは東南東方向へ移動しています。 国勢調査の行われる5年ごとの人口重心の移動距離は、昭和40年~45年に東へ8.3km移動したのを最長に、その後は約1~3kmの移動となっています。」 とある。 平成17年の国勢調査から割り出した都道府県別の人口重心では、東京都の 「へそ」 は、「杉並区成田東」 で、5年前の平成12年よりも96m南東に移動している。 杉並区の 「成田東」 は、同区 「大宮」 の南に隣接する町で、10月1日付け杉並区観光課のホームページにも大宮八幡近辺が東京の中心(へそ)とあった。 ![]() さて、目を八幡宮に転じると、七五三詣での時期とあって、晴れ着姿の子ども連れ家族が引きも切らず訪れ、祈祷を希望する家族控所は混んでいる。 家族総出の賑やかな一家がある一方で、親子2人の参拝客もあってさまざまだが、親子ともどもこの日の姿を生涯忘れず、育て、育ってほしい。 ![]() 八幡宮をでて、坂道を下ると、前々回に訪れた善福寺川の流れに沿って面積約20万5千平方メートルの和田堀公園にでる。 善福寺川流域は古代遺跡の多いところで、ここの公園の高台からも弥生時代の古墳や遺跡が多く発掘されている。 ただ、この一帯は、全体として低地帯で、ここを蛇行する善福寺川は、源流から8キロ程の距離なのに、氾濫を繰り返しており、昭和30年代に河川の改修工事を始め、水はけの悪い自然にできた溜池(現、和田堀)も取り込んで公園として整備し、武蔵野の自然を残しながら広場、運動場、郷土博物館を備えた市民公園を造る一方で、公園内全域を都の防災公園(大規模救出活動拠点)に指定し、災害時に対応できることも配慮しているのは、やはり、地勢上、災害の危険性があるからだろう。 ![]() 公園と八幡宮の間を流れる川は、御供米橋(おくまい橋)、八幡橋、大宮橋、宮木橋など八幡宮に因んだ名前の橋など12の橋が架かり、両岸には遊歩道が整備されている。 しかし、車の交通量が多い宮下橋には、忌まわしい殺人事件の記憶が付きまとう(上の写真 宮下橋下を下る善福寺川)。 事件とは、昭和34年3月、「日本人ステュワーデス怪死事件」 と当時、大々的に報道されたBOAC(現、ブリティシュエアウェイズ)の27歳の女性客室乗務員が川幅11メートルほどのこの浅い川の中央辺りで、あおむけに倒れ、扼殺されていた現場がこの宮下橋の下だ。 捜査線上に浮かんだのは、38歳のベルギー人神父で、カトリック教信者だった彼女とこの神父とは以前から親密な関係にあった。 当時、名刑事といわれ、数々の難問殺人事件を解決してきた警視庁の平塚八兵衛刑事が当たったにもかかわらず、任意の参考人事情聴取中の6月に、神父は病気療養を理由に正規の出国手続きを経てベルギーへ帰国し、何一つ解決のめどの立たないまま公訴時効、迷宮入りになった事件だ。 事件は、単なる痴情関係のもつれなどではなく、日本政府も手に負えない大きな謀略機関が関わっているという囁きまで聞こえたが、結局、真相は今もって藪の中だ。 宮下橋の橋詰には、昭和54年竣工と書いてあるから、事件当時は、河川工事の最中で、その頃もこの静かな川の流れには、カモ、カワセミなどの水鳥や小魚がたくさん泳いでいた違いない。 平和で静かな川での謎の殺人事件だった。 ![]() 杉並区内に源泉をもう一つの1級河川、妙正寺川は、妙正寺公園の池から溢れ、杉並、中野、新宿の3区を通り、JR高田馬場駅に近い高田橋付近で神田川と合流する約9キロメトールの川だ。 列車や車が行き交う橋の下をゆっくり流れる河川を眺めたり、集中豪雨で増水、被水被害をもたらした川と聞いたりしても、源泉地からちょろちょろと流れ出る水からは想像しにくい。 ただ、源泉といっても、広がり続ける都市化の波に、今では、公園の池を満たすほど自然の湧水には恵まれず、善福寺公園の池の10分の1もない広さの妙正寺公園の池でも、電動モーターで井戸から汲み上げ、7基の噴水を備え、市民憩いの公園池の体面を保っている。 ![]() 公園の池から流れ出る妙正寺川最初の橋、落合橋の下を見ると、この池からの水ともう一つ別の下水道からの水とが合流している。 これは、井草八幡前の青梅街道を隔てた向かいの急な坂を下った斜面にある 「切通し公園」 を源泉とした井草川の水との説がある。 しかし、切り通し公園の近所には、暗渠化した川の流れの痕跡を残した細い通路が住宅地を通っているものの、公園内に源泉はなく、以前の流れに模して作った小川に夏の間だけ井戸水を流しているとのことだった。 落合橋の下で落ち合う水系は、別に源泉があるのか、あるいは、雨水が下水溝へ流れ込んだものではなかろうか。 ![]() 妙正寺公園、妙正寺川の由来の妙正寺を訪れる。 山門に紙垂(しで)が下がっているのが異様に見えたが、 文和元年(1352)、千葉県市川市にある法華経寺の第三世日祐上人がこの地に草創するに当たって、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を奉った寺院と知って納得。 日本古来の多神教の神々信仰と外来宗教の仏教とをあまり抵抗なく結びつけて信じてきた宗教に寛大な日本人独特の神仏習合の風習が、明治政府の神仏分離令をきっかけに、一時、過激な廃仏毀釈運動を巻き起こしたが、純朴な一般信徒の意識まで変えることはできず、今も続いているようだ。 また、妙正寺には、井口家出身の六代目本因坊知伯(享保18年没)の墓が区の指定史跡になっていたが、この地域には井口姓が多く、井口家の墓が多いうえに本因坊六代目の墓と分かる案内板も立っておらず、とうとう見つけられなかった。 ![]() 妙正寺から200メートル先の環八通りを横切り、今川町の観泉寺に行く。 今川町の由来は、桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元から3代目の直房が、ここを今川家の始祖から義元など今川家の菩提寺とし、以後も一族を祀ってきたことに因んで付けられた町名だ。 ![]() 戦いに敗れた義元一族のその後については、全く知らなかったが、「義元の子孫は江戸時代には高家として幕府に仕え、今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めた」(都教育委員会の説明)とある。 今川氏累代の墓は東京都指定旧跡で、これを目的に、訪れてきた観光の数グループと出会った。 ![]() その高さ9メートルに圧倒されながら、大木に覆われた1万坪の境内に入ると、街道を行き来する車の騒音は消え、別世界の中に包み込まれる。 井草八幡宮は、源頼朝が奥州藤原氏の征伐に向かった折、戦勝祈願に立ち寄り、手植えしたという松の木や三代将軍、家光のとき、幕府の手で社殿を造営し、以来、幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があったなど、由緒ある神社だ。 ただ、樹齢900年を保った松の大木は、残念ながら昭和48年1月の強風で倒れ、今では、輪切りにした根元だけが展示され、元の場所には2代目の松が育っている。 ![]() いつもこの時間帯なのか、保母たちに連れられた幾組もの保育園児のグループが参道を行き来しているのとすれ違いながら、八幡宮を出て、善福寺川の源泉のある善福寺公園へ向かう。 この辺り、つまり、善福寺1~4丁目付近は、鉄道沿線から離れ、1時間に5本ほどの路線バスが通る清閑な住宅地域だが、それは、善福寺公園を中心に自然の景観を保つために昭和5年に都市計画法による風致地区に指定されているからだ。 善福寺公園の名前の由来は、4丁目にある善福寺かと思っていたが、そうではなかった。 杉並区教育委員会によると、昔、ここの池の畔に善福寺という寺院があったが、江戸時代の大地震で池の水が氾濫し、寺は流され、その後、復興することなく、廃寺となり、池だけが残った後も、村びとたちは、善福寺池、善福寺川、善福寺村などと以前のように呼んでいたと江戸時代の風土記から説明している。 この辺りの正式の地名は、古くから井荻村、上井草村だったが、昭和39年に合併統合し、町名を善福寺とした。 他方、現在の曹洞宗・善福寺の方は、もとは福寿庵と称していたが、後に、ここの地名にあわせて善福寺と改名したもので、昔の善福寺とは時代的にも離れており関係がないそうだ。 お寺が先にあって、後にその名を町の名前したところは聞くが(高円寺、祐天寺、市ヶ谷薬王寺など)、昔からの地名を寺の名前に採り入れたのは珍しい。 ![]() 善福寺の山門前から先は下り坂になり、善福寺公園へ続く。 公園は、面積約78,000平方メートル、そのうち47%は池だが、昭和36年に市民の憩いの場として整備し、都立公園になった。 公園の池は、「上の池」 と 「下の池」 に分かれ、それぞれの池には湧水場所があり、バス通りの地下で二つの池はつながっている。 ![]() 上の写真は、「上の池」 にある昔の湧水口の 「遅野井」 を滝の形にして復元したもの。 遅野井のいわれは、源頼朝が奥州征伐に成功し、軍勢とともに井草八幡宮で宿泊した際、干ばつから十分な水を得ることができず、頼朝自らこの池の周りに7か所を指定して井戸掘りを始めたものの、なかなか地下水路を掘り当てることができず、軍勢は渇きのあまり、水の出が遅いと言って、江の島弁天の分身をここに招き、祈願したところ7か所から水が一度に湧き出たとの言い伝えから 「遅野井」 と呼ぶようになったと言い伝えられており、湧水口の前には、善福寺弁財天を祀る市杵島神社が建っている。 ただ、今では自然の湧水はいずれも涸れ、井戸水をモーターポンプで汲みあげ、池に流しているほか、池の畔にある杉並浄水所では、昭和7年以来、地下水を水道水の原水として取水し、特に、濾過せず、薬品による殺菌だけで杉並区内に配水しており、この方式をとる浄水所は、都内ではここだけだ。 ![]() 杉並区の善福寺川流域からは、広く縄文期石器が多く発掘されており、古くから農民の集落があり、善福寺川が農業用水として利用されていたことが分かる。 善福寺公園から流れ出た水は、善福寺川となって、最初の橋、美濃山橋の下を流れ、杉並区、中野区内を蛇行しながら中野区の地下鉄丸ノ内線検車区先にある和田広橋あたりで神田川と合流するが、それまでの約10キロの川に沿って遊歩道が続いている。 ただ、川は低地を流れているため、昔から、流域の住民は、しばしば川の氾濫に見舞われ、平成17年9月の集中豪雨の際は、杉並区、中野区内での浸水被害は3千戸に及び、牙をむき出した善福寺川の恐ろしさをも忘れられないであろう。
南蔵院を南に100メートルほど行くと神田川にでる。 手前は豊島区、対岸は新宿区。 その間に架かる鉄製の橋は、ごく普通のものだが、名前はロマンティックな気分にさせる 「面影橋」。 都営唯一の路面電車、荒川線も趣を添える。 フォーク・グループ、かぐや姫の 「神田川」 は、この辺りの光景をイメージしたとの噂も分かる気がする。
![]() 新宿区側の川沿いに立つ区の案内板には、面影橋は、昔、「姿見橋」 と呼ばれ、そのいわれは、在原業平が鏡のような水面に姿を映したという説、家光が鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけたという説、この近くに住んでいた娘が、その美貌がもとで数々の悲劇が起きたのを嘆き、川に映る自分の姿を見ながら和歌を詠んで身を投げたという説のほか、面影橋と姿見橋とは同じとする説、別とする説をあげているが、いずれも史実は判然としない。 昔、神田川を平川といった頃、家康がこの川を江戸の飲料水に利用するために改修に着手し、二代将軍、秀忠が、神田台(現在の本郷台、駿河台)に掘割を作り、一方を、江戸城の北の守りの外濠にし、他方を水道橋から隅田川へと分け、この人工川が神田川の名のいわれだ。 しかし、天保年間(1830~1844年)に刊行された 「江戸名所図会」 には現在の面影橋の位置に 「俤の橋・姿見橋」 があり、安政4年(1857年)の「江戸切絵図」にも 「姿見橋」 は載っているのに神田川の名はないので、神田川、面影橋が正式の名前に決まったのは明治以降のことだろう。 ![]() 神田川のこの辺りから下流の江戸川橋一帯は、山吹の里といわれて、両岸には山吹が生い茂っていたところで、面影橋の北側に 「山吹之里」 の石碑が立っている。 石碑には他に細かい文字も彫られており、誰かの供養塔として貞享3年(1686)に建てられていたものを転用し、ここに置いたと考えられると豊島区教育委員会の掲示板にある。 また、昭和63年の発掘調査で、対岸の新宿区一帯から中世遺跡がみつかり、鎌倉街道への通り道として、集落のあったことが推測される場所でもある。 また、この場所は、大田道灌が鷹狩りに出て、俄か雨に遭い、とある農家で雨具を借りよう立ち寄った際、若い娘が黙って庭の山吹の一枝を差し出したという逸話は、面影橋付近だったといわれている。 ところで、道灌に山吹の花を差し出したあの娘は誰だったのか。 調べたところ、あの娘の墓が新宿6丁目の大聖院(だいしょういん)にあると分かり、出かける。 ![]() 副都心線の東新宿駅で降り、地図を頼りに、それらしい方角へ行くと、人通りの少ない、崖下にある道に面して、西向天神社の正面鳥居の前に出た。 その石段を上ると、本殿の境内に古びた建物があり、天台寺門宗大聖院の表札が掛っている。 ここには、大聖院に伝わる古文書、古記録類の文書が保管されており、新宿区登録有形文化財に指定されていると新宿区教育委員会の掲示板にあったが、建物の外観は、寺院らしくない。 どの入口も窓も締め切られ、これが本堂なのか文書庫なのか、それとも僧侶の私宅なのかさえ分からないまま、横目に見ながら先に行き、木戸(上の写真参照)を開けて先に行くと、広々とした駐車場に出たが、墓所はなく、道を間違えたかと見まわした。 後で調べたところ、大聖院は、西向天神の別当寺だったが、明治時代の神仏習合制度廃止後も神社の文書を継承し、現在もそのままだと分かった。 ![]() その駐車場の目立たない片隅に、生花を供えたあの娘 「紅皿」 の墓があった。 新宿区教育委員会の 「紅皿の墓」 の掲示板には、山吹の里伝説に登場する少女の墓と伝承される中世の板碑(一基)、灯籠(ニ基)、水鉢(一基)、花立(ニ基)は、新宿区指定史跡とあった。 鷹狩りから戻った道灌から山吹の里で雨具を借りることができなかった話を聞いた側近が、その娘は、後拾遺集にある後醍醐天皇皇子の詠んだ和歌に事寄せて、蓑のないことを伝えたのであろうと言われて、道灌は己の無知を恥じ、これを機に和歌の道に励み、紅皿を城に招き、和歌の友とした。 道灌の死後、紅皿は尼になり、大久保に庵を建て、道灌の菩提を弔い、死後、この地に葬られた。
今年は、世界的にも天災の当たり年だ。 1月には、ブラジルで豪雨による洪水と土砂災害。 宮崎、鹿児島県境の新燃岳は1959年ぶりの大噴火。 2月には、ニュージーランド南部で直下型地震。 3月には未だ興奮止まない東日本大地震。 4月にはアメリカ南部での米観測史上2番目の大竜巻。 6月には、南米チリでアンデス山脈の火山が約50年ぶりの大噴火。 9月には、インド北東部でM.7弱の地震、そして、台風12,15号が近畿から北海道を吹き抜け、河川氾濫、土砂崩れ災害をもたらしたが、まだ今年は2か月を残しており、今度は何所かと不安に思う人も多いだろう。
![]() その台風一過、猛暑続きだった本州に秋がやってきた。 運動不足解消にと、池袋駅東口の明治通りを新宿方向へ歩く。 1.2キロほど行き、目白通りと立体交差の下を抜けると東京でただ一つの都営路面電車、早稲田-三ノ輪橋間の約12キロを1時間ほどかけて走る荒川線が現れる。 ![]() 高度経済成長期に路面電車が交通渋滞の元凶視された中で、荒川線の価値が、JR駅との連絡の便利よさと車の排ガス公害問題で見直され、それに、ユックリズムの家族から沿線観光の要望が重なり、ワンマン運転手のチンチン電車の人気は高まる一方だ。 ![]() 「学習院下」 停留所(荒川線では駅とは言わない)手前の踏切を渡ると、車が往来する道路では都内一番の急な坂 「のぞき坂」(勾配23%)にでる。 この辺りは、関口台地と神田川沿いの低地域を結ぶ坂道が多いところだ。 坂の上から下りてきた中学生に聞くと、ここは通学路だという。 この坂を登下校するだけで体が鍛えられ、生涯、思い出の坂になること間違いない。 それにしても、のぞき坂の名の由来はなんだろう。 ![]() 坂を下り、高南小学校の脇道を通って、金乗院(こんじょういん)へ行く。 ここは天正年間(16世紀)創建の真言宗の寺院だが、昭和20年5月の空襲で焼失し、昭和46年再建とある。 この寺院を訪れた目的は、家綱の治世に由比正雪らとの幕府転覆クーデター未遂事件(慶安の変 1651年)で磔の刑に処された丸橋忠弥の墓。 当時、処刑された罪人の遺骸は、無縁墓に入れるのが普通だったから、丸橋忠弥の墓がここにあるというのは、忠弥を信奉した人が密かに遺骸を持ち出したのだろう。 そう言えば、品川にある妙蓮寺にも丸橋忠弥の首塚があるくらいだから、当時、この事変に喝采を送った抑圧されていた浪人、平民たちが少なからずいた証拠だろう。 ![]() 金乗院山門前の上り坂は、目白通りへ続く 「宿坂」。 昔、ここは宿坂の関のあったところで、豊島区ホームページによると、300年ほど前は樹木が茂り暗闇の坂道だったので、別名、「くらやみ坂」 ともいわれ、練馬方面から江戸に行くのに,ここで1泊しなければならなかったため、宿坂と名がついたとのこと。 ![]() ![]() 今回の散策のもう一つの目的は、慶応4年(1868)、上野の山で官軍に敗れ、105人が討ち死にしたと言われる彰義隊士のうちの9人の首を埋葬した墓のある南蔵院を訪れることだった。 彰義隊については、すでに、このブログで上野戦争(10/6/26付け)と南千住の円通寺(10/9/16付け)をテーマに2回載せたが、ここにもあるとは今まで知らなかった。 さぞかし立派な墓石かと思いながら境内を探し回ったが見つけきれず、事務所の方のご案内でお参りができた。 境内の通路脇に立ち、たくさんの卒塔婆が供えられてはいたものの、首塚そのものは目立たない小さい自然石で、そこに彫られた文字は風化し判読困難だった。 恐らく、この首塚は、明治7年(1874)になって、ようやく政府の許可が下りて、墓が作られた上野公園内の一角や円通寺よりも以前に、ここに密かに遺骸が運ばれ、埋葬されたのではなかろうか。 合掌。
いまでこそ、西武線の練馬駅には、有楽町線、大江戸線、副都心線が乗り入れ、都営、私営の5社のバスステーションが整備され、西武線だけでも毎日11万人近い乗客が乗り降りする駅だが、練馬区が板橋区から独立した昭和22年以前は、町と付くのは練馬駅周辺の練馬町だけで、それ以外は、中新井村、石神井村、大泉村など 「村」 だった。
中村橋駅-練馬駅-桜台駅の各駅前を流れていた千川(現・千川通り)は、江戸時代に、玉川上水を今の西東京市と武蔵野市の境にある境橋あたりで分水し、江戸の小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺への給水を目的に掘削した川で、江戸の武家屋敷、町屋でも飲料水として使われ、後には、農業用水にも利用し、明治以後は、東京水道局が昭和46年まで取水していた上水だ。 子どもの頃、練馬駅前の通りを流れる千川の両岸には桜並木があり、個人商店が並んでいた。 幅3、4メートルほどの川ふちには、転落防止の柵もなく、普段は流れも遅く、あまり澄んでもいなかった。 うろ覚えだが、「上水につき立ち小便禁止」 といった文句の立て札が所どころ立ち、これが水道水になるのかと思いながら木橋を渡って登下校した。 都市化の進展に伴って、都心側から千川の暗渠化が進み、練馬駅前の千川が消えたのは昭和28年で、今では千川通りの名前だけを残し、交通量の多い商店街に変った(下の写真は、現在の千川通り、大江戸線練馬駅入口)。 しかし、千川に掛かっていた中村橋からとった中村橋駅まえ千川通りの方は、暗渠にした上に植え込みがあり、昔の面影をとどめている。 ![]() 一方、区役所のある目白通りは、都心のビル街と変わりなくなったが、昭和14、5年頃は、広々とした農地を切り開き、コンクリートの道路建設工事の最中で、「十三間道路」 と呼ばれ、練馬では一番広く、見通しの良い直線道路だった。 街路樹は、まだ若木だったが、電柱がなかったので、緊急時に軍用機が滑走路に利用する道路という噂も耳にした。 というのも、現在の光が丘団地は、当時、成増陸軍飛行場があった場所柄、その噂には真実味があった。 しかし、戦局が日増しに悪化し、重大期を迎えるに従って、工事は中断され、代って道路脇には、家庭菜園が増えていった。 戦後、十三間道路は、千川通りと交差し、「清戸道(きよとみち)」 につながり、目白通りと名をかえた。 清戸道とは、江戸時代に清瀬と江戸を結ぶ道として名付けられたもので、昔を知る住民は、まだ、そう呼んでいた。 ![]() 千川通りと目白通りとの間に、大鳥神社がある。 戦後しばらく、神社の周りは、食料品店、衣料品店、雑貨店への買い物客がひしめき、活気のある路地だったが、いつの間にか飲食店街となり、昼間は閑散とした通り道でしかなくなり、大鳥神社も昔と比べるとお参りする人も遊んでいる子どもも減った気がする。 ここで、ちょっと不思議な話を二つしよう。 西武線練馬駅から上り線で二つ目の江古田駅で下車しても、付近には江古田町はない。 江古田町は、江古田駅からかなり南に離れた練馬区と隣接する中野区に入ったところに1丁目から4丁目まであって、そこの小学校は、江古田小学校である。 公式には、江古田駅は 「えこだ」 と読み、中野区の江古田町は 「えごた」 と、読み方が違うだけでなく、江古田町へ行きたいひとが、江古田駅で下車して江古田町へ行くには、JR中野駅行きの関東バスを利用するのが無難だ。 何故、場所の呼び名が二つに分かれたのかはっきりしないが、とにかく、初めて江古田駅に降りた人を戸惑わせる所だ。 もう一つの不思議は、バス路線の話。 JR中野駅から練馬区方面へ行く路線バスは、駅北口には関東バス停が、南口には京王バス停があって、西武線の中村橋、練馬、江古田の各駅へ行くのには、2社が重複、近接した道を走るので、便利だ。 ところが、この路線の一部に、1日に1本。 それも早朝だけ。 単独路線を走る 「中村橋」 行きの往路だけで、中野方面への復路がないという不思議なバス路線がある。 JR中野駅から中村橋行きの関東バスは、中野道から左折し、新青梅街道を通り、江古田(えごた)1丁目にある関東バス丸山営業所を通って行くのだが、朝6時20分に丸山営業所を出庫する中村橋行きのバスだけは、下徳田橋から他の関東バスは二又交差点を右手に行き、「豊玉南1丁目」 のバス停に行くのに、このバスだけは左手に行き、次の 「中新井橋」 停に6時23分に着き、それから、氷川神社、西本村橋などのバス停を通り、「中村3丁目」 のバス停まで他のバスが通らない単独区間を走り、その先で、通常の路線と合流して中村橋へと向かう。 ![]() ![]() 因みに、中新井橋バス停の前には、カトリックの女子修道院や高層マンションがあり、交通量は少なく、閑静な住宅街がずっと続いている。 日曜、祝日、平日を問わず、1日1本しか来ないのに、通常の路線バス同様、車内放送をし、停留所案内表示をしながら走るという不思議なバスに、わざわざ早起きをして、出かけて来る元気も湧かず、残念ながら乗ったことがないが、一体、どんな乗客が毎日、何人くらい利用しているのか想像もつかない。 好奇心の強いお方からの体験談をお待ちする次第だ。 なお、このバス路線についての記事は、「関東バス・アーカイブス 「味わい」 路線解説(中24-1)」 を参考にさせて頂きました。
今年の東京は、6月下旬から気温30度を越す日が多い。 熱中症をおそれ、町歩きは控えてきたが、戦時中から住み慣れたわが町ならば数時間で回って帰れるだろうと、スポーツドリンク持参で出かけた。
西武池袋線練馬駅北口から文化センター沿いの日陰道を通り、南町小学校からなだらかな坂を下って行くと四辻の角に白山神社ある。 ![]() ![]() 鳥居をくぐると、本殿への石段の下と上に茂る二本のケヤキの大木は、区教育委員会の掲示板によると、永保3年(1083)に源義家が後三年の役で奥州征伐に下った時、この社で戦勝を祈願して奉納した苗の一部と伝えられ、天然記念物に指定されている。 鎌倉時代に、この辺りには集落があった証拠として、神社の付近からは、弘安4年(1281)などの板碑が多く発掘されている。 それにしても、義家が京都を出発し、数万の軍勢を率い、奥州での戦いに向かう途中に植樹までしたというのは、いかにも悠長な時代の気もするが、800年以上の樹齢を保ってきたケヤキの生命力の逞しさには圧倒される。 白山神社から豊島園通りに出ると、まもなく、通りに面して 「浄土宗田島山十一ヶ寺」 の石碑が立っている。 町の一角を占める広大な敷地内には、間に道を挟んで、左側に6軒、右側に5軒の寺院が建ち並び、その先には、寺院ごとの墓地がある。 十一ヶ寺とは俗称で、もとは誓願寺といい、江戸時代に小田原から江戸の神田に移転、その後、江戸の大火、振袖火事に遭って浅草に移転、さらに関東大震災で11の寺院がここに移ってきた。 墓地には、江戸時代からの古い墓石も多い。 この11の寺院の表札には、すべて 「何々院」 とあり、寺のつく寺院のないわけは、仏教の門外漢なので分からないが、いかにも寺院らしい名のほか、「假宿院」(ケシュク院)や 「快楽院」(ケラク院)などは、どうのような意味を込めて名づけられたのか分からない寺院もある。 また、九品院の入り口には 「蕎麦喰地蔵尊」 があり、その横で仏僧2人がソバを食べている石像が目を引く。 ![]() ![]() 九品院の 「蕎麦喰地蔵尊」 縁起には、振袖火事のあと、浅草田島町に移転した誓願寺から近いところにあった浅草広小路の蕎麦屋、尾張屋に毎晩きまって四ッの鐘が鳴ると、蕎麦を食べにくる坊さんがいた。 蕎麦屋の主人が一体、どこのお寺の坊さんかと尋ねたが、はっきり答えない。 さては蕎麦好きの狐か狸が化けているのではと、正体をつき止めるため、蕎麦を食べ終わり、いつものように満足して帰る坊さんの後をつけていくと、袈裟衣の黒い影は、田島山誓願寺の山門をくぐり、西慶院境内の地蔵堂の中へ消え、御像に後光が射すかに見えた。 その夜、寝床に就いた主人の枕元で 「われは西慶院地蔵である。 日頃、汝から蕎麦の供養を受けまことに忝い。 その報いには、一家の諸難を退散し、特に悪疫から守って遣わそう」 と厳かなお告げ。 それ以来、主人は毎日、西慶院の地蔵に蕎麦を供え、祈願を怠らなかったが、ある年、江戸に悪疫が流行し、死人が続出、野辺送りの列が絶えなかった時、人々の悲しみをよそに、尾張屋一家はみな無事息災だったという話を聞いた人々が、誰いうとなく、願をかける時、あるいは願成就の折には、御礼として蕎麦を供養せよ、と蕎麦喰地蔵尊の名は江戸六地蔵の随一として著名になった、とある。 明治の末に西慶院が隣の九品院と合併したが、関東大震災でこの地に移転後、この地蔵尊は、信徒たちの浄財で建てたもの。 ただ、現在、浅草雷門にある老舗のそば屋、尾張屋は、創業明治3年とあるから、蕎麦喰地蔵の話とは別かもしれないが、確かめていない。 (つづく)
天候さえ許せば、いつもダンクと通う石神井公園。 またの名を、ノラ猫天国。
ここを訪れる散歩の常連は、それぞれ、ノラに名前を付けて呼び掛ける。 何と呼ばれても、すぐそれに応えるのは、ノラの適応力のよさ。 今は4匹しかいないけれど、ゴハン時には6匹くらい集まる。 3年ほど前からにここに住みついているので、「3年白組」 と 「3年黒組」。 メスの洋ネコは、「ヨウコ」。 ![]() この辺りを縄張りにするのが、1年ほど前からやってきた3匹のシロと、その前からいるこげ茶トラ2匹。 この連中は、人見知りして、あまり、近寄らないが、1匹を捕まえると、後も寄ってくる。 ![]() 「なんじゃ、首のバンダナは?」 と、保冷剤を首に巻いたダンクに興味津々。 この連中は、4年くらい前からいる6匹仲間の2匹。 白黒が 「デン助」、もう一匹が 「お父さん」 と、給食係りのボランティアさんからそう呼ばれている。 ![]() 下の茶トラの方は、3年ほど前から住みついている。 6匹一緒に置き去りにされたので、名前は、それぞれ、イー、アール、サン、スウ、ウウ、リュウと中国名。 この茶トラは、イーちゃん。 仲間のうちの2匹は里親に引き取られたそうだ。 その隣の白茶は、ここに来て、まだ2カ月足らず。 飼われていた時の気分が抜けず、人なつっこい。 カメラを向けたら、ストラップにじゃれてきた。 ![]() ネコ置き去り禁止の看板が立っているものの、ノラ天国は消えそうにない。 ![]()
フランスの文豪、モーパッサンとの最初の出会いは、中学、高校生のころ、世界文学全集で読んだ 「女の一生」 だった。 話の筋は殆ど覚えていないが、ずいぶん暗い話だと思った記憶がある。 ただ、この小説の題名、Une vie を 「ある人生」 といった中学生の訳ではなく、女性不定冠詞をちゃんと生かして、「女の一生」 とした翻訳者の文学的才能の素晴らしさには感動したし、また、女主人公の、C’est la vie !(これが人生さ)の言葉で終る本文の格好よさにすっかり惚れて、得意がって、連発したことも忘れられない。
無駄話はさておき、こんな昔話を思い出したのは、先日、図書館でモーパッサンの 「ロックの娘」(大田浩一訳、パロル舎発行)という手頃の厚さの本を見つけたからだ。 8編の作品のうち、「ロックの娘」 と 「モアロン」 は、いずれも、殺人事件をテーマにしたものだが、サスペンス小説の類ではない。 社会的に人望を集めていた主人公が殺人鬼に豹変する動機、あるいは、犯行後の心の動きが描かれていて、奥が深い。 「ロックの娘」 の筋はこうだ。 妻と死別後、家事を使用人に任せて生活する村長が、夏の夕涼みに自分の敷地内の森を散策中に、ロックの家の12歳くらい少女が一糸まとわず、森の中の川で水浴びをしている姿に欲情を燃やし、犯してしまう。 発覚すれば身の破滅と直ぐに気付き、慌てて金でかたを付けつけようとするが、騒がれて殺害してしまう。 娘の衣類は川の深みに隠し、遺体はそのままにして、遠回りして、いつもの夕食時に帰宅した。 翌日、犯行現場を通りがかった郵便配達人が裸の少女の遺体を発見し、村長に告げる。 村長は、早速、警察、役場の書記、医者を手配し、自分も郵便配達人に案内をさせて現場へ急行する。 事件を聞いて予審判事、憲兵隊長、司祭らが駆けつけ、そしてヤジ馬たちも集まってきた。 昨夜から行方不明の娘を案じていた母親は、裸姿の娘の遺体に取りすがり号泣し、衣類が見当たらないと叫ぶ。 村長も皆と一緒になって、娘の衣類を探すが見つからない。 ところが、その翌朝、母親が家の戸口を開けると、そこに娘の木靴が一足、揃えて置いてある。 犯人は、昨日、役人たちが検証した現場に居合わせた村びとであり、母親に同情して娘の形見を置いたに違いない。 早速、日ごろ、評判の良くない幾人かが疑われ、逮捕されたが、いずれも無実と分かり、捜査は、夏中かかっても進展しない。 村びとの間に、殺人犯は今も村の中に住んでいるのではないかとの恐怖感と疑心暗鬼が広がる。 村長は、捜査が続けられていた間は、終日その対応に追われていたが、捜査が打ち切られ、一人になると、彼に犯され、絞め殺された娘の幻影に付きまとわれ、良心の呵責からではなく、後悔の念から疲労困憊の毎日に打ちのめされ、自殺を考える。 しかし、村長が自殺したとなると、その原因が追究され、彼の犯行が明らかになれば、これまでの名声も、また、代々、続いてきた家の名誉にも傷が付くのは明らかで、自殺するわけにいかない。 そこで、彼は、親しい仲の予審判事に罪を自白し、犯行を内密にするように依頼した手紙を投函した後、家の高い塔の上に立つ旗竿の修理中に、誤って転落する事故死を装うことに決める。 だが、いざとなると、決心が揺らぎ、先刻、投函した手紙を取り戻そうと郵便集配人の来るのを待って返却を求めるが、規則を盾に頑として応じない。 村長は、咄嗟に、塔に駆け上がり、壊れた旗竿の修繕を装い、旗竿を激しく揺らしたはずみで塔の上から転落死する。 もう一つの話、「モアロン」 は、ある地方の教師による殺人について元検事総長の口から語られる奇妙な事件。 モアロン氏は、聡明で、思慮に富み、信仰心があつく、その地方では、どこでも評判がよかった教師。 彼には3人の子どもがいたが、3人とも胸の病で亡くし、それからは子どもへの愛情をすべて教え子に注ぎ込む。 中でも、一番の優等生には、賞として、自腹でおもちゃを買い与えたり、砂糖菓子やケーキなどを食ぜべさせたりするほどの善意の心の持ち主で、誰からも好かれ、信頼されていた。 ところが、ある日、彼の生徒5人が相次いで、食欲がなくなり、腹痛を訴え、苦しみながら死ぬという奇妙な事件が起こる。 伝染病を疑い、死体解剖もしたが毒物は発見されなかった。 その1年くらい後になって、またもモアロンのお気に入りの優等生2人が相次いで死亡。 検視の結果、今度は、どの死体からも細かく砕いたガラスの破片が内蔵器官に付着しているのが見つかる。 たまたま、モアロンが生徒のために買い置いた砂糖菓子を盗み食いした女中が、死んだ子どもと同じ症状に罹ったことから、菓子類を調べたところ、そのほとんどにガラスのかけらや折れた針の破片が見つかり、モアロンは容疑者として逮捕される。 しかし、日ごろから思慮、人望が高く、信心深いと評判のよい男がなぜ生徒たちを殺そうとするのか、動機が全く掴めない。 彼は、自分を陥れようとする者の仕組んだ罠だと自信をもって主張するが、彼の犯行を裏付ける証拠が次つぎに現れ、死刑を宣告される。 しかし、獄中でモアロンと接してきた司祭もまた、彼の犯行に疑いを感じ、特赦を申し出て来た。 検事総長は、考えあぐねた末、国王に恩赦を求め、皇后も、神の要請に従う司祭の言葉を無視して、無実の人を処刑するわけにはいかないと、特赦の決定を出し、労働刑に減刑する。 何年かがたち、事件が忘れられたころ、刑務所の司祭が検事総長を訪れ、一人の瀕死の囚人が会いたがっていると彼との面会を依頼され、出かける。 そこで、病床のモアロンに再会。 彼は、検事総長に犯行の一部始終を告白し、これまで犯行を否認してきた理由を話す。 モアロンが教え子たちを殺害したのは、神が彼の3人の子どもの命を奪ったからだという。 神は、命あるものを殺すのが好きなのだ、神が生き物に命を与えるのは、もっぱらそれらを殺すためであり、そのために、神は、病気、事故を考え出し、狩猟で動物を殺す楽しみを人に教え、時には、戦争を起こして何十万もの兵士の命が奪われるのを喜んで見ている邪悪な存在だと言う。 子どもたちを次々と殺したのは、モアロンであって、神ではないと、神にひと泡吹かせてやろうとしたからだと語る。 そして、裁判で自分がギロチンにかけられることになれば、さらに神を喜ばすことになるので、司祭を呼び、嘘をついて、特赦を受け、生き延びることができたが、それも今ではできなくなった。 しかし、「神なんか恐れてなんかいません。 あんなやつは屁とも思っていません」 と薄笑いする男と検事総長は別れ去って行く、ところで物語が終わっている。
ミュンヘン生まれで47歳のフェルディナント・フォン・シ-ラッハ氏は、現役の刑事事件弁護士。 現実の事件をもとに2009年に出版した処女作、「犯罪」(Verbrechen)は、ドイツで発行部数45万部のベストセラーとなり、今年6月、その邦訳書が発売された。 11編からなるこの短編集は、いずれも普通の市民、中には、社会的地位が高く、尊敬されるような人が運命の巡りあわせとしか言えないようは犯罪事件の加害者になる不条理を描いたものだ。 もしかしたら、あなたの周辺にもありそうな話だ。
その中の一編、「フェーナー氏」 について紹介しよう。 ボタンの掛け違いを正すには、初めからやり直さなくてはならないという、誰でも知っていることを自分の信条からもとに戻れず、悲劇を招いた男の話である。 フェーナー氏は、ミュンヘン大学で医学を学び、国家試験を目前に控え、あるパーティーで薬局を営む両親と一緒に招かれたイングリットに出会う。 24歳の彼は、この3歳年上の田舎風の美人のウェイトレスに一目ぼれし、彼女もハンサムで真面目そうな彼と意気投合。 一週間後に、彼はプロポーズし、結婚式で終生の愛を誓った。 彼は、優秀な成績で国家試験に合格し、博士号をとり、地方病院の勤務医として幸せ一杯の気持ちで任地へ着いた。 そこで、最初のボタンの掛け違いが起きた。 新居に移り、引っ越し荷物を開いた時、イングリッドがフェーナーのレコードコレクションを廃棄してしまってことを知り、愕然とする。 「他の子と聴いたに決まっている」 レコードには我慢ならなかったという彼女の言い分に激怒するが、新婚早々のことと堪えたものの、家具、カーテン、寝具、敷物の趣味も二人は全く反していることに気づく。 やがて、彼女は、フェーナーのナイフの持ち方が気に入らないだの、ゴミを捨て場に持って行かないだの、自分勝手だの、体臭がきついだの、帰宅が遅いのは浮気しているなどの連日の小言にも彼は弁解せず、耐え、妻に従った。 数年後には、口汚い罵声を浴びせられ、妻の機嫌を損ねるとフライパンが飛んできたが、彼は言い争うことをせず、昼間は、父から引き継いだクリニックで患者の診療に専心し、帰宅後はイングリッドの小言を聞きながら夕食をとり、夜中に起き出しては、SF小説を読み、ジョギングと、妻と一緒に寝ない日が続く。 50歳で父母からの相続金で町はずれに家を買い、庭での園芸に楽しみを見つけた。 68歳でクリニックを人手に渡した後は、早朝から家を抜け出し、園芸作業後のコーヒーで一休みを楽しむ日課。 72歳になったフェーナーは、いつものように作業後、コーヒーを飲みながらくつろいでいた。 その時、イングリッドの罵声が飛んできた。 フェナーは地下室に彼女を呼び、斧で彼女の頭に一撃を加え、さらに17回も斧を振り下ろして首、手足まで切断し、警察に電話をかけた。 フェーナー氏の妹からの依頼で本書の著者が弁護人に指名され、参審員裁判が開かれた。 参審員も証人たちも、彼の一家は、古くからこの地に住み、代々、医者や裁判官や薬剤師を輩出した旧家で、彼は開業医のかたわら、エジプト文化会の会長、ライオンズクラブの会員として信頼できる人物であることを知っており、フェーナー氏の人柄を称え、突然の犯行に同情した。 検察官は、被告人には離婚するという選択肢があった筈だと、禁錮8年を求刑した。 ドイツの刑事裁判では、最近、証人に義務付けられてきた宣誓が廃止され、宣誓はとうの昔に信頼を失っていたのに、フェーナー氏は、結婚式で本気で交わした彼女への宣誓の呪縛から逃れられず、これを破ることは裏切りと信じきってきた。 彼は、裁判の最終陳述で、今も妻を愛しており、死ぬまで愛し続けるとの誓いを破ったことを悔い、判決に服すると述べた。 裁判では、犯行は自明で争点はなかったが、量刑が問題になった。 二度と殺人を犯す可能性のない彼に応報的刑罰を科すことの意味が論じられた。 判決は、夜間は刑務所で過ごし、日中は、職業として、自宅の果樹園から収穫したリンゴを販売する条件で、開放処遇下での懲役3年が言い渡された。
以前、このブログで、日本には窃盗犯についての専門書がないと書いたが(今年3月8日付)、その後、これを否定するような本が出た。 「大泥棒」(東洋経済新報社)という砕けた書名だが、学術書として遜色ない内容の440ページほどの大著。
この本の出版のきっかけは、著者の清永賢二氏(日本女子大客員教授)が、「賊」 を自称する侵入窃盗犯、「忍びの弥三郎」(仮名)の6年間にわたって毎日、書き残した獄中日記を本人から譲り受けたことに始まる。 「忍びの弥三郎」 は、捜査関係者の間では有名な天才的技をもつ賊と定評のあった窃盗のプロで、刑務所入所歴9回、64歳までの人生のうち33年間、ムショで暮らし、出所後死去。 侵入窃盗犯の彼が 「賊」 を自称するのは、他人を殺めることなく、狙った獲物は必ず得るとの信念をもち、盗むために必要な高度の技術を身につけていたからだ。 脱線するようだが、明治のスリの大親分で常に数百人の子分を擁していたという 「仕立屋銀次」 こと富田銀蔵が、2回しか服役しなかったのと比べると、入所歴9回の持ち主を天才的技を持つ賊と評することには、ためらいを感じないでもないが、刑務所出所の直後から、見事な手口で忍び込み(侵入窃盗)を48回も繰り返したというプロが書き続けた日記だけあって、著者は、これをそのまま公表すると、犯罪に悪用される虞があるとして、伏字の部分を数箇所設けている。 ただ、看守の監視のもと、いつでも検閲される状況下で書いたこの日記は、「6年間の刑務所暮らしをつとめた男の日々の暮らし、自分のような生涯を送る者がないように求める戒め、一般市民が被害者とならないための防犯上の忠告を書きつられた」(16頁)反省日記、防犯日記のスタイルをとってはいるものの、プロの犯罪者が見れば、彼が刑務所内の懲罰を巧みに回避しながら、自身の犯行の足跡を顧みて、犯行に有効だった手口は何であったか、獲物を捕り損なった失敗の原因は何だったのかを、「看守以外の誰にも邪魔されす、最新の犯罪技術を無料で習得、再履修することができる高度職業専門学校」 でもある 「刑務所という犯罪学校で綴られた犯罪手口学習ノートであり教科書であることが分かる」 ものだ(31頁)。 そこで、この日記の 「裏」 を解読するために、専門的コメンテーターとして、著者と20年近い付き合いがあり、今では、ひっそりと市井で暮らしている69歳のもう一人の 「賊」、元侵入窃盗犯の助けをかりている。 彼もまた、その忍び込み(侵入窃盗)の技の高さから、警視庁元捜査官や窃盗仲間たちから 「首相官邸でも彼だったらやっただろう」 と評価を受けたほどで、14歳に窃盗で少年院に入って以後、何度も刑務所暮らしをした後、51歳になって初めて結婚し、その後 「盗人稼業」 を辞めた人物。 更にもう一人、犯罪予防論からの専門家、ステップ総合研究所(Safer Town Environmental Programme(環境設計による安全なまちづくりの頭文字STEPを会社名とする犯罪防止調査研究所)の主任研究員の川嶋宏昌氏を獄中日記の解読チームに加え、犯行現場、上の元窃盗犯による犯行実演、犯罪をやる気にさせる街の環境、侵入しやすい作りの家、貴重品の保管場所など、被害者の 「隙間」 を示す写真がかなり豊富に掲載されている。 例えば、一戸建ての家の1階部分には防犯対策が取られている家でも、2階は無防備の家。 外壁にある雨どいやエアコンの管を上って2階窓からの侵入手口。 隣家と2メートル以上離れていない家は、侵入するにも逃走するにも便利なこと。 モルタルにネジ止めしたアルミサッシの窓格子は、簡単に手で押し曲げられること。 家屋に貼ってある警備保障会社のラベルは、財産持ちの家の目印にもなることなど、いずれも、「まさか」 と思うところが犯罪者に狙われると、一般人の防犯上の常識と犯罪の玄人の見方には相違のあることを示している。 中でも傑作なのは、泥棒が建てた、泥棒に入られないための寸分の隙もない泥棒御殿の写真(226頁)。 この防犯一点張りの無粋な家屋ほどでないまでも、家を新築する際、防犯設備を備えると家屋への保険料が安くなるイギリスの制度は一考に値する。 また、この書が、たんに興味本位のものでないことは、証拠資料として、著者が警視庁科学警察研究所に在勤中、261人の元専門的犯罪者から集めた 「犯罪者の行動分析調査報告書」 の各種基礎データを用いて、犯行時の心理、犯行のしやすい場所、侵入しやすい家屋、被害者の精神的インパクト、被害品の回復率などを統計で示すほか、元侵入窃盗犯人、元強盗犯人、元侵入強姦犯人の3人からの聞き取り調査の結果も提示する。 犯罪行動の解明には、これまで、社会学、心理学、精神医学など行動科学の面からの調査研究方法が主にとられてきたが、著者の清永氏は、今後、「犯罪行動生態学」 の必要性を主張する。 それは、古くからある動物生態学の方法と同様、「犯罪者と彼らを取り巻く(物理的あるいは社会的)環境との相互作用(やりとり)について、犯罪者の行動を緻密にただ観察することで、たとえ彼らとの会話を交わさなくても、彼らが被害者にどう襲いかかるのか、どう逃走するのか、彼らの行動に周辺環境がどう影響するのか等を明らかにし、犯罪者の被害者襲撃行動や被害者選択・逃走方式など」 を理論化する学問の必要性を説き、本書がその最初の一歩となることを期待している(428頁)。 なお、窃盗犯について、本書と同様のアプローチの専門書のうち、邦訳されている海外の本として、アメリカの社会学者、E.サザーランドと窃盗専門犯人、C.コンウェルの共著、「詐欺師コンウェル」(新曜社)、それに、D.W.マーラーの 「スリのテクノロジー」(青弓社。この本には、別に、法制史研究家、尾佐竹猛氏の 「賭博と掏摸の研究」 下巻 「掏摸編」 が一部掲載してある)を薦めたい。
死刑制度については、以前から気に掛りながら、あえて避けてきたのは、戦前から死刑の存続・廃止を巡って、個人の信条や実証できないことを推測し、論争に興じる学者たちの水掛論の多さにうんざりしていたからだった。
しかし、1990年代以後、死刑制度の廃止国が急に増え、すべての犯罪に対して死刑を廃止した国が95か国、軍法下の犯罪など以外の通常犯罪に対する死刑廃止国が9か国、過去10年以上死刑を取り止めている事実上の死刑廃止国が35か国の計139か国と、死刑廃止国が世界の大勢を占めてきた中で、先進国では日本と米国(うち14州は死刑廃止)だけが死刑廃止に反対し、いつまでも世界のすう勢に逆行し続ける姿勢への疑問や近年、死刑やそれと僅差の無期懲役刑の確定者の無実が続いて明らかになるのをみて、従来の刑事政策に矛盾を感じるようになった。 国連の世界人権宣言の法的な裏付けとなる国際人権規約が1976年に発効し、日本も79年に批准した。 しかし、死刑を人権問題として、89年12月、国連総会で取り上げた死刑廃止条約の採決に日本は反対にまわり、「総論賛成、各論反対」、タテマエとホンネの違うお国柄を世界にさらけ出す格好になった。 国際人権規約は、死刑を直ぐには廃止できない状況にある国の事情を考慮し、それらの国には、廃止に向け、死刑が適用される罪の数を減らし、執行を減らすなどの努力を求めたが、この暫定措置を 「死刑の廃止を遅らせ又は妨げるために援用されてはならない」(第6条6)と釘を刺し、その努力の成果を国際人権規約委員会へ毎年報告することを義務付けた。 これに基づいて、2008年10月、ジュネーブで開催された国連のB規約人権委員会で、日本の人権保障状況を審査した結果、10年前の前回審査で 「死刑廃止に向けた措置をとるべきだ」 と勧告したのにも関わらず、その対応がとられず、かえって執行数が増加したことなどに厳しい批判が集中した。 当時の日本の死刑執行人数は、97年が4人、98年が6人だったのが、その後の重罰化傾向の影響を受け、07年は9人、08年は15人と、急増したことが世界の死刑廃止の潮流に抵抗していると映ったのだ。 この会議で、日本代表は、死刑制度廃止に反対し、「国民世論の多数が凶悪犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」、「死刑制度廃止は日本国憲法に違反する」、「国連総会決議の採択を受けて死刑執行の猶予、死刑の廃止を行うことは考えていない」 などと従来からの主張を繰り返しただけだった。 これに対し、17人の国連委員の間から、「死刑によって重大な犯罪を抑えることができるのか」、「人権問題である(死刑)制度の存廃を世論調査で決めるべきでない」、「この問題では、政府が世論をリードすべきだ」 など厳しい批判的意見が相次いだ。 フランスが、1960年代に凶悪事件が増え、1980年の時点で死刑廃止反対の世論が60%だった中で、死刑廃止を公約に掲げて就任したミッテルラン大統領が1981年に廃止を決定し、18世紀ルイ16世時代から続いたギロチンと別れを告げた実績を示した。 日本代表が死刑廃止の理由に挙げた国民世論とは、1956年から総理府がほぼ5年毎に、これまでに9回実施してきた死刑制度についての世論調査に基づくものだが、8回目の2004年以後、死刑制度存続に賛成が80%以上占めている。 特に、09年の世論調査では、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」(死刑廃止派)は5.7%に過ぎず、「場合によっては死刑もやむを得えない」(死刑存続派)は85.6%と、これまで行ってきた9回の世論調査の中で最も高率だった。 死刑廃止派の理由は、「生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」(55.9%)だけが過半数で、次は、「裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない」(43.2%)、「国家であっても人を殺すことは許されない」(42.3%)の順だった。 この中で誤判の危険性を死刑制度廃止の理由にあげたのは、半数に満たなかったが、傾聴にあたいする意見だ。 人間には誤った判断が付きものだし、いくら裁判が慎重審議を重ねても誤判の可能性は完全に拭えないことは、これまでの重大事犯の冤罪事件からも明白だ。 ましてや、長年続いた供述調書中心の捜査と裁判が違法・不当な取り調べを生んだり、有罪に不利な証拠隠しが日常的に行われていたりしたことが明らかになり、刑事司法の改革が叫ばれている現在、確実な証言、物証のない状況証拠だけの死刑判決は冤罪を生む危険性が大きい。 人権重視の刑事政策を望むならば、「ごく稀に無実の者が処刑されても、犯罪予防に役立つならば仕方ない」、「死刑を廃止すれば、日本は犯罪天国になる」、「死刑がなくなると、無期囚は平気で刑務官を殺傷し脱獄を図る」 などの暴言は容認できるものではない。 他方、死刑存続派があげた理由には、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちが収まらない」(54.1%)、「凶悪な犯罪は命を持って償うべきだ」(53.2%)、「死刑を廃止すれば凶悪な犯罪が増える」(51.5%)が、過半数を占め、次いで、「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」(41.7%)の順で多かった。 この中で、被害者感情を重視し、死刑の必要性をあげた人が過半数を占めたことは、被害者救済を忘れた死刑廃止論は支持されないことを示したものだ。 しかし、加害者を処刑した後でも、被害者やその家族の無念さは消えることはないだろう。 とすれば、被害者、その家族が置かれている経済的、精神的に困難な状況を少しでも緩和し、安全で安心して暮らせる生活を目的に制定された 「犯罪被害者等基本法」 の趣旨に則った継続的な支援を充実させることがまず必要条件であることは言うまでもない。 それにしても、日本の犯罪情勢が沈静化している現在、世論の85%以上が死刑を支持するのは何故だろうか。 自分の僅かばかりの正義感を表明するために、極刑に処するいけにえを必要とするのだろうか。 ずれにせよ、日本は、いま、死刑制度について再検討の時期にきていることは間違いない。 追記: 最後の死刑執行から7月28日で1年を迎えるのを機に、読売新聞(7月26日付け)のインタビューに応じた江田法相の記事を引用する。 法務省で死刑制度のあり方の議論が進められていることから、「(議論の)最中に執行することは、なかなかできる話ではない」 と述べ、当面は執行を命じない意向を明らかにした。 また、江田法相は 「人間というのは理性の生き物なので、理性の発露として人の命を奪うのは、ちょっと違うのではないか」 と死刑に対する消極的な考えを示し、そのうえで執行について 「法務大臣に与えられた権限をどう行使するか、世界の趨勢をにらみながら考えている」 と述べたとある。 法務省によると、28日現在の死刑囚は過去最多の121人に上っている。 ★ 「非行・犯罪」 をテーマにしたこのブログも今回で50回目となりました。 この機会に、別のテーマを模索しながら、しばらく夏休みに入らせて頂きます。
教師の不祥事の中で目立つのが猥褻行為など性犯罪。 文部科学省によると、平成21年度に公立小中高校などの教育職員が受けた懲戒処分者943人のうちのワースト3は、交通事故(378)、体罰(150)、猥褻行為等(138)の順で、前年度は、猥褻行為等が第2位(160)だった(「平成21年度 教育職員に係る懲戒処分等の状況について」)。
統計上、「猥褻行為等」 とあるのは、猥褻行為の動機や内容とは違うセクハラが含まれ、実態を曖昧にしているが、その相手方が自校の児童生徒(41%)、18歳未満の児童買春(25%)、その他一般人(20%)とあるのは、猥褻行為事件に違いない。 全国小中高の教職員90万人以上の中のごく一部の者による事件とはいえ、元来、猥褻事件には暗数が多く、統計に計上されるのは氷山の一角といわれており、次世代の国民を育てる役割を持ち、影響力の大きい教職員の規範意識、職務意識に陰りが広がっているのではないかと危惧される。 猥褻行為等で処分を受けた教職員の年齢層は、40歳代が全体の33%、次いで30歳代と50歳代のそれぞれ25%と、妻子のある家族持ちの多い年齢層が占めており、50歳代ともなると教育指導のエキスパート、管理職という自負心をもつ世代で、決して、若気の至りなどと弁解できる年頃ではない。 今年1月~6月までに報道された教職員の猥褻行為事件を拾ってみる。 2月に広島県で午後1時前、自転車で帰宅途中の中2女子生徒に53歳の教員歴25年の小学校教頭が軽乗用車で近づき、モデルガンを突き付けて車内に連れ込もうとしているのを目撃し不審に思った住民が通報し、猥褻逮捕目的誘拐未遂で逮捕。 5月には、京都府内の59歳の小学校校長が勤務先の教室内で高学年女子児童のスカート内を盗撮した府迷惑行為防止条例違反(卑わいな行為)容疑で逮捕され、懲戒免職になったが、昨年6月にも同市内の歩道でマラソン大会を見学していた同じ女子児童のスカートの下からデジタルカメラを差し向け、下着などを撮影したことも発覚した。 6月には、都下の中学校の56歳で学級担当の理科教諭が、高1女生徒の登録していた携帯電話の自己紹介サイトに書き込み、脅しも交えて執拗に会うことを要求し、出勤日に早退届けを出して、女生徒と落ち合い、ホテルに連れ込んで睡眠薬を飲ませ、猥褻行為をDVDに撮影。 逮捕後、自宅から押収した証拠品の中には、猥褻行為をする様子を撮ったDVD計150枚のほか、パソコンと携帯電話からは1,800人分のメールアドレスが押収された。 「言いなりになるので、14、15歳の少女を狙った。後でDVDを見て楽しんだ」 などと供述。 やはり6月に、今度は、茨城県鹿嶋市内のショッピングセンターで、16歳の女子高校生の背後からスカートの下にペン型デジタルカメラを差し出し、スカートの中を盗撮した35歳の県立高校のクラス担任で進路指導もしていた英語教師が県迷惑防止条例違反の疑いで逮捕。 「女性の下着に興味があった」 と容疑を認めたが、一週間程前にも、授業中にペン型カメラを忍ばせたペンケースを足下に置き、女子生徒のスカートの中を盗撮しているところを生徒に見つかっていた。 「盗撮にスリルを感じ、1年以上前からやっていた。 校内でも何度かやった」 という。 今年はまだ、教師による強姦事件は聞かないが、08年から10年にかけて東京の多摩地区で小中学生の少女への強姦、強盗事件が5件発生し、29歳の小学校教諭が昨年逮捕された。 また、一昨年には、広島県で43歳の小学校教諭が勤務先の小学校の校舎内や自家用車内で教え子10人への強姦のほか、強制猥褻など43件の罪を問われ、懲役30年の判決を受けるという衝撃的な事件があった。 子どもに対するさまざまな猥褻行為を精神医学では 「小児愛(ペドフィリア)」 と診断するが、これは、単に 「子ども好き」 の段階を超え、成人との関係では、性的満足が得られず、その代償に、手なずけやすそうな思春期前の子どもに強い性的な関心をもつ強迫的な性衝動を繰り返し感じている人たちだ。 子ども好きで子どもの教育に関心があることが教職員としての適性条件だが、その程度が過ぎ、性欲の代償として、児童生徒に接触するようになると性犯罪が表面化するおそれが大きくなる。 こうした問題をもつ人たちのことを、以前は、性欲異常者、性倒錯者と呼んだが、最近は、性嗜好障害(パラフィリア)と、嗜好上の問題と考えるようになった。 それと言うのも、人間の性行動は極めて多様で、ある時代、文化圏で倒錯、犯罪とされなかったような性行動はなかったし、逆に、ある時代、文化圏で許容されなかったような性行動もなく、従って、ある時代の文化圏に住む人々の性習俗に反し、容認できず、人々に不安を与えるような性行動を不道徳、反社会なものとして禁止し、何らかの社会的制裁、処罰を科しているだけならば、人間の多様な性行動は、医学上、正常か異常の問題ではなく、自分を襲う性衝動に圧倒されて、社会面、職業面、そのた日常生活の大事な場面で障害になり、不適応を起こしている人の問題と見る。 小児愛者は、成人の男性に多いが、女性にもいないわけではない。 数年前だが、三重県で24歳の中学教諭が自宅アパートで教え子の中2の男子生徒と性関係をもち懲戒免職になった。 また、沖縄県で35歳の中学教諭が教え子の中3の男子生徒と自宅アパートで性関係をもち、児童福祉法違反(淫行させる行為)で逮捕された。 ただ、これらの事例を、刑事事件として見るか、年齢の離れた者同士の恋愛関係と見るかは、見解の分かれるところだろう。
約53億円を粉飾したとされる証券取引法違反などの罪で懲役2年6月の実刑が確定した堀江貴文・元ライブドア社長が、6月20日、収監命令を受け、かつての“時代の寵児”ぶりをアピールしながら東京高検へ出頭する様子をテレビ各社が放映したが、車の中で、自由のない刑務所生活には 「弱いんだよね」 と本音を吐いていたのが印象に残った。
ところが、普通ならば誰でもそう思うはずの刑務所生活を志願する人間が、毎年、幾人か報道される。 刑務所入所が目的と口には出さなくても、出所後、間もない犯行ならば、まず、入所が目的と思って間違いない。 かれらのほとんどは、刑務所暮らしをした経験から、入所時期、服役期間までも本人なりに計算して行動する。 こんな事例をおもに最近10年間のマスコミ記事から拾ってみた。 7月、午前4時前に、住所不定、無職の52歳の男が110番で 「15年ぐらい前に、札幌・ススキノのソープランドで知り合った女性を、静岡県の日本平付近の山林で首を絞めて殺害した」 と通報。 札幌から静岡までと話を広げれば、捜査に時間がかかるだろうと考えての演出だったが、直ぐにウソがばれた。 「前日に刑務所を出所したが、住まいも仕事もなく、緑内障で目も不自由で、再び刑務所に入りたかった」 と供述。 残念ながら、この程度の 「軽犯罪」 では、願い叶わず刑務所行きにならなかった。 5月、深夜から翌朝にかけ、兵庫県明石市の飲食店で無銭飲食をした25歳の住所不定、無職の男が逮捕された。 男は、前日に長野刑務所を出所したが所持金をほとんど使い果たし、その日の夜から翌朝にかけて7,450円分を無銭飲食して明石署に突き出された。 「以前捕まった明石署の留置場のメシがうまく、わざと逮捕された」 と話したが、生憎、明石署の留置場は満杯で、男は淡路島の別の警察で拘留されることになり、明石署を去る時は肩を落としていたという。 大阪で、午前3時ころ、住所不定、35歳の無職で無一文の男が泉佐野市の交番の窓ガラスにコンクリート片を投げて割り、器物損壊罪の現行犯で逮捕された。 その直前に男は、タクシーで警察に乗り付け、無銭乗車を自供したが、その時は所持金があったので支払い、厳重注意を受けて帰されたばかりだった。 「刑務所に入ったらめしが食える」 と逮捕を目的の犯行。 この男、前年にも大阪市で交番のガラスを割り逮捕され、懲役8月の実刑判決を受け、満期出所してきたばかりだった。 警察の業務妨害程度の犯罪ではすまず、重大な犯行を企てる者もいる。 刑務所で長逗留をたくらむ連中だ。 4月、午後5時過ぎ、JR豊橋駅前交番で立ち番勤務をしていた男性警察官に、39歳の住所不定、無職の男が突然カッターナイフで切り付け、「拳銃をよこせ」 と脅し、強盗未遂の現行犯で逮捕された。 この男、その日の朝、京都刑務所を出所したばかりで、「金がなかった。 拳銃を奪い、どこかで強盗をしようと思った」 というが、カッターナイフで警察官に切りつけても、とても拳銃を奪えるわけではないくらいは十分承知の上の犯行で、逮捕されるのを期待しての犯行。 1月の午前2時頃、JR下関駅の駅舎から出火し、由緒ある駅舎と隣接の飲食店など約3,800平方メートルを焼失させ、5億円以上の被害と列車の運行に支障をきたした。 犯人は、福岡刑務所を満期出所して間のないホームレスの74歳の男で、福祉事務所に生活保護の申請に訪れたが住所不定を理由に断られ、真冬の寒さしのぎにいた駅構内から追いだされ、「腹がすいてむしゃくしゃした。 刑務所に入ってもいいと思い火をつけた」 と供述。 本人は、裁判の結果、懲役10年の判決を受け、当分、安心できる生活の場を見つけた。 8月の深夜、静岡市の浅間神社内にある国の重要文化財の神社拝殿の一部が不審火で焼け、同市生まれの住所不定の52歳の男が逮捕された。 男は、過去にも2度、この神社への放火歴があり、いずれも実刑判決を受け、その度ごとに 「刑務所に行きたかった」 などと犯行の動機を述べた。 男は、出所後、川崎市内で路上生活をしていたが、このところの暑さや仕事にありつけないことなどに困り、「またあの場所で(放火を)やろうと思った」 などと話した。 11月の午後6時ころ、東京の品川プリンスホテルの16階で、無職の54歳の女が自分の部屋の前の廊下をたまたま通りがかった見知らぬ33歳の女性客に包丁を持って襲いかり、十数か所を刺して殺害し、駆け付けた警備員の腕も刺した。 女は、以前にも大型スーパー店の売り場で果物ナイフの買い物をしていた女性の背中をいきなりナイフで突き刺した傷害事件で懲役1年8か月の刑で服役し、今回事件の3日前に刑期満了で出所したばかりだった。 「人を殺せば気持ちがすっきりする」 と思い、ホテルでチェックインした後、近所で文化包丁を購入したと供述。 実刑判決を受けたのは4度目で、その中には、懲役9年の長期刑を受けたこともあった。 公判では一言も口をきかなかったが、裁判長は、これまでの犯行の動機はいずれも 「刑務所志願」 だったと判断。 一審裁判で懲役10年の刑が確定した。 また、刑務所志願者ではないが、温情ある裁判官として実刑を科した今様大岡裁判のような例もある。 平成7年10月、石川県の寺で、ある男が逮捕された。 食うに困ってお地蔵様に供えられていたさい銭箱から540円を持ち去った窃盗事件の金沢簡易裁判所で、裁判官が被告人に言い渡した判決は 「被告人を懲役8か月に処する」。 わずか540円の窃盗にも関わらず、執行猶予なしの実刑を言い渡した後で、「これから寒くなるので冬の間は服役し、よい気候となる来年4月に再出発して下さい」 と話しかけた。 積雪が多い地方で裁判官が出した答えには、柔らかな木漏れ日のような温情が込められていた。 刑務所は、言うまでもなく、有罪者を収容する刑事拘禁施設だが、入所を目的に犯罪をする人間は、昔から後を絶たない。 これに加えて、近年、全国刑務所には身寄りない70歳以上の受刑者が男女あわせて2千人以上もおり、善良な市民でも、なかなか生活保護か認められず、公立の福祉施設へ入所するには数年待たされる時勢では、年金もなく医療保険もない前科のある彼等にとって刑務所は、自由よりも安心優先の生活ができる福祉施設なのかもしれない。 自由を剥奪する刑罰、自由刑は、自由を尊重する人にとってのみ刑罰の意味を持つものの、自由を享受できない人にとっては、刑罰の意味は持ち得ないということだ。
暴力的な性犯罪者には去勢を、と誰もが考える。 自制できないほどの性的興奮状態から、攻撃性を燃やし、その発散を求めて無分別な暴力に駆り立てるエネルギーが、遺伝子によって決められた男性ホルモン、テストステロンの過剰な分泌と関係があると認められた暴力的性犯罪者に去勢手術を行うことは、人権上の問題を別にすれば、再犯防止上、効果的な医学的処置だろう。
この見地からデンマークは、1929年に 「去勢法」 を制定し、医学的措置として性犯罪者への去勢手術を可能にした最初の国だ。 この法律には、「本人の性衝動の発散が社会に危険をもたらし、精神的、社会的な害悪を及ぼした者に適用できる」(第1条)とあり、知的障害者、精神病者を除いた常習的性犯罪を対象とし、法律の適用に当たっては、検察官からの申請を受けた精神医の鑑定結果に基づいて、受刑者には去勢手術の結果について告知し、妻帯者には妻の承認を必要条件とした(その後、法律の一部改正で、本人の承諾も手術条件に加えた)。 性犯罪者にたいする去勢は、デンマークに続いて、ノルウェー、フィンランド、アイスランド、スウェーデンの北欧5か国、オランダでも同様、法制化された。 暴力的性犯罪者への去勢手術の再犯防止効果について、デンマークでの成り行き調査の結果は、去勢手術を受けなかった性犯罪者が再び性犯罪をした割合は29.6%だったのに対し、手術を受けた者のそれは、3.4%。ノルウェーでは、それぞれ24.5%と2.9%。オランダでの手術を受けた受刑者の再犯率は1.3%と報告した(G.K.Stürup 1960)。 1960年後半になると、去勢手術と同じ効果をもつ、抗男性ホルモン(抗アンドロゲン)薬が開発され、デンマークでは、外科的去勢に代えて、1973年頃からホルモン療法、通称 「化学的去勢」 が次第に行われ、その後、ノルウェー、スウェーデン、ドイツ、スイス、カナダ、米国の8州、アルゼンチンなどの諸国でも法制化され実施された。 近年になっても、「化学的去勢」 を導入する国が広がっているが、いずれも、ホルモン療法に加え、精神療法、カウンセリング療法を並行して行っている。 2008年、ポーランドで同国東部の45歳になる男が自分の21歳の娘に性関係を強要し、男児2人を生ませた事件がきっかけとなって、同年9月25日、トゥスク首相は、薬品投与による強制的去勢を法制化し、刑法改正に向けた準備を司法省と保健省に指示した。 これに対して、欧州連合(EU)内には、「強制的去勢は現代刑法になじまない」(クラウス・ヘンシュ欧州議会元議長)などと人権侵害の懸念が広がったが、ポーランドの有力紙ジェンニクの世論調査の結果では、国民の84%が政府案に賛成し、与野党の大半も支持する方針で、刑法改正はほぼ確実とマスコミは報じた(2008年9月25日 読売新聞)。 また、韓国国会は、2010年6月29日の本会議で、子どもを狙った性犯罪者に対し、性衝動を抑える薬物治療を行えるようにする法案を可決したと同日付けの時事通信が報じた。 法案では、19歳以上の性犯罪者ならば、常習者だけではなく初犯者にも薬物治療の実施が可能で、被害者が16歳未満の女性の場合、加害者は薬物治療の対象となる。 検事は、精神科医鑑定の結果、性倒錯症があると判断された者に対して、法院(日本の裁判所に相当)に薬物治療命令の請求が可能で、法院は最長で15年間にわたり治療を課すことができ、法院の決定が確定されると、矯正当局は、犯罪者の同意なしに性衝動を抑える薬物を投与することができると述べた。 法の施行日は、公布1年後の今年7月予定で、化学的去勢を実施する医療刑務所を開設した。 ただ、男性ホルモンの過剰分泌が暴力的性犯罪に直結するとは言えない。 その生理的基盤として脳に損傷のある者のほか、環境面でも、生育史や現在の生活状況に問題を持つ者がいるのが普通で、精神療法、社会ケースワーク、必要によっては、職業訓練など更生意欲を持ち続けさせる働きかけを同時に実施するのが必要だ。 日本では、性犯罪受刑者対策として、平成17年制定の通称、「受刑者処遇法」 では受刑者に矯正処遇を受けることを義務付け、そのプログラムの中で、性犯罪再犯防止指導を規定した。 また、保護観察所も、奈良事件の犯人が、過去に同種事件で仮釈放歴のある者だったことの反省から、平成20年以降、罪名が強制猥褻、強姦などの性犯罪以外の罪についてもその原因・動機が性的欲望から犯罪をしたと判断された仮釈放者、保護観察付き執行猶予者に対して、専門的処遇プログラムの実施を始めた。 しかし、これまでのところ、性犯罪者への矯正処遇の再犯防止効果についての報告はない。 その理由の一つに、保護観察期間や仮釈放期間を経過した者についての社会での生活行動が全くつかめないので、折角の専門的処遇もその効果について検証ができないことがあげられる。 性犯罪の多くは、傍目には普通の市民と変わらない生活をしていることが多く、強姦、強制猥褻で検挙された者でも、その70%近くは有職者で、一般刑法犯罪者と比べ、その割合は約2倍にあたり(平成17年警察庁統計)、その間、ひそかに性犯罪が繰り返されていても、周囲からそれと気付かれず、検挙されてはじめて犯行が常習的に行われていたことが分かる例が多い。 つまり性犯罪には暗数が多く、以前と同じ犯罪を繰り返すことの多い暴行・傷害、窃盗、覚醒剤違反の受刑者と比べて、性犯罪を繰り返す再犯者受刑者の割合は低いという見せかけの数字が統計上、まかり通っている。 現在、刑務所や保護観察所で実施している性犯罪再犯防止処遇プログラムは、多分に心理療法の技法に重点が置かれているが、それは、日本では、薬物使用が合法化されていないからで、それも処遇効果の検証を妨げている一つの理由だろう。 近時、日本で心理療法の主流になっている認知行動療法が受刑者の矯正処遇に導入されたが、その背景には、カナダの刑務所で性犯罪受刑者に対しする認知行動療法の効果について、同国の連邦検察局の行った大規模な調査結果がある。 これによると、この処遇プログラムに参加した性犯罪者の再犯率は17,4%から9.9%に下がったとする研究報告や1年以上認知行動療法を受けた受刑者は、再犯率が他の受刑者に比べて40%以上低かったという。 この研究報告の原文を読んでいないので、私見は差し控えるが、是非、日本でもカナダと同じ手法による処遇をおこない、その結果の追試検証が欲しい。
性犯罪の中でも子どもを対象とした強姦、強制猥褻、猥褻目的誘拐などの暴力事件は、被害者、その家族に痛ましい結果をもたらし、社会に大きな衝動を与える。 平成22年の警察庁統計によると、13歳未満の子どもに対する性暴力の被害発生件数は、強姦55件、強制猥褻1,063件、猥褻目的誘拐30件もあり、犯行中に子どもが騒ぎ、帰した後の犯行発覚のおそれから、殺害に及ぶ危険が絶えず付きまとう。
危険な性犯罪者から社会を守る方策には、第一に、犯人への重罰化と前科者への行動監視強化があり、第二は、性犯罪者に対する再犯防止を目的とした処遇後の社会復帰支援がある。 第一の、性犯罪者に対する重罰化政策として立法面では、平成17年に刑法を一部改正し、強姦には3年以上(改正前は2年以上)の懲役に、強姦致死には無期または5年以上(改正前は無期または3年以上)の懲役に引き上げたほか、集団強姦罪を新設し、3年以上の懲役、同致死傷には無期または6年以上の懲役とし、強制猥褻罪に対しては、6か月以上10年以下(改正前は7年以下)の懲役とした(同致死傷は、改正前と同じ無期または3年以上の懲役)。 裁判の判決もまた重罰化した。 平成16年、奈良市で下校途中の小学1年女児への猥褻目的誘拐殺人事件の被告人に死刑が言い渡されたが、それまでは、身代金目的誘拐ではなく、1人だけ殺害した殺人犯には、死刑判決を回避する傾向があったことからするとこれは異例の厳しい判決だった。 裁判員裁判では、一般の社会感情を反映して、性犯罪には厳しい方向への判決が出ていることは、前に述べた。 行政面でも、奈良事件を契機に、その翌年、性犯罪者の刑務所出所後の住所を警察が把握する必要があるとした警察庁からの要請に応じて、法務省は、13歳未満の児童に対する強姦、強盗強姦、強制猥褻、猥褻目的略取・誘拐の4種の暴力的な罪を犯した出所者、保護観察付刑執行猶予者について警察庁への情報提供に合意した。 これは、1994年に米国ニュージャーシー州で性犯罪歴のある男による7歳の少女ミ-ガンが殺害された事件を機に、性犯罪の前歴者の個人情報を地域住民に知らせる性犯罪者情報公開法、通称、ミーガン法(Megan’s law)の制定にヒントを得たもので、出所者の個人情報が警察から地域住民へ流出する可能性も否定できず、出所者の人権を侵害し、社会復帰を妨げると危惧する反対論はあったが、治安重視の声に押され、日米両国とも、反対派は、ほとんど盛り上がらなかった。 また、性犯罪の前歴者に対して、一定場所への接近を禁止し、その所在確認方法として、外出時にGPS端末の携帯を義務付ける法制度が米国の大半の州、カナダ、英国、フランス、ドイツ、スウェーデン、韓国などでは法制化されている。 韓国では、2008年、性犯罪の累犯者に対し、出所後も最大10年間、外出時にGPS内蔵の電子足輪の装着を義務付け、その居場所を常に把握できる法案が可決した。 日本でも、今年1月、宮城県で、強姦など性犯罪で出所後も再犯リスクが高いと判断された者、DV防止法に基づく被害者への接近禁止命令を受けた、いずれも県内居住者に対して外出時にGPSを携帯させ、県警が常時監視できる全国初の条例制定の検討を始めたと報道されたが、東日本大震災の発生でこの議題はどうなっただろうか。 同様の動きは、強制猥褻事件の認知件数が全国最悪の大阪府でも性犯罪の前歴者に対する条例制定を検討中と聞く。 性犯罪者のほとんどが刑期を終えれば社会に戻ってくることを考えると、防犯強化、重罰化など一般予防策が犯罪防止に一定の効果を現すことは否定できないが、罪を犯した者への再犯防止策が講じられなくては問題は解決されない。 (次回へ続く)
東日本大震災から間もなく3カ月になる。 2万4千人の死者・行方不明者、10万人を超す避難生活者、地盤沈下、ガレキ撤去、道路・鉄道の復旧、放射能汚染による農水産業をはじめ地元企業への打撃、就職難、さらには、世界経済への影響など、地震、津波、福島第一原発事故の傷跡が癒えるには、数年、いや、十年以上かかるものもあるだろう。
家族、財産を失い、惨状を目の前にして圧倒された災害地の人びとは、助け合って復興に立ち上がり、原発事故現場には、命の危険を顧みず献身的に働く作業員たちがいる。 日本、諸外国からの義援金と支援物資、災害地救援へ駆け参じるボランティアは、今も途絶えることがない。 「災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか」 「テレビの画面は、列に並んで救護食品を受け取り、売店の前で静かに待った後、必要な分だけ購入していく風景ばかりだ」 といった海外の驚きの声は、日本人には当たり前の光景と、むしろ、その反響の大きさを意外とさえ感じる。 震災前、ベストセラーだった 「無縁社会」 が、今では、書店から姿を消した。 そんな日本人の感動的な姿を汚し、復興を遅らせているのが、震災を政争の具に党利党略に明け暮れし、権力争いから党内分裂、内閣不信任案まで出した国会の茶番劇。 「支えあう日本」 「絆」 の政党ポスターが空々しい。 さらに腹立たしいのが、災害に便乗しての犯罪。 宮城県警によると、大震災後の15日間に県内で発生した窃盗事件の認知件数は、前年同期を約100件上回る約290件、被害総額が約1億円。 津波で損壊した同県気仙沼市の信用金庫から約4千万円が盗まれたほか、閉店中のコンビニエンスストアなどから商品を盗む 「出店荒らし」 が約60件増の約80件、ガソリン盗などが約40件増の約120件と大幅に増えたと発表。 それでも、これらは震災直後の数日間に発生した事件が多く、現在は沈静化しているとの発表は、僅かな救いを与える。 また、福島県では、原発から半径20~30キロ圏内の避難指示のでている留守民家への空き巣狙いが発生している。 公表されていない性犯罪、暴力犯罪など人身犯罪はどうだろうか。 また、がれき除去、家屋の再建、都市再開発など多岐にわたる震災関連事業の総額15兆円ともいわれれる公共事業に受注し、「復興利権」 に食い込もうとする反社会的勢力の動きも伝えられている。 さらに、被災者支援の募金箱の窃盗、義援金集めを騙る詐欺事件は全国で相次いでいる。 これらの犯人は、多分、平時からの常習犯と、いわゆる、どさくさまぎれの火事場荒らしの機会犯人であろう。 福島地検で地震発生の5日ほど後に、勾留中の被疑者31人を釈放したうちの一人の女が、4月2日に、福島市内の営業中のコンビニエンスストアの事務所に侵入し、経営者に取り押さえられ、建造物侵入で現行犯逮捕されたが、この女は、震災前の3月3日に福島市内の別のコンビニ事務所から現金約3万6千円を盗んだ容疑者だった。 戦争中の昭和17年に 「戦時刑事特別法」 が制定され、灯火管制中や敵襲の危険下での放火、強姦、窃盗、恐喝、騒乱などの罪には、刑法の規定よりも重罰を科すことができ、窃盗でも3年以上、無期刑と途方もない重罰が科せられたが、現在の日本では、それほど深刻ではなさそうだ。 なお、この事件で、福島地検の措置が批判され、同地検検事正が更迭させられたが、重大犯罪の被疑者ではない限り、勾留期間は10日で、その間に起訴できなければ釈放するのが原則だから(刑事訴訟法208)、震災のために被害者や参考人を呼び出して事情聴取ができない非常事態下では、不適切な措置だったかどうか疑問だろう。 わが国の観測史上最大の今回の地震がもたらしたものは、すべて想定外のことだったに違いない。 想定内のことしか考えられないのが普通の人だ。 想定外のことを語る人は誇大妄想狂、杞憂と一笑に付されるのが現実で、それだから 「天災は忘れられた頃にやって来る」。 普段から衆知を集め、情報を共有しながら既存の軌道を適切に修正していく以外にはない。
またも冤罪事件が発覚し、暗澹とした気持になる。 今月24日に再審裁判で無罪になった 「布川事件」 の桜井昌司さん(64)と杉山卓男さん(64)の冤罪事件だ。 昨年3月、宇都宮地裁での再審裁判で無罪が確定した 「足利事件」 の菅家さんに続く判決。 二人は、強盗殺人事件犯人として、逮捕から、無期懲役刑の判決を経て、仮釈放まで29年間の服役後に再審請求し続けた結果、無罪判決を勝ち得た。
ところで、日本で無罪判決が確定する確率は、極めて低い。 平成21年に約50万3千人の被告人のうち無罪が確定したのは75人、無罪率0.015%という驚異的な低さだ(平成22年版 犯罪白書)。 警察から送検されてきた被疑者を起訴するかしないかを決める権限があるのは検察官だけだから、検察官の裁量の余地は大きく、さじ加減ひとつで、一旦、起訴されると99.99%が有罪になる。 まさに検察官には生殺与奪の権が与えられている。 かつては、「自白は証拠の王」 といわれ、自白を得るために拷問、強制誘導が日常化した旧刑事訴訟法時代は戦後に終わりをつげた。 代って、新憲法は、自己に不利益な供述の強要、拷問、脅迫、不当に長期にわたる拘禁下での自白を禁止し(38条)、刑事訴訟法も 「事実の認定は証拠による」(317条)と明記してある。 また、送検された事件を受理した検察官が、いわゆる 「起訴便宜主義」 によって、起訴する割合は、受理人員の3分の1程度、刑法犯罪に限ると18%に過ぎないから、そのほとんどが有罪になっても、検察官の目が行き届いていると信用してきた一般市民にとって、冤罪事件は、検察不信を印象付ける。 他方、裁判に提出された証拠に対して裁判官には、その証明力について自由な評価が任されているから、再審裁判で無罪が確定するまでは、最高裁の判事たちも、検察側が有罪の根拠として提出した証拠の真偽が見抜けなったのだろう。 その原因の一つは、警察捜査の早い時期に 「否認したら死刑になる」 と脅され、裁判では真実が認められるだろうとの期待から、嘘の自白をした被疑者が、法廷に立たされた後になって、「極刑も予想される重罪事犯で極めて早い時期に自白したことは、その自白が任意になされたことを推認させる」(昭和53年 最高裁)と最後まで虚偽の自白が有罪の決め手とされたのだ。 つまり今回の再審公判が開かれるまで、二人の被告人にとって有利な証拠を検察側が隠してきたことが、二人と事件とを直接結びつける物証がないまま有罪が確定してしまったのだ。 再審裁判で初めて検察側が開示した自白場面を記録した録音テープには、何度も重ね撮りした痕跡があり、目撃証人の証言も本人の証言とは違っていたという。 この検察の手法は、昨年、大阪地検特捜部が障害者郵便制度悪用事件を巡って逮捕、起訴した厚生労働省局長の有罪立証のために、押収したフロッピーディスクの記録内容を捜査主任検事が、こともあろうに、改ざんし、証拠隠滅操作したことを上司の特捜部長と副部長がこれを黙認したとされる犯人隠匿容疑事件を思い出す。 刑事司法全体に対する国民の信頼を確保するための 「検察官同一体の原則」 は、検察官の互助会になり下がってしまったのだろうか。 人間である以上、判断の誤りは避けられないが、巧妙に作られる冤罪に欺かれてはならない。 判断の根拠となる証拠はすべて裁判に提出しなくては正義に反する。 戦後、死刑か無期懲役が確定した事件の再審は今回が7件目で、過去6件は無罪が確定している。 再審無罪が確定した死刑囚が、もし、その前に、刑が執行されていたらと思うと慄然とする。 物的証拠のない事件については、死刑判決はなんとしても禁止すべきだろう。 布川事件の再審判決を前に、有罪認定に関与した元裁判官の一人が 「物証がなくても有罪になる事件はいくらでもある。 (有罪判決が)間違っていたとは思わない」 と語ったそうだが(5月25日付け、朝日新聞)、いささか、その方の人間性を疑わざるを得ない。 今日も、深谷市議ら2人の公職選挙法違反事件で、県警の取り調べを受けた複数の有権者が虚偽の証言を強要されたと抗議する事件が報道された。 警察は 「適正な捜査を行った」 と反論しているが、その内容は明らかにされていない。 追記: 上記の逮捕された深谷市議とその妻は、5月27日に処分保留で釈放された。
(3号前から続く) 国民の期待と不安のうちに平成21年に始まった裁判員裁判は、時事通信の集計によると、裁判員裁判の判決を受けた被告は4月末現在で2120人を超えた。 そこから裁判官だけの裁判(裁判官裁判)とは違った市民の犯罪に対する感覚が見えてきた。 以下、マスコミ情報によるものだが、記憶に残るものを上げる。
裁判員制度導入の前後で、対象となっている重大事件の判決を比較すると、強姦致傷事件や傷害致死事件は、裁判員裁判の方が裁判官だけの裁判(裁判官裁判)よりも刑が重く、一方、対象事件全体では、裁判員裁判の方が執行猶予の判決が多く、被告側の控訴率は裁判官裁判を下回り、執行猶予の際、被告を保護司らの監督下に置く保護観察を付ける判決が裁判官裁判を大きく上回り、更生への強い関心を伺わせると報じている(2011年3月5日付 共同通信)。 裁判員裁判については、実施前から、裁判員の犯罪被害者への心情や個人的感情や一時的な世論に左右され、法的安定性が失わることを危惧する意見があった。 同様の罪種や態様の事件には大体、同様の判決をする公正性、法的安定性を担保する一つに、過去の判例と裁判官の実務経験から生まれた量刑相場がある。 これまでの量刑相場によると、「判決は求刑の7、8掛け」、「刑期の短い求刑は執行猶予付き」、求刑 「懲役1年6月」 の判決には 「懲役1年6月、執行猶予3年」(いわゆるイチロクサン)などだが、裁判員裁判実施後、検察官の求刑と同じ判決、求刑を大きく上回る判決、求刑の半分以下の判決といった目を引くケースが従来よりも増え、そのため検察官は相場を下げて求刑するという笑い話まであった。 また、性犯罪に対しては厳しい判決が多く、強制わいせつ致死傷罪の裁判官裁判では 「懲役3年以下の懲役」 辺りが多いのに、裁判員裁判では 「懲役3年を超え5年以下の懲役」 が多いなど重罰化の傾向も指摘されている。 その一方で、裁判審理上の誤りが指摘されたケースもある。 今年3月30日、東京高裁は、覚せい剤取締法違反(営利目的輸入)などの罪に問われ、裁判員裁判で初の全面無罪となった会社役員の控訴審判決で、裁判長は 「証拠の評価を誤り、事実を誤認した」 として、一審千葉地裁の裁判員裁判の判決を破棄し、懲役10年、罰金600万円(求刑懲役12年、罰金600万円)の逆転有罪を言い渡した。 また、裁判員が不当な偏見を持たないように配慮し過ぎた結果、一審・東京地裁での現住建造物放火などの事件の裁判員裁判で、「放火の犯人である可能性はかなり高いが、犯人とするには合理的な疑問が残る」 として、現住建造物等放火罪については無罪、窃盗と住居侵入のみで懲役1年6月(求刑懲役7年)とした判決に対して、今年の3月29日、東京高裁は、起訴された犯行の手口などがその被告の前科と似ている場合に、前科に関する証拠も法廷で調べることを一審の裁判員裁判で調べなかったのは 「違法」 とし、一審裁判所へ差し戻した。 そうかと思うと、裁判員裁判の判決が著しく重すぎるとして高裁で一審を破棄した事例もある。 元妻との関係修復を図る旅行中にホテルで妻を殴って死なせた傷害致死事件で、懲役12年を言い渡した裁判員裁判の控訴審で、今年3月10日、東京高裁の裁判長は、「情状を過小評価した不当に重い量刑だ」 と判断し、懲役12年とした裁判員裁判判決を破棄して、懲役8年を言い渡した。 裁判員裁判の判決を裁判官だけの裁判が否定するのは、裁判員裁判制度の趣旨に合わないが、これまでの裁判例とあまりにもかけ離れた判決は、被告人、被害者、一般市民に裁判への信頼性を失わせるもとだろう。 そうかといって、量刑相場にとらわれた判決では、電子データベースから検索するだけで十分ということになりかねない。 このような経過を見てくると、裁判員と裁判官との合議による裁判とはいえ、一回だけの裁判に選ばれた素人の裁判員には、事実認定と法令の適用による有罪・無罪の審理にとどめ、刑の量定は裁判官が行うことも考えられよう。 米英などで行われている陪審制は、日本でも昭和3年から18年まで行われたが、その評価が決まらないまま、戦争の激化によって陪審制を取り止めた経緯があり、裁判員裁判制施行3年後の再検討の時期に一考の価値がある。
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