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5月22日のスカイツリーオープンを前に、19日、タワーの一角にソラマチが開業した。
![]() ソラマチビル4階の広場では、「すみだ観光まちびらき」 のイベントが次つぎと繰り出し、大賑わいの人出。 ビル内のショッピング街は、各フロアーの面積が広く、コンビニからスーパー、ドラッグストアー、インテリア雑貨店、婦人衣料店、文具店、おもちゃ屋、老舗店から旅行代理店までがひしめき、地上150メートルからスカイツリータワーが望めるという31階の高級料亭、レストラン街まで行くのは、気力も体力も失せ、止める。 資力のある有名店が一堂に展開するビルの中とは対照的に、地上の通りからスカイツリーのてっぺんまで見える北十間川沿いの昔ながらの小売店通りは、人通りは多いものの、肝心の客足は奪われたのではないかと気になりながら、東武伊勢崎線 「業平橋駅」 から名を変えた 「とうきょうスカイツリー駅」 へと戻る。 ![]() 電車が隅田川を渡ると、浅草の熱気が伝わってくる。 三社祭は何度行ってもいい。 駅出口は、押すな押すなの人混みに皆がわくわくし、神輿を担ぐ男と女たちの威勢に感動する。 昨年は、東日本大震災で、自粛し、神輿の出番がなく、さびしい思いをしたが、今日が三社祭最後の日とあって雷門付近は、道路に溢れる見物人で、盛り上がりを見せる歩行者天国だ。 上を仰ぐと、2日前に改装したての東武浅草駅屋上に80年ぶりの時計塔がみえる。 ![]() 子どもの頃から浅草雷門界隈は何度も来ているのに、今まで一度も入ったことのなかった明治13年創業の 「神谷バー」 で、名物の 「電気ブラン」 で試飲を兼ねて一休み。 飲むと口の中でビリッとくるところから名付けたこのカクテルは、ブランデーをベースにワイン、ジン、キュラソーなど秘伝のアルコール30度。 1階大衆席を見渡すと、どうも地元の常連が多い感じで騒々しい。 「一人にて酒をのみ居れば憐れなるとなりの男なにを思ふらん」 とは、ここで飲んだ萩原朔太郎の詠んだ歌だ。 ![]() ほんわかした酔い心地のまま、店を出る。 路上で老舗、「舟和」 のあんこ玉を土産に買ったものの、いつまでも絶えない神輿と山車の 声と響きに後ろ髪を引かれる思いで帰路についた。
前に、「時の鐘」 を尋ねて訪れた赤坂・圓通寺への坂を上りきると、周囲が一望に見晴らせる圓通寺通りにでる。 この赤坂5丁目の高台一帯は、昔、広島藩松平安芸守の下屋敷のあった跡地で、明治26年以後は、近衛歩兵第三連隊と近衛第二旅団司令部が占める軍事地域になり、戦後は、国有地を譲り受けた港区が地域を整備し、昭和30年には、東京放送(TBS放送センター)ビルが、昭和50年代には民営、公営の大型共同住宅が次々に建ち、平成5年には公園を取り込んだ超高層の赤坂パークビルの竣工と、時代が進むにつれ大きく様変わりした地区だ。
圓通寺通りを左に曲がり200メートルほど行くと道は直角に折れて、赤坂通りに向う急な下り坂、「三分坂(さんぶんざか)」 にでる。 ![]() 坂上と坂下にそれぞれ港区教育委員会が立てた案内柱によると、「三分坂」の名前の由来は、「急坂のため通る車賃を銀三分(さんぶん 百円余)増したためという。 坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。 さんぶでは四分の三両になるので誤り」 とある。 今でもここの舗装された坂道には、円形に彫った車の滑り止めがあるほどだから、昔は、泥道の坂を大八車や馬車で荷を積んで上下する運搬人足には危険手当が必要だったに違いない。 「坂下の渡し賃一分」 とある坂下の渡し舟の発着場所が何処だったのか分からなかった。 ![]() 三分坂の坂下の角地にある真宗大谷派の報土寺の練塀(瓦を横に並べて練り込み泥土を撞き固めた土塀、築地塀ともいう)は、安永9年(1789年)にこの寺が赤坂一つ木から移ってきた頃に造られ、坂に沿って弓なりの形をしており、港区の文化財に指定されている。 ![]() 報土寺には、江戸時代の大関・雷電為右衛門(1767~1825)の墓がある。 山門脇の区教育委員会の案内板によると、力士に弟子入りしてから引退までの22年間のうち、「大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこし」 江戸で没し、この寺に埋葬された。 ただ、大相撲史上、古今未曾有の最強力士とも賞される力士だけあって、報土寺以外にも、生地の信州在大石村(現、長野県東御市)、妻の実家があり、たびたび巡業で訪れ、引退後はここで住んだという千葉県佐倉市、松江藩の抱え力士に任じられた島根県松江市の3か所の寺院には、顕彰碑または墓があり、それぞれのとこところで命日には法要が営まれているそうだ。 ![]() また、雷電為右衛門は、文化年間に焼失した報土寺の再建に、文化11年(1814)3月、梵鐘と鐘楼を寄進している。 しかし、その鐘の 「竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。 現在の鐘は、明治四十一(1908)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。」と区教委案内柱にある。 一説には、この事件のため、江戸払いに処せられ、文政2年( (1819)には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任されそうだ。 いかにも、表現の自由が許されなかった封建制時代を象徴するような話だ。
清澄庭園は、豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡といわれ、享保年間(1716~1736年)に下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となった後、明治時代に入り、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎が買い取り、社員の慰安や貴賓の招待場所とした庭園が、関東大震災時に避難場所となったのを機に、翌年、災害時避難場所として東京市に寄付した由緒ある庭園だが、ここには、全国から集めた名石、奇岩の多いのも有名だ。
名石はさておき、奇岩といわれるのは、珍しい形をした岩が、これを見る人によっていろいろ意味づけられて見えるからだろう。 心理学者のハインツ ウェルナー(1890~1964)が唱えた相貌的知覚physiognomic Perception 説を思い出した。 これは、幼い子どもが、太陽や月に人の顔を描き、風の強い日、林の中では木が大騒ぎをしていると言い、扇風機の動きをみて、いやいやしているなど、外界のものすべてに命や魂があるように感じ、それらは自分と同じ感じ方、表情をし、感情移入ができると擬人化して考えるアニミズム的知覚のことで、自我の発達段階で自他の区別が未分化な幼児に特徴的にみられる知覚のことだ。 子どもが心に描く空想は、はっきりした一定のものではなく、それぞれの子どもの心の中を投影した、主観的、個人的なものだから、そうは見えないという子がいても、当然のことだ。 ま、理屈は抜きにして、何はともあれ、空想心を刺激するような奇岩を三つ取り上げ、あくまでも、私が空想して見えたものを一例として上げてみる。 皆さんにはどう見えるだろうか。 ![]() 上の庭石は、右側の動物が大口を開け、大きな亀か何かをまさに飲み込もうとしているように見える。 ![]() 上の写真は、右に大きな目の恐竜の頭部、左にのんびりと口を開けた動物の頭部。 ![]() 次は、年を取った男が子どもを抱いているように見える。 ![]() こうして奇岩を見て空想を楽しみ、家に戻り、あらためて撮ってきた写真を見たら、驚いたことに、池を泳ぐ2匹の緋鯉の間の波紋が、長い髪を乱した女性の顔に見えるではないか。 よく背後霊が写っていると人を気味悪がらせる怪奇写真があるが、それも、相貌的知覚の一つかもしれない。 齢を取ると子どもに返ると言うが、私も相貌的知覚ができるというのは、頭の老化かも‥。 ガク!
摂食と排泄なくして人は生き続けられないのに、排泄場所を人前で 「便所」 と口に出すのは忌み嫌われ、「雪隠」 「厠 」 「手水」 「ご不浄」 「憚り」 など、今時の人には意味が分からなかったり、仮名を振らないと読めなかったりする言い方から、「手洗い」 「WC」 の時代を経て、今では、米英人にも分からない英語もどきの日本語 「トイレ」 が大勢を占め、駅や公園にあるのは 「公衆トイレ」 と呼んでいる。
ところで、東京23区の約半数の区には、「公衆便所条例」 なるものがあって、公衆の利便に供するために公衆便所を設置し、公衆便所を損壊したり、公衆の利用に迷惑を及ぼしたりする行為には罰則を設けて管理し、日常点検、清掃、トイレットペーパーの補充などを行うほか、車いす使用者、高齢者、妊婦、乳幼児を連れた者など、だれでも問題なく利用出来るような設備・構造の公衆便所の設置を進める区も増えてきている。 そんな動きの中にあって、2010年、東京・荒川区議会は、公共施設の 「公衆便所のイメージを改善するため、名称を公衆トイレで統一する」 と条例を改正し、公衆便所から公衆トイレへと文字を改めた。 その理由は、世間であまり 「便所」と いう言葉を使わなくなったから、というのではない。 女性蔑視の際に使用される差別用語だ、というのがその改正案提出の趣旨だった。 しかし、その品の悪い差別用語を知っている人はごくわずかだし、その隠語自体が半ば死語になっており、また、英語もどきの日本語に代えれば、差別がなくなると考えるのは、いささか単純で独善的ではなかろうか。 その一方で、ぶらり、まち歩きをしている私の目を引いたのが、荒川区とは対照的に、公然と、「公衆便所」 と表示しているところを江東区内に見つけた。 しかも、それは、公衆便所という、不潔、落書き、犯罪という暗いイメージを一新させるような、いうなれば、(江戸時代には公衆便所はなかったけれども) 風流な江戸情緒を感じさせるものを見つけた。 ほかにも月島(中央区)海浜には、江戸時代の灯台をかたどったものがあるが、「公衆便所」 とも 「公衆トイレ」 とも表示していない。 ![]() その一つは、地下鉄清澄白河駅前の清洲橋通りから深川江戸資料館へ向かう商店通りにあった。 入口に 「江東区公衆便所」 と大きく板書してあり、「商い中」 とある。 今にも、中から編み笠姿の粋な姿の侍がさっと出て来るのではないかと想像できる縄のれんが入口に掛っている。 勿論、中はどこの公園などにもあるのと同じだが、この通りには、松平定信ほか一族の墓のある霊巌寺があり、その道ひとつ距てた正覚院には長沢松平家第16代当主三男の松平忠敏の墓があり、その隣には、江戸前期の譜代大名、榊原忠次を開祖とする深川の出世不動として親しまれている長専院があるなど、江戸ゆかりの寺院が多い寺町なので、余計に、この公衆便所の存在はこの場所に似つかわしく、斬新さが感じられ、それを 「公衆トイレ」 と掲示したのでは味気ない。 ![]() もう一つは、ここほど凝った造りではないが、和風家屋にし、前に草花を植えたプランターを置き、矢張り 「江東区公衆便所」 と表札の掛った公衆便所があった。 ただ、この時、そこで用を足して、すっきりした気持ちになって出たので、迂闊にもその場所を失念してしまったが、場所は、清洲橋の江東区側橋詰め近くだった気もする。 交通頻繁な場所で、道路横断者用の黄色い旗が置いてあった。 上の写真の場所をご存知の方はお教え頂きたい。
生まれてこのかた2階よりも高い家に住んだことがなく、また郊外住まいの私には、高層ビル街を歩いていると、建築技術の素晴らしさに感嘆しながらも、言い知れない威圧感に襲われる。
![]() 例えば、大手の金融機関、商社、マスコミ本社が集まる大手町、丸の内界隈は、昼休み時間帯こそ街中が寛いだサラリーマンたちで街は賑わいの様相を呈するが、休日や夜ともなると、警備員などごくわずかな人影だけで、オフィス街は、飲食店もドラッグストアもない死んだ町のように静まり返る。 それもそのはずで、大手町の昼間の人口は、7万2千人といわれているが、千代田区役所によると(住民登録者)人口は、明治34年以来、今年4月1日現在までゼロ。また、隣接する丸の内の人口は、3丁目に2人しかいない。 仕事場の仲間と別れると、もう馴染みの顔と出会うことないコンクリートに囲まれた殺伐とした大都会の中で、日本の伝統文化を偶然見つけると、やはりここは日本だと改めて感じる。 横文字の店やビルの並ぶ舗道端の箱庭。 土一升、金一升の土地のビル入口に京都・竜安寺石庭を連想させる庭石が置いてある。 そして、里山のミニチュアも見つけた。 ![]() ![]() 上の写真は、大手町1丁目のJAビル4階にある農業・農村交流ギャラリーから張り出した広場だが、「我が国の里山をモチーフ」 として設計されたと案内板のあるここ 「スカイガーデン」 には、大手町神社と名付けた社から、桜、柳などの木々、果樹園、茶畑があり、湧水が宿根草の茂みの間を流れ、稲作の水田に流れるせせらぎまである。 農耕民族の血をひく日本人に安らぎを与えるのか、職員10数人がそこで弁当を開いていた。 ![]() 平日には、職員に限らず、誰でもビルの裏側の道路からエレベーターでここに来れる。 一見、町の小公園のようだが、上から見下ろすと、やはりここは屋上だと気づく。 ![]() 現在、大手町や丸の内など古くからのビシネスセンター街では、老朽化したオフィス群を段階的、連続的に建て替える連鎖型再開発都市プロジェクトが進行中で、あちこちで大型ビル建設工事が行われている。 その走りが09年に旧大手町合同庁舎跡に新しく完成した一つの複合ビルで、ここに三つのビルが移転してきた。 その一つがスカイガーデンのあるJAビル(地上37階,180m)で、両隣に経団連会館(地上23階、122m)と日経ビル(31階、155m)がある。 3棟のビルの間を相互に行き来できる貸し会議室、ホールのほか、地下街にレストラン、簡易喫茶店、コンビニ、クリニックなどのほか、地下鉄駅にも通じ、利便性と快適さを追求した合理的設計だ。 しかし、目を前の内堀通りに向けると、わずかな昼休み時間も惜しんで、ビルから飛び出し、ジョギングをする多くのビジネスマンたちの姿を見ると、矢張り、自然の魅力には到底、及ばないようだ。
2月12日に開通したばかりの東京ゲートブリッジへ殺到する観光客が減るのを見計らっていたところ、kiyotayokiさんのブログで、橋まで行く途中に江東区の風力発電設備もあると教えられて、急に出かける気になった。
地下鉄有楽町線新木場駅から 「若洲キャンプ場前」 行き都バスの終点下車とネット記事にはあったが、若洲とは何処だろうかと地図で探す。 そこは東京湾埋立地で、その先は23区内の地図には載っていない場所だった。 戦後、経済の急成長とともに、1955年頃から東京23区内のゴミの量も急増し続け、その処理問題が深刻化した。 差し当たっての解決策は、ゴミを東京湾岸に集め、一杯になったら埋め、海岸を沖へ沖へと陸地化していくことだった。 しかし、この計画を実施した途端、各区から放出されたゴミを満載したダンプカーが悪臭を放ちながら処分場へと集まり、交通渋滞をもたらし、処分場にはたくさんの野鳥が舞い、東京湾の風向きによって生活環境が埃と悪臭に包まれるなどの被害に江東区民の怒りが爆発し、区内に入るダンプカーを実力で阻止する 「東京ごみ戦争」 が15年ほど続いた。 そして、やっと78年になって、ゴミの山を埋めてできた悪夢の島ならぬ 「夢の島」 に運動場、熱帯植物園などの設備のある広い公園と新木場駅ができ、有楽町線や京葉線が都心部と直結し、また、湾岸道の開通で千葉県との交通の便もよくなり、地元民の反乱は一段落した。 しかし、東京各区のゴミ焼却場でも処分・処理しきれない大量のゴミの放出はその後も収まらず、新木場の先の東京湾上のゴミ処分場も満杯になって埋め、74年にできた町が若洲だ。 ゴミ堆積の上にできた新しい町の土壌は軟弱で、ゼロメートル地帯とあって、付近の人工島や湾岸都市を結ぶ自動車道は高架を走り、また、巨大地震、大津波、洪水には弱い若洲の地盤に住民登録をしているひとは、11年4月1日現在、ゼロだ。 ![]() バスを下りると、目の前に風力発電風車一基がくっきりと立っている。 この辺りの風速は、年平均5.7m/sec.と風力発電には格好の場所で、年間想定発電量は270万kWh。 風が強い時は、破損防止上、回転にブレーキをかけるそうだ。 従来、原子力発電に頼り過ぎ、その他のエネルギー源開発に力を入れてこなかった政策の見直しが早急に求められている現在、自治体ごとに最適の原発に代る代替エネルギー源開発に積極的に取り組んで欲しい。 福島第一原発原発事故の後始末が今も先が見えないのに、再開を容認する動きもあるが、その条件には、地震、津波などの自然災害防止策だけではなく、テロや他国からのミサイル攻撃をも想定した人為的災害防止策、更には、事故発生時の住民対策の有無が絶対に必要だ。 ![]() バスを降り、100メートルあまり海側に向かうと、全長2.6キロ、海上からの高さ最高87メートルのゲートブリッジの威容が迫ってくる。 ![]() 若洲昇降口からエレベーターで8階まで昇ると都心側歩道にでる。 9階はちょっとした展望台。 ![]() 早速、歩道を歩く。 往復4車線の橋の上を風を切り、橋を揺るがせて疾走する車の多さに驚かされるが、海風は爽やかで、船の運航や橋に沿った防波堤で海釣りを楽しむ人を下に眺め、遥か彼方の都心の高層ビル群が一望できる絶好の場所だ。 近くの別の人工島には東京都の風力発電2基の風車も回っている。 橋を渡った先では、今も海面にゴミ処分場を造成中で、一般人はそこには行けず、歩行者は片道1.6キロの歩道をUターンするしかない。 帰宅してから、「若洲」 の名前は、以前、何かで聞いた場所だと思い出したのが、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。 88年11月、埼玉県三郷市内でアルバイト先から夜道を自転車で帰宅途中の17歳の女子高校生を18歳から16歳の少年4人が襲い、拉致し輪姦したうえ、一人の少年の自宅に40日間監禁し、その間、暴行、強姦、凌辱の限りを尽くして殺害し、死体をドラム缶に入れてコンクリートを流し込んで遺棄し、2か月以上たってそのドラム缶が見つかった場所が江東区若洲海浜公園整備工場空き地だった。 事件から24年たったいま、その現場とは気付かなかったが、区民レクリエーション場として作られた若洲海浜公園には、キャンプ場、サイクリングコース、海釣り場、ゴルフ場、ヨット訓練所まで備え、休日を楽しむ人が多い中で、あの忌まわしい過去を知る人は、確実に先細りに減っている。 ![]() 練馬・東大泉の源泉から板橋・三園の荒川水系・新河岸川の河口まで約10キロを流れる白子川流域のにある 「清水山憩いの森」 へ行った。 ![]() この辺りは、練馬区と和光市の境にあって、次第に住宅化の波が押し寄せ、車道も整備されてきたが、まだ、昔の武蔵野の雑木林がたくさん残っている。 ![]() なかでも清水山には、30万株あるといわれる自生のカタクリが今を盛りに花を咲かせ、斜面からの流れ出る湧水は、水溜りのほどの池にも鴨を招き、白子川へと流れていく。 この一帯は、公共交通の便が悪く、ここには駐車場もない。 最寄りのバス停から300メートルほど、案内板もない住宅地を白子川目指し、道を探しながらとあって、歩くか自転車の地元民以外、あまり知られていない。 落ち着いて武蔵野の空気を味わおうとする人たちが毎年、楽しみにしているいまがカタクリの花の時期だ。 ![]() カタクリは北向きの斜面の落葉樹の落ち葉をかき分け、芽を伸ばし、花を咲かせるとあって、カメラを構える人には、逆光と木漏れ日の光と影の交錯を避けてスポット探しに工夫がいる。 仮小屋に置いてあるチラシには、「カタクリは種子から花が咲くまでに7~8年かかり、発芽1年目は針のような葉をつけ‥その後数年間は一枚葉で、7~8年で二枚葉を出して花を咲かせ、‥4月中旬頃まで次つぎと花を咲かせた後、結実期に入り、5月中旬頃までに葉が枯れ、地表からは完全に姿を消し‥。 地表に姿を見せるのは1年のうちごくわずかの期間で‥。地上での生活で鱗茎は養分を蓄え、成長しながら、地中に潜り、‥地表下で定着」 するとある。 ![]() カタクリの花は、普通、うす紫色だが、ここに勤めて7年あまりになる管理人の方でも、数回しか見なかったカタクリの白い花が1本だけ咲いていた。 突然変異で、数万本に1本といわれているそうで、来年、また、ここに発芽することはないとのこと。 昨年と今年の2回しかここに来なかった私が白い花のカタクリに会えたのは、ラッキーというしかなかった。
30年ほど前の赤坂には、現在のような開放的で賑やかな商店街はなく、閑静な町には、高級と名の付く料亭、ナイトクラブ、旅館・ホテルが目に付き、庶民の近づき難い場所という印象だった。 夜ともなると、高級官僚や政治家たちを乗せた 「た行」 ナンバープレートの黒塗りの乗用車が集まるお座敷会議の場所だった。 しかし、「た行族」 が一般に知れ渡るようになると、陸運局に圧力がかかったのか、1970年に官公署用ナンバーは廃止された。 その頃、黒塀で囲まれた料亭を見かけなくなったのは、料亭の数が減ったからだろうか。
![]() こんな昔の記憶をもって地下鉄赤坂駅から地上にでたら、そこは若者や子ども連れがいっぱいの遊園地のようで、その後ろに超高層ビル群が聳えていた。 地下鉄の出口を間違えたかと、見回すと 「子ども元気ひろば」 とある。 前もって地図で見ていた赤坂5丁目再開発によって生まれたTBS放送センターの付属施設、赤坂サカスとはここかと再認識する。 公式ホームページには、赤坂にはたくさんある坂=「坂s」、akasaka Sacasを右から読むと、「SACA・SAKA・SAKA」、三つ連なる坂、と謎掛けのような名前の複合エンタテインメント空間だった。 港区は都内で、一、二番目に坂の多いところ。 その中でも、1.3キロ平米ほどの広さの赤坂(1~9丁目)には、名前のある坂だけでも25あまりあるそうだ。 赤坂に坂が集中しているのは、港区が武蔵野台地の先端に当たり、一番の高地は、青山3丁目辺りの海抜34メートル、一番低い場所は、JR浜松町駅前カード付近の海抜0.03メートルと高低の坂が大きいからで、赤坂はその傾斜地に位置する。 江戸時代以前は、この辺りにいくつもの入り江があって、現在の坂の下は海だったのを埋め立て、農地とし、そこへ通う坂道が何本もできたというわけだ。 現在、坂の下には、商店街とビジネス街が広がり、その中間に、民間木造アパートと下町を思わせる民家が密集し、高台には高層マンションや事務所との複合ビル、寺院がある。 一番新しい坂、サカス坂を上り、途中で石段を下りると、「元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転してきた寺院の名称を取った。」 と標識のある圓通寺坂に出る。 そこを上り、日蓮宗圓通寺に向かう。 ![]() ![]() 圓通寺は、寛永2年(1625)に、もと松平安芸守の下屋敷の草庵跡に創設した寺院だったが、元禄8年(1695)に火災に遭い、そこから少し離れ、しかも鐘の音のよく聞こえる現在の高台に移転してきた。 山門左手の鐘楼に架かる梵鐘は、天和3年(1683)鋳造の 「十二支の鐘」 といわれ、高さ148センチ、口径92センチの鐘で、鐘の外側に刻まれた銘文に、子・丑・寅・卯‥の十二支の文字を読み込んだ七言律詩が刻まれているとあり、鐘楼の下から見たが判読できかった。 鐘が鋳造された年に 「時の鐘」 として幕府に認められたかどうかは分からないが、一応、梵鐘の鋳造年で他の寺院のものと比べると、寛永寺の鐘が1666年、浅草寺の鐘が1692年なので、寛永寺の鐘に次いで早くから鳴らされていたことになる。 圓通寺の 「時の鐘」 は、これまでに二度、行方不明になっている。 一度目は、元禄8年(695)に火災に遭った際、その詳細は分からないが、鐘が持ち去られ、一時、行方不明の時期があり、その後発見されて、戻ってきた。 二度目は、太平洋戦争中、供出され、行方不明になっていたが、戦後、板橋の玉蓮寺が戦時中に供出した自分の所の鐘の代わりに深川の古鉄置場から手に入れ、境内にあることが分かり、昭和50年に圓通寺が買い戻したのが、現在、鐘楼に架かっている鐘だ(圓通寺住職、31世、日輝。広報紙「十二支の時の鐘」より)。 ただ、この梵鐘も、現在は、周囲に住宅が増えたので、除夜の鐘しか撞いていないと、住職が話された。 「時の鐘」 に頼らなくても、誰でも、もっと正確な時刻を、いつでも分かる今日とあって、鐘の音が疎ましがられる存在になっているのは寂しい気がする。 赤坂地区には、ここの他にも、由緒ある寺院や往時の世の中の面影を感じさせる坂の名前や通りの名前を見つけることができるが、その話は今回は割愛する。 これまで、4回にわたって寺院の創設以来、現存する江戸の6箇所の 「時の鐘」 を見てきた。 前に触れたように、江戸時代は、現在とは違う時刻制度のもとで世の中が動いていた。 1年は365日、1日は24時間と等分割し、時刻を表示する定時法が制度化されたのは明治5年以後のことで、江戸時代には、日の出から日没までの昼間の時間と、日没から日の出までの夜の時間をそれぞれ6等分する不定時法が採られていた。 その結果、季節によって昼夜の時間の長さが違うという、今から考えると随分おかしな話のようだが、時計がなく、昼間は起きて働き、夜は寝るという生活習慣の時代には、目で見える太陽の高さで時間を測る方が分かりやすく、「時の鐘」 は、実生活に即して、役だった。 現在のように、時間厳守が当然で、10分も遅刻すると、苛立ってくる時代ではなかったのだ。
新宿3丁目交差点から澁谷方向に明治通りに入ると、ショッピングビル街からオフィスビル街に代り、疾走する車の音がやたら耳をつく。 その道路沿いに、ひっそりと、天龍寺の山門が建っている。 境内から見ると、林立する高層ビルに取り囲まれ、圧倒されながら、昔ながらの瓦屋根姿で伝統を頑なに主張しているようだ。
![]() 本堂の前に鐘楼がある。 新宿「区教育委員会の案内板は、「時の鐘」 の由来について、「元禄13年(1700)牧野備後守成貞により寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた 「時の鐘」 である。 現在の鐘は、銘文により元禄13年(1700)の初鋳、寛保2年(1742)の改鋳につづく三代目のもので明和4年(1767)の鋳造である。 総高155センチ、口径85.5センチで多摩郡谷保村の関孫兵衛の鋳造になる。 天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を追出す合図であり 「追出しの鐘」 として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここだけが府外であり、武士も登城する際時間がかかったことなどか30分早く時刻を告げたという。 なお、上野寛永寺、市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。」 とある。 ![]() 案内板に蛇足を加える。 牧野備後守成貞(1634~1712)は、上野館林藩家老を経て、5代将軍綱吉の側用人の職に就いた後、下総関宿藩主となった人で、また、天龍寺は彼の菩提寺だが、元禄5年(1692)、浅草寺の 「時の鐘」 の製造の際にも、200両を寄進しており、その動機は不明だが、よほど 「時の鐘」 に傾注した殿様らしい。 また、「天龍寺の鐘は、夜通し遊興にふける客を追出す合図」 だったが、浅草寺の 「時の鐘」 の方は、吉原から 「客と別れ惜しむ鐘」 といわれており、幕府公認の遊郭・吉原と岡場所(私娼屋)・内藤新宿(現在の新宿3丁目辺り)との客層の違いを感じる。 また、武士の登城時間に間に合わせるため、30分時間を早めて鐘を打ったというのが事実ならば、「時の鐘」 に求められていたのは、単なる時刻の正確さよりも、むしろ現実の生活や制度に役立たせることだったのではなかろうか。 なお、天龍寺には、牧野成貞の寄進した、通称、櫓時計というオランダ製の櫓の型の台にのった時計(区指定文化財)があり、この時計をもとに鐘を撞いたという。 上の案内板に書かれている市ヶ谷八幡(亀岡八幡宮)の 「時の鐘」 は、慶長9年(1604)に造られ、その後、何度か改鋳され、明治新政府によって、「時の鐘」 が廃止されるまで撞かれていたが、神仏分離の令で、神社に鐘楼があるのはおかしいと毀され、現在はない。 長年、僧侶に抑えられてきた神職らの不満が神仏分離の法令発布を機に爆発し、理性を失った廃仏毀釈運動は猛威を振るい、貴重な文化遺産が失われたことは残念だ。 それでも、天龍寺の鐘は、昭和18年に重要美術品の指定を受け、戦時の金属供出命令から免れたことは幸いだった。 いまは、「時の鐘」 の役目を終え、除夜の鐘の音しか聞かれない。 ![]() 中目黒の祐天寺は、享保3年(1718)、祐天上人を開祖とする由緒ある寺院だが、それより140年も後の江戸切絵図には、目黒川より先は目黒不動の外は、百姓地とあるだけの辺鄙な場所で、そこに 「時の鐘」 があるのは、不思議な気がする。 しかし、祐天寺には、現在、文化財に指定されている5代将軍、綱吉の息女松姫寄進の祐天上人坐像や竹姫寄進の仁王門、阿弥陀堂、稲荷堂、さらには、6代将軍家宣正室天英院寄進の梵鐘、鐘楼などの遺構があり、これは、祐天寺が徳川家との繋がりが深かった証拠で、梵鐘が 「時の鐘」 として公認されたほか、その後も幕府から諸経費の寄進を得ている。 ![]() 梵鐘は、享保13年(1728)、家宣の17回忌追善のため、正室天英院が金150両を寄進し、祐天寺の敷地内で鐘を鋳造し、翌年、完成したものだ。 この梵鐘の鋳造は、朝、鋳造小屋の前に、幅7尺四方、深さ9尺の穴を掘り、そこに二重枠の鋳型を埋め、周りの土を固め、鐘を吊る龍頭の上に湯口をあけ、そこから石造りの湯釜で溶かした金属を鋳型に流し込み、周りの穴から風を送って冷やし、夕方に、鐘を掘り起こしたという(吉村弘 「大江戸時の鐘 音歩記」)。 現在の鋳造技術からみると、こうして造られた鐘が、毎日、撞かれても破損しないものだと、気になるが、高さ192センチ、口径99.5センチのこの当時の鐘の音は、現在も正午に町に流れている。
花の季節、江戸の鐘でまず頭に浮かぶのがこの芭蕉の句。 今回は、桜がちらほら咲き始めた上野と浅草の 「時の鐘」 の出番だ。
上野公園や浅草寺は、誰でも知っているので、今更、言うこともなさそうだが、上野・寛永寺の 「時の鐘」 や浅草寺 「時の鐘」 の場所を知らない東京人が意外に多い。 ![]() 上野・不忍池沿いの動物園通りからそれて花園神社に向かう坂道を上ると、老舗の日本料理の韻松亭(明治8年創業)とフランス料理の上野精養軒(明治9年に開業)の間をさえぎる崖の上に 「時鐘堂」 が見える。 この 「時の鐘」 は、寛永寺の本堂(根本中堂)の鐘と混同されやすい。 それというのも、両方とも、寛永寺の鐘といわれ、両方とも除夜の鐘が撞かれるからだが、「時鐘堂」 が建てられたのは、寛文6年(1666)で、根本中堂の梵鐘(元禄11年1698年建立)よりも古く、しかも、場所も離れている。時鐘堂は、寛永8年(1631)創建の清水観音堂と大仏堂の近くに建てられたので 「大仏下の時の鐘」 と呼ばれていた。 鐘は、その後数回改鋳され、現在の直径110センチの鐘は、天明7年(1787)に改鋳されたもので、明治以後、時の鐘は廃止されたが、今も朝夕6時と正午の3回、時を告げている。 高台にある時鐘堂のそばまでは近づけないが、どこから鐘楼に上って鐘を撞くのだろうか。 一方、寛永寺本堂の鐘楼堂には、欄干の角々に左甚五郎の龍が彫られていて、その龍が毎夜不忍池へ水を飲みに行くので、龍の目に釘は打ち込んであったと言い伝えられていたが、幕末の上野戦争で寛永寺の伽藍のほとんどが焼失し、上野の山が焼けの野原になった時、その龍も消えた。 寛永寺が寛永2年(1625)に建てられた当時、敷地面積は35万5千坪と、現在の上野公園(53万平米)の倍以上の広さの寺院だったが、また、そこは江戸一番の桜の名所で、多くの人々の集まる行楽地だった。 ただ、徳川将軍の霊廟のある寛永寺とあって、花見客は、飲酒は許されたが、食べ物や鳴物はご法度で、しかも、暮れ六つの鐘とともに、遊客は同心に追い出されたので、時の鐘は、「追い出しの鐘」 ともいわれた。 ここを訪れた時は、鐘の鳴る時間帯から外れ、江戸の町民たちと同じ感傷に浸ることができず、残念だった。 現在、上野公園では、平成22年から上野公園再生整備計画のもと、いくつかの区画に分けて大々的な工事中で、今は、噴水のある公園とその両側(竹の台広場)へ入れないので、今年の花見は例年にない混雑が予想される。 ![]() 明治政府による突然の 「神仏判然令」(通称、神仏分離令)によって、浅草の神社と寺院は分離させられ、それ以前は、同じ観音様を観音堂に祀って信仰してきたものが、以後、同じ敷地にあり、同じ番地でありながら、浅草寺と浅草神社とに名を分け、その読み方もそれぞれ 「せんそうじ」、「あさくさじんじゃ」 としたほか、「ほおずき市」、「羽子板市」 は浅草寺の行事、浅草中が大賑わいの 「三社祭」 は浅草神社の行事と別々に行うなど、地方からの観光客のみならず地元民も戸惑わせることになった。 しかし、こんなひち面倒くさい話よりも、来世のことは二の次で、現世のご利益信仰で一致する日本教の信者たちは、毎日、左右に立つ雷神と風神に睨まれながら続々と雷門に吸い込まれ、松下電器グループ提供の赤い大提灯の下を通って、多彩な商品を並べ、手ぐすね引いて客を待つ仲見世通りから宝蔵門を通り抜け、その名もご利益がありそうな 「金龍山浅草寺」 の本堂の階段を上ってお参りを済ませた後、右側に回って見下せる東隣の浅草神社にもお参りするというのが、神仏混淆自由人の順路のようで、その後、人の波は三々五々、境内に散って行く。 ![]() そんな人の流れから外れ、本堂や本殿の近くにありながら人通りまばらなのが弁天山の弁天堂前。 山とは大袈裟で、石段を15段上ったところに鉄筋コンクリート造りの弁天堂があり、白髪のため 「老女弁財天」 といわれる弁天さまが祀られている。 やはり、若くて艶めかしいお姿で琵琶を奏でる弁天さまの方が人を引き付ける力があるのか、お参りにくる人影はなく、時折、ガードマンが巡回にくる程度。 「べんざいてん」 とは、仏経典から漢字を当てたもので、本来は 「弁才天」 だが、日本では、財宝の神として崇められ、「弁財天」 となり、仏教も神道もカミとして崇めてきた。 閑話休題。 話を 「時の鐘」 に戻そう。 弁天堂の右手に鐘楼がある。 元禄5年(1692)、5代将軍綱吉から鐘の改鋳の命を受けた下総国関宿藩主、牧野成貞が音を良くするため黄金200両を鋳入したといわれる、高さ2.12メートル、直径1.52メートルの 「時の鐘」 だ。 鐘楼は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失し、25年に再建したものだが、幸い、鐘は無事で、現在も毎朝6時に撞き鳴らされている。 現在では、セシウム原子の振動を利用した原子時計から、更に発展した電波時計など、1秒の何千分の1秒も狂えば大騒ぎになる時代に、時の鐘の音は、慌ただしい現代人の心をストレスから解放させてくれる。 それにしても、浅草寺境内を押すな押すなで溢れかえる参詣客が、時の鐘のある鐘楼にまで訪れる人の少ないのは、今に始まったことではないようだ。 江戸の古川柳に、「提灯に釣り鐘負ける浅草寺」 というのがある。
2008年11月から始めた 「ぶらり、まち歩き」 シリーズも今回で129回目になった。
これと決めたコースを4時間ほど、名所旧跡はもちろん、面白いと思ったものを素早くスナップ撮影しながら歩き回っていると、すぐに150コマほど撮ってしまう。 フイルム代、現像・焼付け代を気にせずに撮れるデジタルカメラの出現は有難い。 だが、その一方で、撮り過ぎるくらい撮ったもののうちから、ブログのテーマに合うものを4、5点選ぶと、当然ながら、毎回、100数十コマがお蔵入りになり、どうかすると記憶からも消えてしまうのは、勿体ないと気付き、これまでに撮り溜めていたものから今回は、「時の鐘」 をテーマに選んでみた。 時の鐘といっても、高音でガランガランと続けざまに鳴り響くキリスト教会の鐘ではなく、低音で間を置きながらゴォーンと腹に響くような日本の仏教寺院の梵鐘のことだ。 しかし、今では、日本人の心のふるさと、「夕焼け小焼けで日が暮れて‥」 の童謡にでてくる 「山のお寺の鐘」 など、除夜の鐘以外、聞いたことのない人がほとんどだろうが、そのお寺の鐘は、本来、勤行の際の効果音として用いられたもので、時刻を知らせるためのものではなかった。 では、梵鐘がいつから時報を知らせる役割をもつようになったのかと調べたら、「時の鐘」 の方が先で、寺院が梵鐘を時の鐘として各地で鳴らしたのは後のことだと分かった。 寛政3年(1750)の調べでは、幕府公認の 「時の鐘」 は十か所で、後に二か所が加えられている。 このうち、現存している 「時の鐘」 は、石町の鐘(1626年創設)、上野寛永寺(1666年創設)、弁天山(浅草寺境内、創設年不明)、赤坂圓通寺(1683年創設)、四谷天龍寺(1700年創設、新宿4丁目)、目黒祐天寺(1738年創設)の6か所で、現存してはいないが、記録に残っているのは、本所横川町(墨田区、横川親水公園内にミニアチュアの鐘がある)、芝切通し(港区芝公園付近)、市ヶ谷亀岡八幡(新宿区)、目白不動(豊島区高田)、下大崎寿昌寺(品川区東五反田)、巣鴨子育て稲荷(文京区千石)の鐘の合わせて12か所に 「時の鐘」 があった。 江戸で最初の 「時の鐘」 は、家康の入府に遡る。 老中たちに登城時間など公の時刻を知らせるため、江戸城の西の丸(現在、天皇の御在所)の鐘楼で朝夕2回、鐘を撞いたのが始まりだ。 二代将軍、秀忠の時代になると、一日を12等分して、昼夜2時間ごとに鳴らすようにしたが、御座所に近い鐘楼からの鐘の音が政務の妨げになるとして、鐘の代わりに櫓太鼓を定時に叩くことにし、時計奉行が3基の時計を見ながら時報を知らせた。 その当時の時計がどんなものだったのか判然としないが、既に、鉄砲伝来(1543年)や宣教師ザビエル来日(1549年)の時代に入ると、スペインの貿易商から家康や大名に献上された時計があった。 しかし、江戸時代は、時刻を日の出と日没を基準とする時刻制度だったので、折角の西欧の時計も、実際には使用されず、奈良・平安の時代から行ってきた線香の燃える早さで時間を測る 「時香盤」 を見ながら、鐘を撞いていたのではなかろうか。 機械仕掛けの和時計ができたのは17世紀後半といわれているから、元禄時代には、時の鐘の時刻合わせに和時計が使われたかもしれない。 なお、台東区谷中にある大名時計博物館には、時香盤も含め、当時の時計がそれほど多くはないが展示されている。 江戸城の 「時の鐘」 が太鼓に代った後、鐘撞役を代々勤めてきた辻源七は、寛永三年(1626)、本石町(現在の日本橋本町4丁目、室町4丁目の一部)に200坪の土地を拝領し、新たに鋳造した鐘を鐘楼に懸け、ここに江戸最初の 「時の鐘」 が誕生した。 「時の鐘」 の出現は、人びとに共通のリズム感覚を植え付け、時間に管理される生活へと変わる。 町木門の開閉時間から小伝馬牢屋敷の囚人の処刑時間までも鐘の音を合図に行われた。 ただ、刑の執行時間を知らされた鐘撞役は、故意に数分遅らせて鐘を撞いたので、「情けの鐘」 ともいわれた。 当時の江戸の町は、今では想像もできないほど静かな町だったようで、源七の撞く鐘の音は、「一番の繁華街の日本橋を始め、東は隅田川、西は麹町、南は浜松町、北は本郷あたりまで」 と、距離にして、約四百町先まで鐘の音が届いた(吉村弘 「大江戸 時の鐘 音歩記」)。 また、鐘の音が聞こえる範囲の町からは、毎月、「鐘楼銭」 として永楽銭で一文を徴収し、修理費など維持費、鐘撞人の給金などに当て、修理など大金が必要な時は幕府から公金が支払われた(角山栄「時計の社会史」)。 なお、わが国古来の時刻制度は、太陽暦の採用された、明治6年1月1日以降廃止され、国際化された。 ![]() 創設時の 「時の鐘」 は何度か火災に遭い、破損し、修理、改鋳がおこなわれたが、明治になってその役目を終え、昭和5年に小伝馬町牢屋敷跡の十思公園内に建てた鉄筋コンクリートの鐘楼に宝永8年(1712)鋳造の高さ1.7メートル、口径93センチの銅鐘を懸けた。 元の鐘楼のあった日本橋本町と室町の境の通りと十思公園の間、500メートル程の道は、平成14年、「時の鐘通り」 と命名されれた。 ![]()
新宿通り(甲州街道)と外苑東通りが交差する四谷三丁目南東側400メートル四方の地域は、かつての四谷区寺町、南寺町(現在・新宿区須賀町、若葉町)で、その町の名の通り、新宿区内寺院の25%の寺院がここに集中している。
これらの寺院は、寛永11年(1634)に江戸城西丸が全焼した際、城の北西の外堀拡張・新設計画に従って、麹町の寺社が四谷に集団移転してきたもので、江戸時代に活躍した人士、あるいはその頃の無縁仏の風化した墓石、石仏が多い。 また、この狭い一画には、車が頻繁に行き来する坂、歩行者しか通れない急坂など、標識のある坂だけでも6つあり、そのうちの4つは、お寺と関係のある名前のつく坂だ。 ただ、坂の多い落合、中井地区とは違い、ここは大都会の町中とあって、坂道の両側は、民家、アパート、事務所ビルが密集し、それらと向き合い、挟まれる恰好で寺院が建っている。 ![]() そのいつくかの例をあげよう。 四谷警察署のある外苑東通りから入った左門町と隣の須賀町には、以前、訪れた四谷怪談のお岩を祀る於岩稲荷神社と陽運寺を始め、正覚寺から奥へ7,8軒隣接する寺院が通りの片側に並び、その道向かいには、民家が並んでいる。 群書類従の編者として名高い盲人国学者の塙保己一と浅草・吉原に対抗して内藤新宿を開設した高松喜六の2人の墓は、東福院坂途中の愛染院にあり、さらに下ると、急な石段坂が立ちはだかり、その上に須賀神社がある(上の写真。 左煉瓦塀は愛染院、その先に須賀神社の石段がみえる)。 また、鬼平犯科帳の主人公、長谷川平蔵の墓碑のある(墓はない?)戒行寺は、その名をとった戒行寺坂の上にある。 ![]() 江戸後期の刀鍛冶で四谷正宗の名刀作り、源清麿の墓のある宗福寺は、4階建てビルと民家に接して建っており、また、幕末から明治にかけて活躍した最後の剣客といわれる榊原鍵吉の墓は、西応寺本堂裏の急斜面下に広がる墓地にある(上の写真)。 ![]() 松巌寺と永心寺の間にあって、幅2メートルほどの闇(くらやみ)坂の両側は、道路際いっぱいに建つ民家に挟まれ、街灯はあるものの、夜間は歩行者が転びそうなくらいの急坂だ。 ![]() この四谷地区が海岸だったとは信じ難い話だが、若葉町2丁目の観音坂下にある区の標柱には、江戸時代以前、この辺りは海岸の浅瀬で、そこに立っていた観音像の台石が潮の満ち干によって湿ったり乾いたりしたので、潮踏(塩踏)観音とか潮干観音と呼ばれ、また、この辺りを潮踏みの里と呼んだことから、観音坂の名が付けられたとある。 その観音像は、坂を下る途中にあって、赤、紺色の幟旗がたくさん立っている真言宗・真成院3階の観音堂に祀られている(上の写真)。 ![]() 観音坂を上った高台に浄土宗・西念寺がある。 ここには、服部半蔵の墓と半蔵が家康から賜った槍が本堂に保管されている。 伊賀流忍者で槍の名人の半蔵は、家康の三河以来の旧臣で、16将の1人に数えられ、家康の江戸入府後は、江戸城の警護に当たったことから、皇居・半蔵門の名前の由来とされている人物だ(上の写真)。 区教育委員会の掲示板にある服部半蔵の墓の由来は、簡潔すぎて読み解くのは難しい。 私なりの解説を加えると、今川義元の姪で徳川家康(松平元康)の正室となった築山御前との間に生まれた長男の松平信康に対して、信長は警戒心から、天正7年(1579)、無情にも、その父家康に、信康の切腹を命じた。 半蔵は、その介錯役を主君の家康から命じられたが、自らの手を下すことができず、「晩年、信康の菩提を弔うため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。 文禄2年(1593)には、家康から寺院を建立するよう内命を受けたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)、現在地に移転した」 とある。 この辺りの坂道を上り下りして、いささか疲れ、これで終わりにしようと帰途についたら、もう一つ、暗闇坂を下りなくてはならないことになった。 それは、地下にある四谷3丁目駅への急な石段坂だった。
前に訪れた杉並区の妙正寺公園池(11年10月25日付ブログ)を源泉とする妙正寺川は、中野区に入って練馬区豊玉からの江古田川と合流し、刑務所跡の平和の森公園を通って北上し、哲学堂公園内を通り抜けた後、今度は南下して新宿区に入り、西武線新宿線にまといつくように曲がりくねり、下落合駅と新目白通りの間の道に架かる辰巳橋を最後に暗渠になる。
![]() 昔は、この辺りで妙正寺川と神田川とが落ち合い、高田馬場方向へ流れていたので、落合の名前の由来になった。 その後、川の氾濫を防ぐために、妙正寺川の流路を変え、現在は、(これも前に訪れた)面影橋の手前の高田橋で神田川と合流している。 目白台地とその西の武蔵野台地の谷間を流れる妙正寺川流域との高低差は大きく、地図だけを頼りに歩いていると、100メートル程先の所でも、その間に急坂があり、しばしば戸惑う。 目白台地にある中落合、下落合の住人には、どの家庭でも手軽で便利な自転車も、かえって厄介な荷物になるようで、急坂を息せき切って歩く姿がある。 また、この辺りには、農村当時の様子を彷彿とさせる名前の坂もある。 農民が水田への農道として使っていた 「市郎兵衛坂」、「久七坂」。 谷間にたなびく霞の情景を思わせる 「霞坂」。 「蘭塔坂(ニの坂)」 は、蘭塔と呼ばれ卵型の塔婆のあった墓地へ通じる坂だ。 ![]() 下落合駅から新目白通りを高田馬場方向に行くと 「相馬坂」 の上り口がある。 その名のいわれは、明治時代末に相馬家がこの一帯の土地を買い取り、新井薬師道から相馬邸へ行くために切り開いた坂だからで、坂の途中に 「おとめ山公園」 がある。 「おとめ山」 とは、誰でも乙女山と思うだろうが、実は、江戸時代に将軍家の鷹狩り場として一般人の立ち入りを禁じた 「御留山」 から呼ばれた一画で、昭和40年代に区営の自然公園として市民に開放された。 公園は道をはさんで東西二つに分かれ、西側は、相馬家の、東側は近衛家の敷地だった。 西側の公園内の斜面から湧き出る水は、東京の名湧水57選に選ばれており、その湧水池では、ホタルが養殖され、夏の夜を賑わせている。 ![]() 「見晴坂」 は、急な坂で、説明標に 「この坂上からの眺めは素晴らしく、特に富士山の眺めは見事であった」 と坂の名の由来が書いてあるが、今では、急斜面に建つマンションにさえぎられ、路上からは、富士山どころか新宿ビル街のごく一部しか望めず、とても気持ちよく見晴らせる場所とは言えない。 むしろ、おとめ山公園内の高台からの方が展望がよい。 それにしても、この急坂を上り下りしなくては仕事にも買い物にも行けないマンションの高齢者にとっては難儀なことだ。 ![]() ところで、目白台の、現在、中落合地区は、昔は、農作地だったのを、大正11年から昭和4年にかけて住宅地に造成し、目白文化村が生まれたことは、前号で触れたが、その後、この村はどうなったであろうか。 昭和20年に3回の大空襲で、その大半が灰燼に帰したまま放置されていたが、25年にはじまった朝鮮戦争による特需景気によって息を吹き返し、焼け跡に住宅が建ち始めた。 それと同時に戦争で中断していた環状6号線(山手通り)工事を再開し、38年に開通。 42年には山手通りと立体交差する新目白通り(放射7号線)も開通した。 その結果、目白台地はこの2本の幹線道路によって、文化村も縦横に分断された。 上の写真の山手通り沿いにそそり立つコンクリート絶壁上の民家を仰ぎ見ると、交通の便を優先した道路の開通によって、無残にも高級住宅地の姿は消え、更に、宅地の細分化も進み、建蔽率一杯に建てた家が密集するただの住宅専用地域になった。 ついでだが、放射7号線道路計画は、今も続いている。 予定される沿道周辺地区は、農地や屋敷林など練馬の原風景を残す緑を支える地域で、平成18年に、わが地域の練馬・大泉地区を分断する事業計画が都によって認可され、道路整備による利便性の向上と環境保護、防災、交通安全の確保などとどう折り合うかを巡り、賛否両論が戦わされ、署名運動まで活発化している。
妙正寺川沿いの西武新宿線中井駅は、立体交差する山手通りの真下にある。
![]() 中井は、上・下落合村の中ほどにあって、井戸を掘れば直ぐに水が湧き出た由来の名の通り、この一帯は、昭和の初めまで、田畑、雑木林、墓地、沼地の農村地帯で、前回訪れた中井出世不動のある中落合4丁目(旧淀橋区下落合4丁目)から妙正寺川へ向かう道はすべて下り坂で、その谷底のようなところに中井がある。 中井駅北側(中井2丁目)から下り線に沿いの5~600メートルの道には、山手通りに通じる 「一の坂」 から順番に、中井御霊神社に通じる 「八の坂」( 正しくは、この先にもう一つ 「御霊坂(ごりょう坂)」があるが)まで八つの坂がほぼ並行しており、このうち、「四の坂」 だけが石段坂で、その角に林芙美子の旧邸があり、現在、新宿未来創造財団が運営する記念館になっている。 ![]() 林芙美子が上京した大正11年(1922)から昭和4年(1929)にかけて、中井北側の高台(目白台地)の豊玉郡下落合村(現・中落合3~4丁目のほぼ全域とその周辺地域)から中井村の一部の土地では、西武グループの創業者、堤康次郎が設立した不動産会社が宅地を造成し、販売が始まっていた。 「自然に恵まれた健康的要素と瓦斯・電気・上下水道完備」 「ビバリーヒルズの町並み」 といった宣伝文句に、中の上以上の階層の、いわゆるインテリ層の人びとがこぞって購入し、 「目白文化村」 の名にふさわしい洋館風の住宅が次々に新築した。 そして、そこに移住してきた住民は、昭和2年に開通した西武新宿線の中井駅との往復路に、この八つの坂を大いに利用したことだろう。 「放浪記」 の冒頭に 「私は宿命的に放浪者である。 私は古里をもたない」 とあるように、林芙美子は、現在では、とても、考えられないほどの極貧と放浪の生活の中から生まれた作家だ。 彼女は、呉服商の父と温泉宿の娘で既に3人目の夫の間に3人の子の出産歴のある母との間で明治36年に生まれたが、父は彼女を認知せず、そのうえ、浮気相手の芸者を家に入れるに及んで、6歳の時、母子ともに家出した。 当然、生活に行き詰った母は、翌年、彼女を連れて20歳年下の古物行商人の男と結婚し、北九州炭鉱地帯から下関辺りで木賃宿生活を転々と続けながら小学校は10回以上転校という人生の初めから不遇な生活をしいられた。 女学校入学後も学資稼ぎに女中、夜勤女工などをして卒業し、愛人と共に上京したものの、直ぐ破綻し、産院の見習い、露天商、銭湯の下足番、女中、女工、代書屋の事務員、カフェ女給(無給のキャバクラ嬢)などを転々としながら昭和5年、26歳の時、落合に移り住み、以前から書き綴ってきた日記をもとに仕上げた 「放浪記」 がベストセラーとなり、一躍、作家の地位を確実にし、極貧生活からやっと抜け出した。 ![]() 現在、記念館になっている家は、彼女が昭和16年に525坪の土地を購入し、新居建築のため、建築を学び、京都の民家見学に行くなどその思い入れは格別な家だが、それにしても、やっとそこまで辿りつけた豊かな生活も昭和26年に47歳で亡くなるまでの10年間しか住んでいられなかったというなんとも気の毒なことだ。 昭和8年の随筆 「落合町山川記」 には、当時の中井の様子が次のように描かれている。 「東中野の駅までは私の足で十五分であり、西武線中井の駅までは四分位の地点で、ここも、妙法寺の境内に居た時のように、落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の日なんぞは、きな臭い人を焼く匂いが流れて来た。 その頃、一帖七銭の原稿用紙を買いに、中井の駅のそばの文房具屋まで行くのに、おいはぎが出ると云う横町を走って通らなければならなかった。 夜など、何か書きかけていても、原稿用紙がなくなると、我慢して眠ってしまう。 ほんの一、二町の暗がりの間であったが、ここには墓地があったり、掘り返した赤土のなかから昔の人骨が出て来たなどと云う風評があったり、また時々おいはぎが出ると聞くと、なかなかこの暗がり横町は気味の悪いものであった。」 彼女の墓は、ここから程遠くない中野区上高田の功運寺にあると、記念館で聞き、そこまでの地図をもらって出かけた。 ところが、西武線の踏切を渡って中井1丁目から上高田4丁目に入った途端、狭くて迷路のような路地に右往左往した。 車1台が辛うじて通れる路地で、曲がり切れず、後戻りする車。 通れそうで行き止まりの道。 袋小路かと見えながら民家の塀すれすれで通れる抜け道。 路地のど真ん中に立つ電柱‥。 以前、テレビで災害時に都内一危険な地として紹介された墨田区京島(最近は、大分改善されたが)以上の災害時危険地域で、通りがかりの地元の方に何度も道を伺いながらやっと、「落合町山川記」 にでていた火葬場、落合斎場に辿り着き、そこから曲がりくねった道を通り抜け、目指す曹洞宗萬昌院功運寺に着いた。 ![]() 林芙美子の墓は、林家累代の墓とともに並んで立っているが、彼女の墓が名声に支えられて一番大きく、その脇にある鹿児島の家から追い出された彼女の母をはじめ親族の墓は、彼女の死後、ここに移したのではなかろうか。 抜け出したいと思いながらもカフェーで働き、あるいは、少ない原稿料の中から両親へ送金し続けた彼女にとって、 親子の安らぎの場が得られたに違いない。 また、このお寺に来て初めて知ったのだが、ここは、林芙美子の墓のほか、吉良上野介、今川義元の子の今川長得、剣道真心陰流開祖の長沼国郷、綱郷、浮世絵師の歌川豊国、南蛮外科医の栗崎道有、旗本奴の水野重郎左衛門などの菩提寺だった。 これら史上有名人の墓については、別の機会に譲る。 今回の記事は、「林芙美子集」(日本文学全集57 新潮社)、野田正穂ほか編 「目白文化村」(日本経済評論社)、「林芙美子随筆集」(岩波文庫)を参考にしました。
哲学堂通りを渡ると、中野区から新宿区西落合に入る。 新宿区といえば、新宿駅東口の繁華街や西口の超高層ビル街をまず連想するが、ここは、そんなイメージとは全くかけ離れた閑静な住宅地域で、人通りも少ない。
妙正川に向かう緩い下り坂の途中に葛谷御霊神社がある。 社伝によると、ここは、源義家が前九年の役(1062年)で勝利をおさめ京へ帰還の途中、義家に従っていた京の葛の里の一族が(理由は不明だが)この地に移住し、それ以来、この地が葛ヶ谷村と呼ばれ、源氏の守護神の八幡神を勧請した八幡社だ(新宿区観光協会)。 ![]() 訪れた1月13日は、午前中、備射祭(通称、おびしゃ)の弓神事が行われた後で、境内では、氏子たちが持ち寄った正月のしめ飾り、門松を鉄器の中で焼く 「どんど焼き」 の最中で、その残り火で餅を焼き、振る舞うとのことだった。 境内の一隅に、昔、この日に村の若者が力比べに使った力石が5,6個あり、それぞれに奉納の文字と目方が刻まれ、区有形民俗文化財に指定されているが、機械技術の進んだ今では、力持ちの出番がなくなり、力石は、境内の一隅に、なかば土に埋もれ置いてあった。 ここから1キロほど先の中井御霊神社でも午後、備射祭が行われるが、いずれもに新宿区無形民俗文化財に指定されている年中行事だ。 ![]() 葛谷御霊神社の前の通りを新青梅街道へ向かい、新目白通りと合流する少し手前に、招きネコの大きな石像が立っている。 ネコに鰹節ならぬ小判を抱えて立っているのが御愛嬌だが、ここは、ネコ寺で知られる真言宗・自性院の看板ネコで、入口に、「厄除開運猫地蔵霊場」 と 「子育猫地蔵」 の石柱が立っている。 ネコが祀られた由来は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりと言われている。 閉まっている戸の間から猫地蔵堂の中を覗くと、たくさんのネコの置物に囲まれた木製の地蔵尊の立像がある。 秘蔵の 「猫地蔵」 と 「猫面地蔵」 は、節分の日だけに御開帳とのことで、実物は見れなかったが、写真で見ると、太田道灌が寄進した 「猫地蔵」 は石が風化しはっきりしないし、別人が江戸時代に奉納したネコの顔をした 「猫面地蔵」 は、なんともグロテスクな感じだ。 世田谷の豪徳寺にも、ネコを祀った招福観音があったが(10年1月22日付けブログ)、忠実で陽気な犬はせいぜい狛犬で、ネコ並みに地蔵尊、観音菩薩になれないのは何故だろう。 余談だが、いま都会人に人気の 「猫カフェ」 が動物愛護法で近々規制されると一寸した騒ぎになっているそうだが、不況の中、なんと平和な国だろう、などと思いながら自性院を退出した。 地図を頼りに、中落合4丁目の住宅地を行きつ戻りつして、中井出世不動神社に出る。 新宿区教育委員会の掲示板に、江戸時代の遊行僧、円空の作で、区有形文化財に指定する都内唯一の不動尊像があると書いてあるが、室内撮影お断りと、張り紙のある社殿は閉じられ、人気もなく、素通りする。 ![]() 人影まばらの静かな住宅地で目白大学の立看板をみつけ、その方向に道なりに行く。 急な坂を上がって来た人に中井御霊神社への道を尋ねる。 地元民しか知らないような石垣の間の細い石段を教えられ、そこを上がると神社境内に出た。 この辺りは高台で見晴らしがいい。 備射祭の神事は、木遣を先頭に氏子が本殿に向かって列を組んで入場に始まり、拝殿で祝詞奏上、杯の儀の後の弓射の儀となり、年男を始め氏子、神官の順で、境内に掲げた的を矢で射て、その年の豊凶を占い、悪霊を駆除して豊作を祈る順で行われると聞いたが、それまでに2時間あまり間があるので、今回は諦める。 このほか、正徳5年(1715)に富士山の噴石を固めた岩山の上の狛犬、備射祭の弓矢の的を描くために永禄6年(1563)と元和6年(1620)に作られた竹製のコンパス 「分木」、享保3年(1717)、備射祭の様子が描かれた絵馬、笠木に彫られた江戸中期の竜王神の彫刻(下の写真)など往時の民俗文化を知るのに貴重な財産が区文化財に指定され、保存されている。 ![]() 2、3人も入れば満員の広さの社殿だが、この日に限って開放され、区指定有形民俗文化財の農民が雨乞いの祭に使った筵旗など貴重な文化財が開陳されていた。 守護神の神通力が奪われるとでも思うのか、靖国神社を始め社殿内撮影禁止の神社が多い中で、ここの神官は自由の心の持主で撮影は自由だった。 ![]() 「今年は壬辰(みずのえたつ)の年で、壬は妊に通じ、植物の内部に新しい種子が生まれた状態を表しているとされています」 と、説明書きにあった。 しかし、妊は 「はらむ」 の意味なのに、あえて 「植物の~」 としたのは、神官の慎重な慮りだろう。 また、男性の 「オタカラ」 に似せた大根は、神社の祭によく見られる供物だが、ここでは、チェーンソーで削ったという木製の大物にしめ縄が掛けられての御開帳に思わず手を合わせた。
哲学とは、ドンブリものと同じではないかと、思ったことがある。 哲学だけでは内容が分からず、人生、政治、法、経営、あるいは誰々の、などを頭につけないと様にならない。 食堂でドンブリものといえば、天ぷら、カツレツ、ウナギ、牛、卵などが付き物で、ドンブリものとだけ注文しても店員は何を出していいか分からないのと同じだ。
そんな考えの持主が、これまで幾度もバスで素通りしていた哲学堂公園を訪れる気になったのは、仏教哲学者であり教育家でもある井上圓了(1858~1919)博士が明治37年に小石川区原町(現・文京区白山)に哲学館大学(現・東洋大学)を創設した記念に、精神修養の場として、中野に公園を開いた博士のユニークな思想に好奇心が刺激されたからだ。 博士の著書は、現在も、全集になって発行され、一部はインターネットでも読むことができるが、発刊当時、日本は、まだ文明開化の荒波の中で欧米崇拝の風潮と、その反面、前時代から引きずってきたカルト信仰が広がっていた時代で、これに対する博士の反対論は、いささか過激だが面白い。 「漢字万歳 漢学万歳 漢字漢学万々歳」 の言葉で終わる 「漢字不可廃論 -国字改良論駁撃」(1900年)は、国民教育普及のため学習に時間のかかる漢字、漢文を廃止し仮名文字にせよ、という国字改良論への反論だ。 また、妖怪博士の異名をもつ博士は、民衆の間で広がっている迷信打破を目的とした著書、「妖怪学」(1892年)、「妖怪玄談 狐狗狸の事」(1887年)の中で、いわゆる 「こくりさん」 なるものは、「鬼神の所為にあらず、狐狸の憑るにあらず、・・・ 別に道理上証明すべき種々の事情ありて、無意自然に回転、上下するに至るなり」 と持論を展開している。 こんなユニークな哲学者が、ここに土地を買い、自身でデザインした公園だけあって、形而上学に通じる者ならでは理解できないような独特の名前の建物、石碑などがいたる所にあり、博士の哲学に翻弄されながらの公園散策になった。 ![]() ![]() その中でも、誰でも分かるのは、明治37年、この公園に最初に建立した、孔子、釈迦、ソクラテス、カントの世界四哲学者を祀る 「四聖堂」 で、当初、「哲学堂」 と呼ばれ、その名がそのまま公園の名となったものと(最初の写真)、もう一つは、聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、竜樹、迦毘羅山の6人を 「六賢」 として祀った六角形の塔、「六賢台」(次の写真)くらいだろう。 ![]() 大正4年に建てた「絶対城」(上の写真)は、もとは図書館だったが、その名の由来は難しい。 「万巻の書を哲学界の万象とみたて、それを読み尽くせば、絶対の妙境に到達するという寓意から図書館を絶対城と名付けた」 とあるが、少なくとも、グーテンベルクが15世紀に印刷技術を開発してからは、とても万巻の書を読み尽くすことは不可能な話だ。 ![]() 次の、「哲理門」(上の写真)、またの名 「妖怪門」は、「本堂の左右にあった天狗松と幽霊梅があったことに因み、天狗は物的・陽性、幽霊は心的・陰性なもので、物質界、精神界とも根底に不可思議が存在しているという博士の妖怪観にもとづき、不可解の象徴とみなした」 となると不可解な門。 その他、理解困難なものには、常識門、理外門、唯物園、唯心庭、経験坂、理想橋、鬼神窟、髑髏庵(どくろあん)、感覚巒(かんかくらん)、懐疑巷(かいぎこう)、時空岡(じくうこう)等などと続く。 ![]() こんな不可解な名前のものが一杯ある公園の中で、日本とハンガリー外交関係開設140周年・国交回復50周年の記念事業の一環として日本に帰化した彫刻家故ワグナー・ナンドール氏が平成21年に寄贈された群像彫刻(上の写真)のある 「哲学の庭」 に来ると、やっと日常界に戻ってきた気持ちになった。 哲学堂公園は、昭和19年に東京都に寄付され、野球場、庭球場など運動施設を加えた都営公園になり、昭和50年以来、中野区営公園。 これまで見てきた 「四聖堂」 「六賢台」 を含め、12棟の古建築物は、中野区有形文化財に指定されている。
今年と同様、1月21日は土曜日だった。 いわゆる半ドン日で、大寒というのに小春日和に誘われ、勤め先からの帰り道に新宿へ寄った。 その頃の新宿通りには、地下通路がなく、歩道は、冬で着膨れした人の波で溢れ、互いに体を触れながら、やっとの思いで紀伊国屋書店に辿り着いた。 紀伊国屋は、神田神保町の三省堂や東京堂に匹敵する山手随一の大型書店のうえ、洋書も置いてあり、専門家の間では定評のある店だった。 しかし、木造2階バラック建ての店とあって、階段を上り下りする大勢の客の足音で絶えずガタガタと騒音がひどく、いつ床が抜けてもおかしくないと思った。
紀伊国屋に何の本を探しに行ったのか、何を買ったのか、今では、全く思い出せないが、家に戻ったのは夜7時のニュース時で、白黒テレビは、私の勤め先の所長がしきりと詫びているところを映し出していた。 妻が 「あなたのところの中野刑務所から囚人が脱走しったって、聞いた? 職員が殺されたんですって‥」 という。 それは、昭和36年(1961)1月21日のことだった。 土曜日の午後は、私を含め事務職員は休みだったが、受刑者を直接管理する職員は、通常勤務だった。 というのも、懲役受刑者には、祝祭日以外、1日8時間、週48時間労働が義務付けられていたので、保安、作業関係の職員の勤務時間もそれに合わせて組まれていたからだ。 とにかく出勤しないことには事情が分からないので、お茶漬け飯をかっ込み、新婚1ヶ月目の不安顔の妻を置いて家を出た。 西武新宿線沼袋駅周辺の店は、ほとんど閉め、刑務所へ通じる道に歩行者の姿はなく、暗闇の電柱の陰に警察官らしい人影がじっと立っていた。 刑務所の保安区域内は、警備隊員だけが千人ほどいた受刑者の収容棟を巡回し、保安課事務所には、管理部長、保安課長ほか数人の職員がいらいらした様子で捜索に出向いた職員からの電話報告を待っていた。 刑務所職員のほとんどが敷地内の官舎居住者なので、非常招集をかけ、登庁してきた職員を数人ずつ組分けにして都内各所に張り込ませる慌ただしさの中で、自宅通勤者に連絡する時間的余裕がなかったのか、事件をテレビで初めて知ってやってきた私が、この時間になって、事件について今さら職員に聞ける空気ではなかったし、刑務官ではない私ひとりを今どきになって張り込みに出すわけにもいかないのか、所内待機を命じられ、ばつが悪い思いをしながら深夜までいた。 翌日、上司の課長が教えてくれた逃走事件の内容は、次のようだった。 午後の就業開始後、営繕工場の交代担当のY看守が配管工のSとMの2人の受刑者を連れて構外に出たまま交代時間になっても戻ってこない異変に、正担当が咄嗟に逃走事件と直感し、上司に報告したのが事件発生の第一報だった。 しかし、受刑者の監視に当たっていた37歳のY看守の行方が分からず、職員が総出で構外の作業場所を探し回ったところ、刑務所の外塀の外にある共済組合学生寮の便所の便器の中に頭を突っ込む形で殺害されているのを午後3時ころになって発見したということだった。 事件全容が判明したのは、逃走後24時間以内に2人が北区の王子で逮捕されたからだった。 SがMを誘って共謀し、その日予定されていた構外の倉庫裏で工事材料を手押し車に積み込んだ後、ついでに近くの学生寮の便所の修理もしていきたいとウソの作業をY看守に申し出て、その場所に3人で行き、便所の修理をするふりをし、便所を覗き込んだY看守をSが背後から鉄のバールで頭部を乱打し、倒れたY看守をパイプ接合用の麻縄で絞殺し、Mと2人で便所の中に遺体を引きずり込み、刑務官手帳と現金を奪い、発見されるまでの時間稼ぎに便所の内鍵をかけ、使用中を装って便所の壁から逃走したと自供した。 逃走した受刑者の身分帳を見ると、犯行を誘われたMは、その年の7月に仮釈放が予定されており、Sは、刑期満了日まであと2年半残っていた。 中野刑務所の収容対象者は、男子成人受刑者のうち25歳未満、刑期1年以上で入所歴のない者、知能指数70以上で集団処遇に適し、警備上は軽ないし中程度といった、いわば、処遇上問題の少ないG級と判定された受刑者だったが、このグループの受刑者には、営繕作業に就けられる程度の技能者がおらず、その補充のために、逃走したこの2人が配管工技能者として累犯刑務所から派遣されていたのだった。 数カ月後、逮捕されたSには死刑が、誘われて犯行に加わったMには無期懲役の判決がそれぞれ言い渡された。 法務年鑑によると、昭和36年は、この事件を含めて全国の刑務所、拘置所からの逃走事件は40件(逃走人員54人)だった。 ![]() あの忌まわしい刑務事故から51年が過ぎ、この間に中野刑務所はなくなった。 その5万4700平米(約1万6千坪)の跡地は、昭和60年に区民公園と災害時の避難場所として、中野区営の 「平和の森公園」(上の写真)に姿を変え、その後、東京都の 「下水処理場」 「中野水再生センター」 が建った。 ![]() ![]() この場所に刑務所があったことの証となるものは、今では、煉瓦造りの豊多摩監獄の表門(上の写真)と3分の1ほどの高さに切り取ったコンクリート外塀(次の写真)を僅かに残すだけなので、ここで中野刑務所の歩んだ足跡を辿ってみよう。 なお、私がここにいた当時には、すでにこの表門は使われておらず、その右側の新しい表門から職員も外来者も出入りしていた。 ![]() 中野刑務所がこの地に建てられたのは、牛込区(現・新宿区)市ヶ谷台町に明治43年以来あった市ヶ谷監獄が手狭になったのを機に、監獄が都心にあるのは好ましくないとの声から、ここ豊多摩郡野方村新井(現・中野区新井町)に移転したが、市ヶ谷監獄の名称はそのままだった。 ![]() その一方で、当時、若き天才建築家といわれた司法技師、後藤慶二の設計・監督のもとで、新しい監獄の建設工事が始まり、明治43年から5年間をかけ、敷地4万600坪(構内1万6千坪)に約900メートルの外塀で囲んだ煉瓦造りのバロック調の近代的監獄が総工費64万円で竣工し、大正4年、市ヶ谷監獄をここに移転させ、豊多摩監獄と改称した。 豊玉監獄表門(上の写真)に警察旭日章と月桂冠の標章が付いているのは、明治43年に市ヶ谷監獄が豊多摩に移転した後も豊多摩監獄が竣工するまで市谷監獄は警視庁の管轄下にあったからだ。 しかし、この新監獄がその後、歩んだ道は、決して平たんなものではなかった。 建物の堅牢さから、凶悪不良囚集禁監獄に指定されたが、大正12年の関東大震災では、煉瓦造りの建物は残ったが、外塀が7ヶ所で倒壊するなどの被害を受け、軍隊に警備応援を求める一方で、受刑者100人を仮出獄させ急場をしのいだ。 被災した監獄の復旧工事は、翌年から始まり、99万円の経費と8年の歳月を費やし、昭和6年に工事が終了した。 なお、大正11年の監獄官制改正で、監獄の名称は、刑務所と呼ぶようになり、豊多摩刑務所に改称した。 大正14年の治安維持法制定以来、いわゆる思想犯がここに多く収容され、さらに、昭和16年の同法改正に伴って、この刑務所の一隅に予防拘禁所が設けられ、19年5月末日までに162人(うち女性5人)の思想犯が拘禁された(平成元年版 犯罪白書)。 昭和20年5月の東京大空襲では、死傷者こそ出さなかったものの被災し、受刑者も予防拘禁者も他施設に移動させたが、今度は、翌21年から31年までは、通称、中野プリズンの名で米陸軍刑務所(U.S.8th.Army Stockade)に接収された。 余談だが、電力不足から、停電日が常態化していた当時、中野プリズンだけは、連日、ライトが煌々と輝き、夜空を明るく染め、地域住民から羨ましがられた。 ![]() 昭和32年に米軍から返還された豊玉刑務所を改装し、中野刑務所と改称し、受刑者に対する 「矯正の科学化による処遇改善の実をあげるため」 の施設に指定され(昭和32年、中野刑務所の運営についての通達)、東京管区管内の受刑者の分類センター、処遇センターとして精神医、心理職員、職業訓練担当技官ら専門官が集められ、将来の矯正処遇を念頭に様々な実験的処遇が試みられた。 しかし、軌道に乗り始めて間もない進歩的な処遇も、職員殺害逃走事件の余波で、受刑者警備に重点が移り、大幅に後退した。 (上の写真は、解体直前の刑務所舎房) また、刑務所の外では、米軍から中野プリズンの接収解除以前の昭和29年頃から、豊多摩刑務所の復帰が都市化を阻害するとして周辺住民から刑務所立ち退き運動が次第に活発化し、それに逃走事件が拍車をかけ、58年に中野刑務所は廃庁になった。 現在、川越少年刑務所の中で、調査センターと名称を変えた部門で、中野刑務所当時の業務が引き継がれている。
JR駒込駅前の本郷通りを滝野川方向に行くと、次第に高層ビル街から昔ながらの銭湯や地蔵の立つ商店通りになる。 ゆるい上り坂道に大木の枝が覆いかかる石垣沿いに旧古河庭園の正門がある。
![]() 東京都公園協会のサイトによると、この庭園は、もと明治の政治家、陸奥宗光の別邸だったが、宗光の次男が実業家で古河財閥創業者の古河市兵衛の養子となった時、古河家に譲られ、三代目の古河虎之助が大正3年頃に、隣接する土地を買い足し、約3万平米の土地に、上野・池之端の旧岩崎邸の設計者と同じ、イギリス人コンドルに洋館と西洋庭園の設計を、また日本庭園は、京都平安神宮神苑や円山公園を手掛けた京都の庭師、小川治兵衛に依頼して造らせたもので、陸奥宗光のもとの邸宅ではない。 財界事情に疎い私には、古河財閥は日本8大財閥のひとつだといわれてもピンとこなかったが、富士電機、富士通、関電工、横浜ゴム、日軽金、損保ジャパンなどよく聞く企業は、すべて古河財閥傘下企業と知り、その財力の大きさを初めて知らされた。 洋館は、煉瓦造りで外壁を安山岩で覆い、屋根はスレート葺きにした地上2階、地下1階の英国風の重厚な感じの建物で、大正6年に古河家の本邸として建てられ、1階は接客用に、2階は和室で私宅に使われた。 しかし、その後、この邸宅は様々な時代の荒波にさらされた。 大正12年の関東大震災時には、約2千人の避難者を収容し、大正15年に虎之助夫妻が、現在の新宿区市ヶ谷船河原町へ転居した後は、貴賓のための別邸として使われ、日中戦争中の昭和14年には、中国に南京国民政府の樹立を目指した国民党で知日派の汪兆銘が、一時、この邸宅にかくまわれ、戦争末期には、陸軍の将校宿舎として接収された。 戦後は、占領軍に接収されて英国大使館駐在武官の邸宅に使用されるなど波乱の時代を経た後、財産税を物納する形で国有地となり、国が都に無償で貸し出し、昭和31年に都立公園とし開園した。 洋館は、連合軍が撤収後、30年ほど放置されていたのを昭和57年から平成元年にかけて現在の状態に復元し、現在、大谷美術館(特例財団法人)が管理している。 ![]() 庭園は、平成18年に文化財保護法により国の名勝に指定され、洋館東側にはイタリア露壇式庭園が、南側の斜面の西洋庭園は植木を左右対称の幾何学模様に刈り込んだフランス式庭園が、西洋庭園より低い土地には日本庭園が広がっている。 訪れた日は、冬ざれの花のない季節だったが、春は桜、つつじ、シャガ、バラが、初夏には花菖蒲、秋はサザンカ、モミジがなどの紅葉が楽しめそうで、もう一度、訪れたい。 ![]() 日本庭園は、池を中心にした回遊式庭園で、その途中に、山、滝、川をめぐらし、自然石を積み上げ、土地に起伏をつけ、適宜に庭石、灯籠、水車などを置いて自然の風景を造り出し、それを鑑賞する人を迎えるあずま屋、茶室、といった日本庭園の特徴を備えている。 特に、目を奪われたのは、様々な型や大きさの石灯籠で、春日型、濡鷺型、雪見型、泰平型、奥の院型、松陰型などそれぞれの立て札と見比べながら歩くと、石灯籠の博物館にいるようだ。 「心」 の字を模して造られた 「心字池」 の端にある 「雪見型灯籠」(上の写真)の由来について立て札には、「水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いて見える 「浮き見」 と、点灯時にそのともしびが浮いて見える 「浮灯」(うきび)が 「雪見」 に変化したという見方がある」とある。 ![]() また、「奥の院型灯籠」(上の写真)は、石面が風化し分かりにくいが、灯袋(火を灯す箇所)には牡丹、唐獅子、雲、七宝透かしを、灯袋を支える中台には、十二支が、下の基礎の台には、波に千鳥、波に兎が刻んであり、この型としては、ここにあるが国内で最大のものとある。 これまで、旧岩崎邸、旧前田邸、旧古河邸の三邸宅を見てきた。 いずれも明治・文明開化の象徴とされた鹿鳴館以来の欧米先進諸国の上流社会文化を模倣しながら、日本固有の伝統文化も固持し、贅を尽くした館での貴賓接待、日常生活振りを垣間見ることができた。 このほか、都有形文化財に指定されている貴族(皇族、華族)の旧邸には、港区白金台町の旧朝香宮邸あとの都庭園美術館(現在改装中で休館、庭園のみ入場可)、文京区目白台にある旧細川侯爵邸、和敬塾などがあり、いずれ訪れたい。
前回は、土佐の地下浪人(じげろうにん・半農半士)から出世し、三菱財閥の創始者になった岩崎弥太郎の子、久弥が建てた邸宅を訪れたが、今回は、大名から華族へ列せられた加賀藩主、前田家16代、前田利為(としなり1885-1942)侯爵が昭和4年に建てた邸宅へ行く。
![]() 京王井の頭線 「駒場東大前」 で下り、大学キャンパスに沿いに駒場通りを北に閑静な高級住宅通りを行くと、面積約4万平米の駒場公園の正門前にでる。 正門に無人の守衛棟が建っているのが邸宅当時の面影を残している。 ![]() 邸宅は、戦後、一時、占領軍に接収され、連合軍司令官の官邸などに使われたが、昭和32年に返還され、現在、公園として庭園、館内とも一般に開放され入場無料。 正門からこんもりとした森の道を行くと、当時、東洋一の邸宅といわれた地上3階、地下1階のコンクリート建ての洋館が見えてくる。 ![]() 上の写真、左に見える掲示板によると、この洋館の由来は、前田侯爵の本邸として建築され、「外国の貴賓を迎え入れる洋館として、駒場の田園の野趣にあわせたイギリス・チューダー式がとり入れられ、‥ この様式はイギリス後期ゴシック様式を簡素化したもので、玄関ポーチの偏平アーチにその特徴をみせ‥ 外観は、当時流行した長手のスクラッチ・タイルを貼り、落ち着いた雰囲気を漂わせ‥。 内部は一変して王朝風に装飾が施され、各室はイタリア産大理石によるマントルピースや角柱、壁面にはフランス産絹織物や壁紙を貼り、イギリス家具などを配したヨーロッパ調‥、こうした洋風の室内に江戸情緒をのぞかせる、唐草に雛菊をあしらった文様なども見られます」 とある。 ![]() なるほど、玄関から入ると、目の前に格調高く、豪華な劇場やホテル並みのロビー、広間、大小食堂が広がる。 盛装したハイクラスの紳士淑女、海外の招待客たちが歓談し、舞踏会が催され、皆がディナーの席につき、撞球に興じた当時の上流社会の生活が目に浮かぶ。 その一方で、こんな豪邸での日常生活は、なんとも堅苦しく、息苦しくないかと思うのは、私の小市民根性かもしれない。 邸宅の主、前田利為は、日本一禄高の高い加賀百万石の藩主という毛並みのいい家系に生まれ、終身貴族院議員に任じられ、陸軍大学を卒業、昭和2年から5年まで駐英大使付き武官などいかにも豊富な経験の持主らしい、国内外の貴賓を邸宅に迎える心遣いがシャンデリア、壁紙、マントルピース、庭園に面したバルコニー、廊下で通じる和室など部屋の造りに、随所、感じられる。 ![]() この贅を極めた館に住む侯爵は、他面、陸軍中将という武人の顔ももつ。 参謀本部部長、師団長などを歴任後、太平洋戦争中の昭和17年4月にボルネオ守備軍司令官の任に就いたが、その年の9月、ボルネオ沖で搭乗機が墜落し、57歳の生涯を終える。 その死が事故死か戦死かを巡っては、国会でも論じられたが、謎を残したまま、正ニ位に叙せられ、陸軍大将に昇格する。 その後、夫人をはじめ一家は転居し、この邸宅に戻ることはなかった。 現在、洋館は、東京都指定有形文化財になっている。
あ 合言葉 絆、がんばれで年を越し
け 結末は オウンゴールでメルトダウン ま マニフェスト やっぱり選挙向けだった し シーベルト 皆が覚えた専門語 て 手にあまる 国債売出し買うは誰 お おやじギャグ なでしこジャパンで復活し め めまぐるし 事件と事故の 氾濫期 で でっち上げ 有罪判決多いわけ と 年ごとに信頼できるものが減り う うるささが バロメーターの視聴率 ご 御破算で願いましては ユーロ崩壊 ざ 財界が 胸なでおろすTPP い いつだって 事故が起これば想定外 ま また寿命 伸びて年金あとずさり す ストレスが 犯罪をする 言い訳に ![]() ダンクからひとこと 「ボクも12歳になり、老眼鏡が要る齢になりました。 今年もよろしくネ」 今年のお正月は、なんとなく 御祝詞を差し上げるのに気か引けますが、なにはともあれ、皆様のご健康を願いつつ、良き年であることを祈ります。
日本から貴族制度が消えて65年になる。 戦後の人たちには無縁の制度だが、それ以前生まれのほとんどの国民にとって貴族(華族)には、羨望と反感を感じる、いわば 「雲の上」 の人たちだった。
彼らは、華族学校(学習院)で教育を受け、華族専用の銀行(十五銀行)を持ち、世襲財産が保障され、終身制の貴族院議員に就き、皇族と姻戚関係が結べるなど、一般国民が介入できない法律と組織で守られていた。 庶民たちが知っている華族と言えば、新聞やニュース映画のスクリーン上で胸一杯に勲章を付けた軍服姿か、乗馬服姿、シルクハットにフロックコート姿くらいだったから、彼らが栄華を極めた当時の生活を知る由もなく、戦後、新憲法の制定とともに、貴族制度が廃止され、連合軍によって財閥が解体され、広大な邸宅、敷地を維持できなくなって手放し、一般市民に開放されて初めて、その旧邸宅や庭園から華族の生活ぶりが想像できるようになったに過ぎない。 明治新政府は、公卿や将軍、大名などの身分制度を廃止したが、それに代えて彼らを華族として保護し、その格付けとして爵位を与えた。 これに加え、国は、明治維新以後の国への功労者にも爵位を与え、財政を助け、経済発展に貢献した大実業家たちも、国の功労者として新華族の称号が与えられた。 新華族の多くは、爵位では一番下の男爵だったが、封建制度国家から資本主義経済国家への発達に伴って、新華族たちは経済力において絶大の羽振りを増しっていった。 ![]() 前に、三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎が柳沢吉保の下屋敷を買い取って別邸とした 「六義園」(12月5日付け)へ行ったが、今回は、明治11年に岩崎弥太郎が旧舞鶴藩士から買った上野・池之端の高台の土地に、弥太郎の長男で三菱財閥3代目の久弥が明治29年に建てた旧邸宅を訪れた(1枚目写真)。 ![]() 洋館は、お茶ノ水のニコライ堂を建てたと同じ英国人、コンドル設計によるイギリス・ルネッサンス風と言われる木造2階建てだが、2階のベランダは米ペンシルバニアのカントリーハウス風であったり(2枚目写真)、また、別棟にありながら洋館と地下道でつながる木造平屋のビリヤードルーム(3枚目写真)はスイスの山小屋風だったり、そして、 ![]() 洋館から廊下伝いに行ける和館は書院造りだったり、庭園(4枚目写真)は、大名庭園の形式を取り入れていたりと、和洋さまざまの建築様式と取り混ぜた邸宅だ。 このうち、洋館とビリヤードルームは、重要文化財に指定されている。 ![]() また、旧岩崎邸敷地に隣接する上野年金事務所や合同庁舎ビルは、以前は旧邸宅の敷地だったし、さらには、江東区の清澄公園、国分寺市の殿ケ谷戸庭園、六本木の国際文化会館などもまた岩崎家の敷地だったというから、その絶大な財力にただただ圧倒される。
前に品川を訪れたときは(09年5月12日)、駅東口前にそそり立つ超高層ビル群に、ただ圧倒されながらビルの谷間(そこは品川区でなく港区だった)を通り抜け、やっと広い空が見える北品川と東品川の間の旧東海道にでた。 しかし、「ようこそ品川宿へ」 と観光客を呼び込もうとする地元商店街の意気込みを感じながらも、なにか物足りず、天保大飢饉で農村からここにたどり着いた多数の流浪者の餓死者を葬った法禅寺の 「流民叢塚」 以外、品川の歴史を知る史跡と出会えなかった。 そこで今回は、改めて、目黒川対岸の南品川に多い仏教寺院を訪ね、品川の史跡探しに出かけた。
![]() 日蓮宗とキリシタンとは、加藤清正と小西行長の両大名の時代から、犬猿の仲だったのだろうか、目黒川岸通りの日蓮宗・海徳寺境内にキリシタン禁令札が立っている。 あるいは、ここは、他宗信徒からの布施は受けないし、他宗徒には供養もしないという日蓮宗一派の原理主義、不受不施を信奉する寺院だったのだろうか。 それにしても、明治新政府(慶応4年)になってからもこのような 「定」 が出されたのは何故だろうか。 生憎、事務所には来客がいて、その由来を伺えなかった。 ![]() 海徳寺から近い妙蓮寺には、丸橋忠弥が、由比正雪らと共謀し、江戸、大阪、京都で蜂起し、天皇制樹立を目的に幕府転覆を計画した慶安事件(1651年)が露見し、品川の鈴ケ森の磔台で最初に処刑された忠弥の首塚がある。 前に、目白の金乗院にある忠弥の墓を訪れた時も書いたが、このクーデター事件に賛同する大勢の民衆が、この反骨者へ密かに供養し続けてきたのだろう。 それぞれの訪問記については、08年12月25日と今年10月1日に載せた。 ![]() 品川で最も悲惨な歴史を物語っているのが、永仁6年(1298)創建とされられる時宗・海蔵寺にある史跡だ。 山門にある 「江戸時代無縁並首塚 関東大震災殃(横)死者塚」 の石碑から窺えるように、この寺院は品川の 「投げ込み寺」 と呼ばれているほど多くの横死者、引き取り手のない死者の墓と塚がある。 入口近くには、大正4年に建てた鉄道事故死者を祀る 「京浜鉄道轢死者之墓」、大正12年の関東大震災で品川海岸に流れ着いた数十の遺体を埋葬しその上に建てた釈迦如来像、慶応元年(1865)に建てた 「津波溺死者供養塔」 のほか天保の大飢饉(1833~40頃)の折、地方農村から品川にたどりついたものの死亡した流民891人のうち、前に訪れた北品川の法禅寺が約500人、それほかの死者をここに埋葬した。 これらさまざまの横死者を合葬した供養塔が 「無縁供養群」(上の写真)で、墓誌には、元禄時代に獄死した多くの罪人、江戸時代に鈴ケ森で処刑された罪人、品川宿で死んだ無縁の遊女たち、品川京浜電鉄轢死者、品川海岸溺死者、行路病死者、関東大震災横死者、そのた無縁の死者を弔う供養塚とある。 ![]() 海蔵寺に近い天龍寺の境内には、かなり風化した小さな 「碑文谷踏切責任地蔵尊」 が立っている。 これは、大正7年(1918)5月、ここから近い品川碑文谷踏切で、開いていた踏み切り竿の脇を渡り始めた人力車が貨物列車にはねられ、車夫は難をまぬかれたが客2人が死亡した鉄道事故だ。 事故当時、その番小屋で勤務していた2人の踏切番(一人が立番中、一人は仮眠中)の一人がうたた寝をしたのが原因だった。 責任を感じた2人は、事故直後に鉄路に伏して自殺した。 この事件を供養して建てた地蔵尊である。 この事件を機に、一昼夜勤務という踏切番人の過重な勤務体制が社会問題化した。 労働者の人権や福祉に配慮する労働基準法など夢の存在でしかなかった時代の不幸な事件だった。 ![]() 本駒込には20軒ほどの寺院が本郷通りをはさんで立っているが、中でも一番、広く、有名なのが吉祥寺。 「きちじょうじ」 が公式の読み方だが、「きっしょうじ」 という地元の人もいる。 ![]() ![]() 吉祥寺は、当初、現在の水道橋辺りにあったのが、明暦の大火(1657年)で類焼し、現在の地へ移って来て以来の寺院とあって、歴史上、有名人の墓や江戸時代からの史跡に富んでいる。 毀誉褒貶が相半ばする江戸南町奉行・鳥居燿蔵の墓、箱館五稜郭に立てこもり官軍と戦って敗れた後に明治政府の下でいくつもの大臣を歴任した榎本武揚の墓(写真上)もここにあり、また、経蔵としては、都内でただ一つ残る江戸時代建造の史跡だ(その下の写真)。 ![]() 本堂の左手にある鳥居燿蔵の墓の先に古い墓が集まって立っているのが見える。 近づいて見ると、驚いたことに、倒壊した墓石や石塔が転がっている。 先の東北大地震で、東京でも震度5弱の揺れに襲われたせいだろうか。 どの墓石もかなり古く、風化し、多くは墓碑銘も読み取れなかったが、中に、傾いた 「従五位新○○之墓」 もあり、いずれも高位の人の墓と見受けられる。 子孫が絶え、お参りする親族もないのだろうかと、倒壊し放置されたままの墓をみるのは哀れを催す。 ![]() 吉祥寺を出て、本郷通り沿いに不忍通りを横切った先にある六義園へ行く。 ここは、川越藩主、柳沢吉保が元禄年間にここに庭園を築き、明治に入って、藤堂家、安藤家、前田家の邸宅を経て、三菱大財閥を築いた岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年に東京市へ岩崎家から寄贈された由緒ある大名庭園で日本を代表する名園の一つだ。 昔の大名や大富豪ともなると、ふんだんに人手を駆使し、こうも広大な庭園を築き、維持できるものかと圧倒される。 もちろん、後世の人びとをも唸らせるに十分な日本の美を演出している芸術作品だ。 庭園の案内については、観光書その他で広く紹介し尽くされているので割愛するが、戦時中、子どもの頃、親に連れられて来て以来、戦後復興期の昭和20年代、経済成長期の30年代、そして豊かで平和な生活の現在と、訪れる度ごとに夫々の時代が反映されているように感じた。
子どもの頃に過ごした場所は、いつまでも懐かしく、そぞろ神に憑かれたように本郷へと向かった。 新小岩から本郷への転居のきっかけは、前に書いたが(2010年12月14日付)、本郷は、私には初めて大都会の町中の生活だった。 引っ越した先は、本郷区曙町13番地(現在の文京区本駒込1-25辺り)の貸家で2階屋だった。
小学2年2学期から小学4年修了までと短い期間の生活だったが、「電車通り」 と呼んでいた本郷通りを上富士前の昭和小学校に通ったお陰で、通学路の様子はかなり覚えている。 市電の乗車賃は、市内どこへ行っても7銭、銭湯も7銭の頃の話だ。 (下の写真は、現在の本郷通り) ![]() 当時から市電、市バス、車など交通量の多かった本郷通りには、木造の個人商店が並び、その間に寺院や神社があった。 目立ったビルといえば、駒込警察署と昭和小学校くらいだった。 その警察署も今から15年ほど前に行った時は、すでに不忍通りに移転し、その跡は空き地になっており、所どころに8階建てのビルが建ち始めた頃だったが、現在のような日の光をさえぎる高層ビル街の冷たさは感じられなかった。 吉祥寺の山門近くの表通りにある5,6軒の木造住宅が昔の電車通りの面影を残している。 ![]() 私の家は、飛鳥山行きの市電を吉祥寺前停留所で下り、本郷通りから左へ坂道を4、50メートル下った四つ辻を右手に行った曙町で、今も当時の町名を残す町内会の掲示板が建っている。 ![]() 当時、この道の右側には、トタン屋根の長屋が縦並びに4,5棟あり、左側には板塀に囲まれた5,6軒の民家があった。 その民家の並びに日蓮宗の信徒の家があり、お会式の日には長屋の子どもたちを駄菓子で釣って集め、お題目を唱え、ウチワ太鼓を叩いて道路をねり歩かせた。 私も一度その一群に加わっていたところを生憎、学校から帰りがけの母に見つかり無理に家へ連れていかれたのを覚えている。 私の家は、その道路先を左に入った迷路のような路地の一角にあった。 ただ、今では袋小路になっており、元いた家へ通じる路地はなくなっていた。 当時、この路地を抜け旧白山通りへ通じる道があり、そこを少し先へ行くと、突然、周りの様子が一変し、お抱え運転手付きの自家用車があるようなお屋敷の通りになった。 ![]() 現在の本駒込1,2丁目一帯は、戦災で丸焼けになったところで、あまりの町の変貌振りには戸惑うばかりだ。 本郷通りの崖下にあって曙町を区分けた石垣の壁面一帯には、粗末な民家が密集していたが、今ではそこにマンションや民家が建ち並んでいる。 その路地から本郷通りへ上っていける石段は残っていた。 また、昔ながらの曲がりくねった通り道沿いのコンクリート造りや木造の一戸建て、2階建ての民間アパートなどが雑然と建ち並んでいる路地に出会うと、子どもの頃のごちゃごちゃした家々の密集地を思い出す。 しかし、こうした懐かしい私の記憶は、他方、なんとも鬱陶しい思い出とも交錯している。 当時の子どもたちの多くが罹った猩紅熱、赤痢に罹り、避病院といわれた伝染病棟のある駒込病院で2回も生死をさ迷った入院生活を送り、その後も余病を併発したために小学4年時は、ほとんど通学できずじまいの一年間だった。 それが理由で、今度は、空気の良い板橋区中新井(現在の練馬区豊玉)へ引っ越したが、小学4年生を2回繰り返す羽目になった。 しかし、ここに転居したことが戦局激化に伴う学童集団疎開からも、中学生の軍需工場への勤労動員からも、戦災からも免れる幸運にもつながった。 縁とは不思議なものだ。
白子川は、源流から河口までのほぼ全域に、両岸あるいは片側に散歩道がある。 所どころ湧水が流れ込み、小魚や水鳥の居心地をよくしている。 途中、春はカタクリの花で覆われる清水山、武蔵野の姿をそのまま残す稲荷山など市民憩いの森があって、都会の騒音から離れ、家族中で楽しめる。 前回は、源流から目白通りを横切った地点までやってきたが、今回は、その先の東京と埼玉の県境を流れる白子川の中流から荒川支流の新河岸川との合流点まで行く。
しかし、その川沿いの快適な散歩道も、所によって川べり一杯に民家が建ち並び、側道が途絶える箇所があり、そんなところでは民有地を迂回しなくてはならないのだが、特に、練馬区が飛び地のように和光市内に喰い込んでいる地域では、地図や住所表示板だけを頼りに行くと、自分のいる位置が分からなくなる難所がある。 ![]() 出発点の源泉からほぼ6キロ先に行ったところにある越後山橋は、東京(練馬区)と埼玉(和光市)の境だが、橋を渡って埼玉県側を川沿いに行くと、和光市第5小学校前の車道に出る。 白子川は、その通りに架かる芝屋橋の下を流れ、両岸の民有地の間をいく(上の写真)。 仕方なく、橋を渡り、200メートあまり直進すると笹目道路(国道443号)に出た。 地図の上では、白子川は笹目通りの下を暗渠になってくぐり抜けているので、笹目通りを渡り、牛房通りに出ればいいと見当をつけて行ったが、川は見つからず、また、町の表示板は、和光市ではなく、練馬区旭町だった。 ![]() 通りがかった地元の数人に、「牛房通り」 への道を尋ねたが、分からず、練馬区のひとでは分からないのだろうかと、そのまま行くと、偶然、牛房通りにでた。 そして、初めて、牛房通りを 「うしふさ通り」 と言って道を尋ねた私の誤りに気づいた。 道路表示には、ご丁寧にも 「ごぼうどおり」 と振り仮名がしてあり、そこは和光市白子1丁目だった。 通りに面して大きな旧家があり、通りがかりの人から、この屋敷の持ち主は、この辺り一帯の大地主で某カメラ会社社長だった人の邸宅とうかがった (上の写真)。 この屋敷の崖下を流れる白子川に架かる小源治橋を渡ると、また練馬区(旭町3丁目)に入る。 民家と農地の間を流れる白子川が見え隠れする道から川に近付けそうな路地を下りると、突き当たりにフェンスがあり、行き止まり。 ![]() 思案にくれていると、右手の家の方が庭を掃除中。 声をかけ、道を尋ねると、全くの僥倖に巡り合わせた。 家の御主人は 「白子川水辺の会」 の会員だった。 住宅地域を通り抜け、次の橋の子安橋で白子川に出会える近道を事細かく教えて頂けた。 さらに、そこから先は、農地や住宅地があって、川に近づけないが、川越街道に出たところに架かる東埼橋からは、河口の落合橋まで両岸に散歩道が整備されていること、東埼橋は埼玉県(和光市)と練馬区(旭町)と板橋区(成増)とが境を接する場所で、昔、ここに川越街道白子宿があったことに因んで白子川と名付けられたこと、東埼橋の下には3メートル近い段差があって荒川から上ってきた魚は上流へ行けないが、その先の東武東上線鉄橋の下を通って、成増団地のある白藤橋辺りまで行くと、鯉が泳いでおり、荒川から上ってきたボラ、スズキ、ウナギなどが見られることもあり、平成になってからもアユの遡上を板橋区が確認したこともあったこと、また、白藤橋の先へ行くと河川管理用道路の表示があり、これは白子川の増水に備えて両岸にコンクリート壁を築き、道より一段と高くした歩行者用の袴道橋が二か所あること、など、日ごろから白子川を案内されている方だけに話は詳しい。 ![]() ![]() こうした予備知識を得たお陰で、子安橋から荒川支流の新河岸川に架かる落合橋までのほぼ3キロの行程を楽に進むことができ、無事、目的地にたどり着いた。 源流から此処まで来るのは、徒歩では無理、車ではなお駄目、やはり自転車が一番だ。(写真上は、落合橋の先に荒川の土手が見える。 下は、土手から見た白子川と新河岸川の合流点に架かる落合橋) 最後に、種々、教えを頂いた旭町3丁目の白子川の会員の方にお礼を申し上げます。
練馬区大泉は、その名のとおり、あちこちから地下水が湧き出る泉に恵まれた土地だった。 終戦後の西武池袋線・大泉学園駅周辺は、戦災をほとんど受けず、駅北口の戦前からの商店街は早々に活気を取り戻したが、駅からバス通りを100メートルも行くと、民家はまばらになり、畑と水田が一面に広がっていた。 駅南口は、深夜には、無人になるタバコ店と飲食店の仮店舗と民家が10数軒かたまり、その先は、ケヤキの防風林に囲まれた農家が点在し、昼間の人通りは、大部分が、第3師範学校(現、学芸大学)付属小学校と終戦数年前に開校した大泉中学(学制改正後は高校)に通学する生徒くらいだった。
東大泉と保谷町(現、西東京市)に挟まれた南大泉は、昭和30年代に入ってからも大部分が農耕地と森林だった。 低地の草むらの所どころから湧水が浸み出し、いつの間にか、水は 「しまっぽ」 とか 「しまっぽり」 と呼んでいた幅1メートルほどの窪地を伝ってより低地へと向かい、幅を広げ、小川となり、その一部は、灌漑用水として、あぜ道と泥と草の土手で仕切った田畑を潤し、練馬大根など収穫野菜の洗い場が所どころにあった。 春には、川沿いの水田にはレンゲやクローバーの花が咲き乱れ、カエル、ドジョウ、ザリガニ、タニシを取る子どもの姿があった。 この澄んだ水の流れが練馬区、埼玉県和光市、板橋区を通り、10キロ先の荒川まで続く白子川の源流とはあまり知られていなかった。 そんなのどかな田園風景に趣を添える白子川だったが、その流域は、しばしば梅雨時の集中豪雨で川の水が溢れ出し、谷間の田畑、住宅地に繰り返し浸水被害をもたらした。 昭和50年代から河川整備、下水道整備が都の豪雨対策計画に従って始まり、現在も続いているが、近年では、平成13年7月の集中豪雨によって、大泉地区で40棟が、また17年9月には練馬区と埼玉県和光市の境を流れる越後山橋流域で77棟以上が床下・床上浸水被害を受けた。 戦後の白子川氾濫の主な原因は、昭和30年代からマイホームを求めるニューファミリーの要求に応え、地価の安い農地、森林の宅地化が進み、一戸建ての建売住宅が増える一方で、それに対して土地行政が追い付かなかったことだ。 白子川流域の水田も、埋め立てて宅地化する乱開発が行われ、道路はアスファルトで簡易舗装され、住民の増加は、高度経済成長期に入ると一層加速し、西武池袋線の大泉学園駅を中心に低層の公共アパートやマンション建設が進み、商業地や学校などの公共施設が増え、路線バス網も拡大する、いわゆるスプロール現象が進行した。 その結果、雨水の大部分を吸収していた森や畑地は減少の一途をたどり、急激に増え続ける家庭からの排水が浄化されないまま下水溝から白子川に流れ込み、昭和4,50年代には汚泥の匂いを発する川が、しばしば豪雨の後、洪水となって流域を襲った。 ![]() 今では、白子川の源流付近(上の写真)は、すっかり整備され、湿地帯にあった溜池は児童公園へ変身し、川の氾濫を防ぐためにもとの水路を変え、川床を掘り下げ、川幅を広げ、護岸をコンクリートで固め、雨水や家庭排水を流す下水道が整備されるに従って、白子川は、源流から1.5キロほど先まで湧水が姿を表した。 青々とした水草に交じって地元の人の手で放流された真鯉、緋鯉がカルガモと泳いでいる。 ![]() 川底の所どころに汚れた板状のものが置いてあるのを見かける。 これは、水質汚濁防止の浄化設備で(下の写真)、保谷町の方から東大泉地区へ下水管を伝って流れてくる雨水と家庭排水を白子川本流の合流地点で、川底を掘り下げ、コンクリート製のU字溝のようなブロックを並べ、その上を繊維状の網で覆い、川底に沈殿する汚泥を定期的に清掃、除去する設備だ。 そのお陰で、澄んだ川には、いつも水生植物が生え、コイや野鳥が生息できる環境が保たれ、川岸の遊歩道を行く人の目を楽しませている。 ![]() 豪雨による洪水防止対策として、下水道の整備のほか、アスファルト道路舗装に代えて雨水が地中に浸透できる材質のものが20年以上前から使われているが、交通量の多い道路の舗装には強度から不向きという限界がある。 ![]() また下流地域の水害防止対策として、増水した川の水を一時溜めて、とどめておく調整池(上の写真)が平成13年、比丘尼橋の側にでき、徐々にではあるが、白子川は住民の協力も得て、綺麗な流れに向かっている。 いま、ボランティアの集まり 「白子川源流・水辺の会」 の間で、水質の良くなった白子川上流に荒川からアユを呼びたい!という声が高まっている(「白子川源流通信」 2011年8月号)。 ★今回の記事作成に当たっては、東京都総合治水対策協議会編 「白子川流域豪雨対策計画(平成21年11月)」と白子川汚濁対策協議会編 「白子川を知っていますか-水辺再生に向けて」(平成6年)を参考にしました。 ![]() 西永福駅と永福町駅から北へほぼ等距離のところにある大宮八幡宮へ行く。 「大宮」 とは、埼玉県の大宮とは関係がない。 大きなお宮の意味で、約15万坪という都内3番目に広い敷地をもつ1063年(康平6年)創建の古い神社だ。 ![]() また、この辺りは、「東京のへそ」 といわれているところで(杉並区大宮1丁目。 大宮八幡宮の場所は2丁目)、商魂逞しく、白ゴマで包んだ餅の真ん中に黒豆を一つおいた 「大宮八幡へそ福餅」 を境内の結婚式場ロビーで食べさせている。 ところで 「東京のへそ」 とは何だろうか。 インターネットで検索したところ、総務省統計局のホームページ 「国勢調査 e-ガイド」 に答えが出ていた。 例えば、「日本のへそ(人口重心)とは、日本中に住むすべての人が同じ体重と仮定して日本地図の上に乗った場合に、その地図を一点でバランスを崩さずに支えられる点のことです。 人間の身体でいえば 「へそ」 に当たる地点のことです。 国勢調査のデータを使って計算すると、日本のへそ(人口重心)を求めることができます。」 とあるが、その算出式は、数学に弱い当方の能力を超えるので飛ばすとして、「我が国の人口重心の動きは、国勢調査のたびに少しずつ移動しています。 長期的にみると、首都圏への人口の転入超過が続いてきたことなどにより、東あるいは東南東方向へ移動しています。 国勢調査の行われる5年ごとの人口重心の移動距離は、昭和40年~45年に東へ8.3km移動したのを最長に、その後は約1~3kmの移動となっています。」 とある。 平成17年の国勢調査から割り出した都道府県別の人口重心では、東京都の 「へそ」 は、「杉並区成田東」 で、5年前の平成12年よりも96m南東に移動している。 杉並区の 「成田東」 は、同区 「大宮」 の南に隣接する町で、10月1日付け杉並区観光課のホームページにも大宮八幡近辺が東京の中心(へそ)とあった。 ![]() さて、目を八幡宮に転じると、七五三詣での時期とあって、晴れ着姿の子ども連れ家族が引きも切らず訪れ、祈祷を希望する家族控所は混んでいる。 家族総出の賑やかな一家がある一方で、親子2人の参拝客もあってさまざまだが、親子ともどもこの日の姿を生涯忘れず、育て、育ってほしい。 ![]() 八幡宮をでて、坂道を下ると、前々回に訪れた善福寺川の流れに沿って面積約20万5千平方メートルの和田堀公園にでる。 善福寺川流域は古代遺跡の多いところで、ここの公園の高台からも弥生時代の古墳や遺跡が多く発掘されている。 ただ、この一帯は、全体として低地帯で、ここを蛇行する善福寺川は、源流から8キロ程の距離なのに、氾濫を繰り返しており、昭和30年代に河川の改修工事を始め、水はけの悪い自然にできた溜池(現、和田堀)も取り込んで公園として整備し、武蔵野の自然を残しながら広場、運動場、郷土博物館を備えた市民公園を造る一方で、公園内全域を都の防災公園(大規模救出活動拠点)に指定し、災害時に対応できることも配慮しているのは、やはり、地勢上、災害の危険性があるからだろう。 ![]() 公園と八幡宮の間を流れる川は、御供米橋(おくまい橋)、八幡橋、大宮橋、宮木橋など八幡宮に因んだ名前の橋など12の橋が架かり、両岸には遊歩道が整備されている。 しかし、車の交通量が多い宮下橋には、忌まわしい殺人事件の記憶が付きまとう(上の写真 宮下橋下を下る善福寺川)。 事件とは、昭和34年3月、「日本人ステュワーデス怪死事件」 と当時、大々的に報道されたBOAC(現、ブリティシュエアウェイズ)の27歳の女性客室乗務員が川幅11メートルほどのこの浅い川の中央辺りで、あおむけに倒れ、扼殺されていた現場がこの宮下橋の下だ。 捜査線上に浮かんだのは、38歳のベルギー人神父で、カトリック教信者だった彼女とこの神父とは以前から親密な関係にあった。 当時、名刑事といわれ、数々の難問殺人事件を解決してきた警視庁の平塚八兵衛刑事が当たったにもかかわらず、任意の参考人事情聴取中の6月に、神父は病気療養を理由に正規の出国手続きを経てベルギーへ帰国し、何一つ解決のめどの立たないまま公訴時効、迷宮入りになった事件だ。 事件は、単なる痴情関係のもつれなどではなく、日本政府も手に負えない大きな謀略機関が関わっているという囁きまで聞こえたが、結局、真相は今もって藪の中だ。 宮下橋の橋詰には、昭和54年竣工と書いてあるから、事件当時は、河川工事の最中で、その頃もこの静かな川の流れには、カモ、カワセミなどの水鳥や小魚がたくさん泳いでいた違いない。 平和で静かな川での謎の殺人事件だった。 ![]() 杉並区内に源泉をもう一つの1級河川、妙正寺川は、妙正寺公園の池から溢れ、杉並、中野、新宿の3区を通り、JR高田馬場駅に近い高田橋付近で神田川と合流する約9キロメトールの川だ。 列車や車が行き交う橋の下をゆっくり流れる河川を眺めたり、集中豪雨で増水、被水被害をもたらした川と聞いたりしても、源泉地からちょろちょろと流れ出る水からは想像しにくい。 ただ、源泉といっても、広がり続ける都市化の波に、今では、公園の池を満たすほど自然の湧水には恵まれず、善福寺公園の池の10分の1もない広さの妙正寺公園の池でも、電動モーターで井戸から汲み上げ、7基の噴水を備え、市民憩いの公園池の体面を保っている。 ![]() 公園の池から流れ出る妙正寺川最初の橋、落合橋の下を見ると、この池からの水ともう一つ別の下水道からの水とが合流している。 これは、井草八幡前の青梅街道を隔てた向かいの急な坂を下った斜面にある 「切通し公園」 を源泉とした井草川の水との説がある。 しかし、切り通し公園の近所には、暗渠化した川の流れの痕跡を残した細い通路が住宅地を通っているものの、公園内に源泉はなく、以前の流れに模して作った小川に夏の間だけ井戸水を流しているとのことだった。 落合橋の下で落ち合う水系は、別に源泉があるのか、あるいは、雨水が下水溝へ流れ込んだものではなかろうか。 ![]() 妙正寺公園、妙正寺川の由来の妙正寺を訪れる。 山門に紙垂(しで)が下がっているのが異様に見えたが、 文和元年(1352)、千葉県市川市にある法華経寺の第三世日祐上人がこの地に草創するに当たって、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を奉った寺院と知って納得。 日本古来の多神教の神々信仰と外来宗教の仏教とをあまり抵抗なく結びつけて信じてきた宗教に寛大な日本人独特の神仏習合の風習が、明治政府の神仏分離令をきっかけに、一時、過激な廃仏毀釈運動を巻き起こしたが、純朴な一般信徒の意識まで変えることはできず、今も続いているようだ。 また、妙正寺には、井口家出身の六代目本因坊知伯(享保18年没)の墓が区の指定史跡になっていたが、この地域には井口姓が多く、井口家の墓が多いうえに本因坊六代目の墓と分かる案内板も立っておらず、とうとう見つけられなかった。 ![]() 妙正寺から200メートル先の環八通りを横切り、今川町の観泉寺に行く。 今川町の由来は、桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元から3代目の直房が、ここを今川家の始祖から義元など今川家の菩提寺とし、以後も一族を祀ってきたことに因んで付けられた町名だ。 ![]() 戦いに敗れた義元一族のその後については、全く知らなかったが、「義元の子孫は江戸時代には高家として幕府に仕え、今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めた」(都教育委員会の説明)とある。 今川氏累代の墓は東京都指定旧跡で、これを目的に、訪れてきた観光の数グループと出会った。 ![]() その高さ9メートルに圧倒されながら、大木に覆われた1万坪の境内に入ると、街道を行き来する車の騒音は消え、別世界の中に包み込まれる。 井草八幡宮は、源頼朝が奥州藤原氏の征伐に向かった折、戦勝祈願に立ち寄り、手植えしたという松の木や三代将軍、家光のとき、幕府の手で社殿を造営し、以来、幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があったなど、由緒ある神社だ。 ただ、樹齢900年を保った松の大木は、残念ながら昭和48年1月の強風で倒れ、今では、輪切りにした根元だけが展示され、元の場所には2代目の松が育っている。 ![]() いつもこの時間帯なのか、保母たちに連れられた幾組もの保育園児のグループが参道を行き来しているのとすれ違いながら、八幡宮を出て、善福寺川の源泉のある善福寺公園へ向かう。 この辺り、つまり、善福寺1~4丁目付近は、鉄道沿線から離れ、1時間に5本ほどの路線バスが通る清閑な住宅地域だが、それは、善福寺公園を中心に自然の景観を保つために昭和5年に都市計画法による風致地区に指定されているからだ。 善福寺公園の名前の由来は、4丁目にある善福寺かと思っていたが、そうではなかった。 杉並区教育委員会によると、昔、ここの池の畔に善福寺という寺院があったが、江戸時代の大地震で池の水が氾濫し、寺は流され、その後、復興することなく、廃寺となり、池だけが残った後も、村びとたちは、善福寺池、善福寺川、善福寺村などと以前のように呼んでいたと江戸時代の風土記から説明している。 この辺りの正式の地名は、古くから井荻村、上井草村だったが、昭和39年に合併統合し、町名を善福寺とした。 他方、現在の曹洞宗・善福寺の方は、もとは福寿庵と称していたが、後に、ここの地名にあわせて善福寺と改名したもので、昔の善福寺とは時代的にも離れており関係がないそうだ。 お寺が先にあって、後にその名を町の名前したところは聞くが(高円寺、祐天寺、市ヶ谷薬王寺など)、昔からの地名を寺の名前に採り入れたのは珍しい。 ![]() 善福寺の山門前から先は下り坂になり、善福寺公園へ続く。 公園は、面積約78,000平方メートル、そのうち47%は池だが、昭和36年に市民の憩いの場として整備し、都立公園になった。 公園の池は、「上の池」 と 「下の池」 に分かれ、それぞれの池には湧水場所があり、バス通りの地下で二つの池はつながっている。 ![]() 上の写真は、「上の池」 にある昔の湧水口の 「遅野井」 を滝の形にして復元したもの。 遅野井のいわれは、源頼朝が奥州征伐に成功し、軍勢とともに井草八幡宮で宿泊した際、干ばつから十分な水を得ることができず、頼朝自らこの池の周りに7か所を指定して井戸掘りを始めたものの、なかなか地下水路を掘り当てることができず、軍勢は渇きのあまり、水の出が遅いと言って、江の島弁天の分身をここに招き、祈願したところ7か所から水が一度に湧き出たとの言い伝えから 「遅野井」 と呼ぶようになったと言い伝えられており、湧水口の前には、善福寺弁財天を祀る市杵島神社が建っている。 ただ、今では自然の湧水はいずれも涸れ、井戸水をモーターポンプで汲みあげ、池に流しているほか、池の畔にある杉並浄水所では、昭和7年以来、地下水を水道水の原水として取水し、特に、濾過せず、薬品による殺菌だけで杉並区内に配水しており、この方式をとる浄水所は、都内ではここだけだ。 ![]() 杉並区の善福寺川流域からは、広く縄文期石器が多く発掘されており、古くから農民の集落があり、善福寺川が農業用水として利用されていたことが分かる。 善福寺公園から流れ出た水は、善福寺川となって、最初の橋、美濃山橋の下を流れ、杉並区、中野区内を蛇行しながら中野区の地下鉄丸ノ内線検車区先にある和田広橋あたりで神田川と合流するが、それまでの約10キロの川に沿って遊歩道が続いている。 ただ、川は低地を流れているため、昔から、流域の住民は、しばしば川の氾濫に見舞われ、平成17年9月の集中豪雨の際は、杉並区、中野区内での浸水被害は3千戸に及び、牙をむき出した善福寺川の恐ろしさをも忘れられないであろう。
南蔵院を南に100メートルほど行くと神田川にでる。 手前は豊島区、対岸は新宿区。 その間に架かる鉄製の橋は、ごく普通のものだが、名前はロマンティックな気分にさせる 「面影橋」。 都営唯一の路面電車、荒川線も趣を添える。 フォーク・グループ、かぐや姫の 「神田川」 は、この辺りの光景をイメージしたとの噂も分かる気がする。
![]() 新宿区側の川沿いに立つ区の案内板には、面影橋は、昔、「姿見橋」 と呼ばれ、そのいわれは、在原業平が鏡のような水面に姿を映したという説、家光が鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけたという説、この近くに住んでいた娘が、その美貌がもとで数々の悲劇が起きたのを嘆き、川に映る自分の姿を見ながら和歌を詠んで身を投げたという説のほか、面影橋と姿見橋とは同じとする説、別とする説をあげているが、いずれも史実は判然としない。 昔、神田川を平川といった頃、家康がこの川を江戸の飲料水に利用するために改修に着手し、二代将軍、秀忠が、神田台(現在の本郷台、駿河台)に掘割を作り、一方を、江戸城の北の守りの外濠にし、他方を水道橋から隅田川へと分け、この人工川が神田川の名のいわれだ。 しかし、天保年間(1830~1844年)に刊行された 「江戸名所図会」 には現在の面影橋の位置に 「俤の橋・姿見橋」 があり、安政4年(1857年)の「江戸切絵図」にも 「姿見橋」 は載っているのに神田川の名はないので、神田川、面影橋が正式の名前に決まったのは明治以降のことだろう。 ![]() 神田川のこの辺りから下流の江戸川橋一帯は、山吹の里といわれて、両岸には山吹が生い茂っていたところで、面影橋の北側に 「山吹之里」 の石碑が立っている。 石碑には他に細かい文字も彫られており、誰かの供養塔として貞享3年(1686)に建てられていたものを転用し、ここに置いたと考えられると豊島区教育委員会の掲示板にある。 また、昭和63年の発掘調査で、対岸の新宿区一帯から中世遺跡がみつかり、鎌倉街道への通り道として、集落のあったことが推測される場所でもある。 また、この場所は、大田道灌が鷹狩りに出て、俄か雨に遭い、とある農家で雨具を借りよう立ち寄った際、若い娘が黙って庭の山吹の一枝を差し出したという逸話は、面影橋付近だったといわれている。 ところで、道灌に山吹の花を差し出したあの娘は誰だったのか。 調べたところ、あの娘の墓が新宿6丁目の大聖院(だいしょういん)にあると分かり、出かける。 ![]() 副都心線の東新宿駅で降り、地図を頼りに、それらしい方角へ行くと、人通りの少ない、崖下にある道に面して、西向天神社の正面鳥居の前に出た。 その石段を上ると、本殿の境内に古びた建物があり、天台寺門宗大聖院の表札が掛っている。 ここには、大聖院に伝わる古文書、古記録類の文書が保管されており、新宿区登録有形文化財に指定されていると新宿区教育委員会の掲示板にあったが、建物の外観は、寺院らしくない。 どの入口も窓も締め切られ、これが本堂なのか文書庫なのか、それとも僧侶の私宅なのかさえ分からないまま、横目に見ながら先に行き、木戸(上の写真参照)を開けて先に行くと、広々とした駐車場に出たが、墓所はなく、道を間違えたかと見まわした。 後で調べたところ、大聖院は、西向天神の別当寺だったが、明治時代の神仏習合制度廃止後も神社の文書を継承し、現在もそのままだと分かった。 ![]() その駐車場の目立たない片隅に、生花を供えたあの娘 「紅皿」 の墓があった。 新宿区教育委員会の 「紅皿の墓」 の掲示板には、山吹の里伝説に登場する少女の墓と伝承される中世の板碑(一基)、灯籠(ニ基)、水鉢(一基)、花立(ニ基)は、新宿区指定史跡とあった。 鷹狩りから戻った道灌から山吹の里で雨具を借りることができなかった話を聞いた側近が、その娘は、後拾遺集にある後醍醐天皇皇子の詠んだ和歌に事寄せて、蓑のないことを伝えたのであろうと言われて、道灌は己の無知を恥じ、これを機に和歌の道に励み、紅皿を城に招き、和歌の友とした。 道灌の死後、紅皿は尼になり、大久保に庵を建て、道灌の菩提を弔い、死後、この地に葬られた。
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